法 輪 寺


 
くわんのんのしろきひたひにやうらくの かげうごかしてかぜわたるみゆ 秋艸道人

 歌集 『南京新唱』 および 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 にある歌で、會津八一は、「明治四十一年の八月、私が初めて、奈良へ古美術行脚に出かけた折に出来た二十首ばかりの中のもので」 と書いているが(『渾斎随筆』)、その20首の草稿にはこの歌はないという(『會津八一のいしぶみ』)

 なお、歌集ではいずれも 「くわんおんの…」 となっている。歌碑の原稿では 「くわんのんの…」 となっているためにこうなったが、その書いた時期については不明である
(會津八一記念館所蔵)この歌碑は斑鳩の法輪寺講堂の右手に建ち、1960 昭和35年11月に除幕した。八一の生前から計画されていたが実現したのは没後4年目であり、没後最初に出来た歌碑である。碑面の文字が読みにくいのが残念である。

 法輪寺は、聖徳太子の子山背大兄王が太子の病気平癒を願って建てた古寺で、法起寺と並んで三重の古塔が知られていた。
しかし、法輪寺の塔は1944(昭和19)年に落雷により焼失した。戦後、作家幸田文をはじめ多くの人の協力と宮大工西岡常一棟梁の技によって三重塔が復活したのは1975 昭和50年だった。再建からすでに40年を超えるこの塔は今はすっかり境内に溶け込んでいる。ただ、江戸時代に建てられた金堂が老朽化のため立入り禁止になっているのが痛ましい。
 
 ところで、この歌は歌集 『南京新唱』 では 「法輪寺」 という詞書だが、『鹿鳴集』 では 「帝室博物館にて」 となっている。これについては會津八一が、この歌を詠んだ時の記憶が法輪寺の十一面観音菩薩だったのでそうしたが、その後法輪寺を再訪してみると観音菩薩に瓔珞がないので、奈良の博物館に展示していた同寺のもう一つの菩薩像だったかと思い 『鹿鳴集』 を出す時(1940年刊)に 「帝室博物館にて」 とした書 いている。その直後に同寺を訪ねて住職とこの歌について話した時に、実は瓔珞を取り外したのは1909 明治42年だから八一が初めてこの寺を訪ねた時には確かに観音菩薩は瓔珞をつけていたと古い写真を見せてくれたので、やはりこの歌は法輪寺の十一面観音菩薩を歌ったものだと書いている(「観音の瓔珞」1940年稿 『渾斎随筆』 所収)

 さらに、同じく 『渾斎随筆』 に収められた 「自作小註」
(1942年稿)には、仏教考古学者石田茂作編の 『法輪寺大鏡』 の写真の十一面観音菩薩の額には瓔珞があるので、確信したと書いている。そして観音菩薩の顔の写真を挿入している。してみると、外されたはずの瓔珞が何故か再び観音菩薩の額の上に飾られたことになる。もっともこの像は 3.6m もあるので、歌から感じられるような微風に揺れる繊細なものではないが、八一の心の中の光景だろう。八一自身が、「私の心の中に、忽ち一陣の風を捲き起して、それを動かしたのかもしれぬ。さうだとすれば、むしろこれにも驚かされる」 と書いている。(石田は1950年に法輪寺を発掘調査して創建当時の同寺の様子を明らかにした。)
 
(會津八一歌碑巡礼 奈良 5)