『朝日新聞』 の 「おやじのせなか」 という声欄特集によせられた読者の投書の一つです。        
  千葉の疎開先まで往復100キロの道を自転車で会いに来てくれたおやじの思い出です。
  私も同じような経験をしているので他人事とは思えませんでした。
  しかもこの方は東京大空襲で両親と妹さん2人を亡くしています。
  その悲しみと無念を思うと涙が出てきます。
  私も同じ東京大空襲で家を焼かれ2度と思い出の地に帰ることは出来ませんでした。
  幸い家族に犠牲者は出ませんでしたが
  おやじは敗戦前後の過労で戦後5年、1950年に45歳の若さで亡くなりました。
  
     こうした経験をした人たちはきっと考えていると思うのです。
  日本は2度と戦争をして欲しくない。
  戦争に備えるのではなくて、戦争をしなくてよい国にするように全力を傾けてほしいと。
 
 
 
 
 
  上の記事は大きくなります。そして以下は私の学童疎開の経験です。
 

 

 わが家が東京大空襲で焼けてしまう前の年、私は学童集団疎開で学校の友だちと一 緒に埼玉県の和土村に向かった。兄が6年生、私が4年生の時である。 当時の様子が知りたくて国会図書館で1944(昭和 19)年8月の『朝日新聞』を調べてみたところ、東京の学童集団疎開の第一陣が出発したのは 84日で、板橋区の学童が群馬県妙義町に、品川区の学童が都下瑞穂町に向かったことが分かった。新聞には以後毎日のように集団疎開の出発と疎開地への安着のニュースが掲載されていた。

 私が通っていた神田区(現千代田区)の練成国民学校(現在は廃校)については20日の新聞に次のように書かれていた。

「 埼玉へも学童安着
 埼玉県への学童疎開の神田区五軒町練成国民学校二百五十四名は阿部校長、専任訓導に引率され、十九日午前九時大宮経由総武線岩槻駅に到着。男子は南埼玉郡和土村普慶院、法華寺、女子は隣村柏崎村浄国寺、浄福寺にそれぞれ落着いた。」

 練成国民学校は山手線御徒町駅の近くにあったが出発した日の様子は何も覚えていない。 岩槻駅に午前9時に着いているので随分早く学校を出たことになる。駅からは杉並木の石ころ道を約 4km歩いて普慶院に着いた。6年生と4年生が一緒だったので兄と私は同じお寺での生活となった。法華寺は 5年生と 3年生だった。 新聞の記事には、912日で合計223000人を送り出し、残り2000人も一両日中には出発の予定とあるので、総計225000人の東京の学童が各地に集団疎開したことが分かった。自分がこの数字に含まれているのでなにやらこの記事が身近に感じられるのが不思議だ。

 

 疎開地での生活の様子については、これまでに体験者の書いた本がいくつも出版されているので読んだことがあるが、いつもよくこんなに細かく書けるものだ、よく覚えているものだと感心することが多かった。私などは断片的にあれこれと思い出すくらいだ。

 私と兄が生活することとなった普慶院はゆるい坂道を下ったところにあった。学童の数は覚えていないが新聞の記事からすれば60名くらいはいたのだろう。境内には少し遅れて食事を作る小屋が建てられたように思う。勉強は村の学校の片隅で行なわれた。あまり楽しかった記憶もないがさりとて辛くて辛くてといった記憶もないので、友だちと一緒にそれなりに楽しく過していたのだろう。

 ただ、東京への空襲がだんだんと烈しくなり、一部の友だちの家が戦災にあったときには厳粛な雰囲気となり慰問の品が届いたりした。やがて友だちの家が次々と戦災にあって焼けていくともはやそれが日常的になってきて特別なこともなくなってしまった。家族が会いに来る日もあった。そんな日は駅からの杉並木の途中で土産のおいしいものを食べた記憶がある。宿舎ではそんなことは許されなかったからだ。お寺の当時の写真がある。草葺で雨戸の外に縁側がついている。寒い冬の日にはこの縁側で日向ぼっこをしながらみなで下着のシラミ退治をした。

