皇居に面した三宅坂の交叉点に三人の裸婦像が立っている。すぐ後に最高裁判所が建ち、お堀に面して眺めのよい場所だが人通りが少ないのでこの像の存在を知っている人は少ないかもしれない。
 
  台座にある銘板を読むと、日本電報通信社(現電通)が会社創立50年を記念して平和を象徴する広告記念像として1950(昭和25)年 7月に設置したとある。
 
  裸婦像の作者は菊池一雄(1908~85)である。菊池は藤川勇造に師事、渡仏してデスピオに学んだ。この両名はロダンの助手をつとめていたから菊池の彫刻がどのような流れを汲むものかが分かる。
 
  三人の裸婦像が街角に立つ。今では珍しくもないことだが、戦後まだ 5年という時に国会議事堂、皇居のすぐ近くに出現したのはおそらく画期的なこと、話題になったのではないだろうか。もしかしたら東京の街角にはじめて登場した裸婦像かもしれない。因みに有名な十和田湖の二人の裸婦像(高村光太郎作)は1953年である。
 
  まさにこの像は戦後の平和日本を象徴するものだったといえよう。しかしこの像が立った直前に朝鮮戦争が勃発しているので皮肉なことに戦後の平和日本は大きな曲がり角を迎えていた時でもあった。 
 
 
 
 
 
  ところで、この三人像をよくみると台座が不似合いなほど立派なのに気づく。その上台座の周囲の造りも立派で裸婦三人像のために造ったとは思えない。もしかしたらここには軍人の立派な銅像がかつては建っていたのではないか。
 
  国会議事堂の正門から皇居の方向に広い道路が一直線に通っているが通りの左側(北側)は広い公園になり一角に憲政記念館が建っている。この北側を通る道路の三宅坂交叉点に例の三人像が立っているわけだが、憲政記念館の建つところには戦前は参謀本部があったという。参謀本部とは戦前の帝国陸軍の中央統帥機関である。要するに戦争の最高の指導部があったことになる。
 
  さらに調べるとこの周辺には山縣有朋、大山巌、寺内正毅の銅像が建っていたことが分かった。山縣像は国会議事堂に近い方だというので除くとして大山か寺内のどちらかが三宅坂の交叉点にあったのだろう。大山巌(1842~1916)は薩摩出身の軍人で山縣とともに明治日本の陸軍を代表する存在だった。馬に乗る大山の銅像は1919(大正8)年、新海竹太郎の作だが戦後撤去されたという。寺内正毅(1852~1919)は長州出身の軍人だが明治末から大正にかけて陸軍大臣や総理大臣を務めた。馬に乗る銅像は1923(大正12)年北村西望の作だが戦時中に銅鉄資源回収のために撤去されたという。
 
  こうして比べてみると三人の裸婦像以前には大山巌の軍服馬上の像があった可能性が高いと思う。三人像の出現は、まさに軍国日本の象徴から平和日本の象徴へと時代の大転換を示す出来事だった。
 
  なお、靖国神社前の九段坂公園に現在ある大山巌の銅像が、この時撤去された像ではないかと秘かに考えているのだがどうだろうか。さらに付け加えるならば、参謀本部のあった場所は江戸時代には彦根藩井伊家の屋敷が、三人像の立つ場所は三河田原藩三宅家の屋敷があった場所で、それぞれ井伊直弼、渡辺崋山といった人物ゆかりの場所でもある。