 大空襲の晩だったろうか東京の方の空が真っ赤になっていた。皆で今夜の空襲は凄いぞと話した。田舎でも空襲警報や警戒警報はよくあり、またアメリカの飛行機が飛んでいくのを見たこともあった。疎開していても戦争はすぐ近くにある感じだった。

 やがて新しい年になると 6年生は卒業でそれぞれの家に帰っていった。そして新しく 3年生がやってきた。私は 5年生になった。学校では歴代の天皇と教育勅語を暗唱させられた。815日には宿舎の庭に整列して玉音放送を聞いた。私は目の前の生徒にブヨが止まりそうなのが気になって仕方なかったが、とにかく戦争が終わったことは分かった。だが私をはじめ殆どの友だちは戦災にあっていたので懐かしい自分の家には帰れなかった。

 


 

 

 高井有一の『少年たちの戦場』(講談社文芸文庫)を読んだ。作者は短期間ながら集団疎開を埼玉県で体験している。この体験を核に集団疎開の人間模様を学童・引率教師・学童の親・村の関係者といった複数の観点から描き、しかも昭和42年に亡くなった引率教師が残した手記をめぐって学童疎開を現在につなげようといった意図もみられる。私は学童の体験からしか疎開をみようとしなかったが疎開の真実にせまろうとするならば確かに複数の観点から考えてみる必要がありそうである。それにしても半世紀以上過ぎた今ではもう遅すぎるのではないだろうか。

 小説の最後の方で、引率教師の死を機会に昔の仲間が何人か集まる会を欠席した主人公氷川が妻に向かって、「あんな会では、当り障りのない遣取りをするだけさ。何もかも楽しい思い出にしちまってね。いくら同じ経験をしたと言っても、あれから二十年以上も経ってるんだよ。その間に、皆、銘々全く関係のない生活を積み上げて来たんだ。味わった経験は同じでも、それの持つ重さや色合いは、人によって大変な差が出来ている筈だよ。そういう事を一人一人真剣に話し始めたら、収拾がつかなくなっちまう。だから、あの頃は苦しかったが、時が過ぎればいい思い出だ、くらいの所でごまかして調子を合わせる事にはなるさ。何時までも経験を共有出来るなんて事を、俺は信用出来ないな。自分の過去は、自分独りで引摺って行くよりどうにも仕方がないんじゃないのか」と語るのがこたえた。その通りだと思った。疎開の体験者が疎開地を訪ねて関係者と交流を重ね記念碑まで建てたといった話をたまに聞くが、一方では何度誘われても決して行こうとしない体験者も私の近くに確かにいる。


 和土村に行ってみた。岩槻市になっていたのは知っていたが今はさいたま市岩槻区になっていた。駅からの杉並木は全く姿を消して建物が途切れることなくつながり、かつての純農村風景はすっかり近郊住宅地に変わっていた。小学校(国民学校)に行ってみたが思い出につながるのは校庭に立っている校門の高い 2本の石柱だけだった。

 疎開していた普慶院も訪ねた。疎開が終了して以来初めてだった。引率教師だったN先生はすでに亡くなったが、当時 6年生だった人たちと訪ねてきたこともあったそうだ。4年生だった私の仲間がグループで訪ねた話は聞いたことがない。
 
 寺は何もかもが変わっていた。疎開した時の住職は敗戦のよく年に亡くなり、次の住職もその次の住職も亡くなっていた。真言宗豊山派の寺ということも初めて知った。草葺で外縁をめぐらした本堂をはじめ山門も庫裏も建替えられていた。鐘楼だけがもしかしたら当時のままかも知れない。境内は思ったより広々としていた。山門から一直線にゆるい上り坂になっているのだけが昔のままだった。畑がまだ残ってはいるものの建物がすぐ近くまで迫っていた。
 

 人も建物も周囲の風景も、何もかもが変わっていた。思い出の感傷に浸ろうにもその手がかりすらないようだ。女子が疎開していた隣りの常福寺にも寄ってみたが同じようだった。かくて私の集団疎開の時代は記憶の中だけにしかないことが分かった。しかし私の和土村での生活は生涯消えることのない経験として今も私の中にあるのは確かだ。

 

    
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