写真家土門拳は無類のこども好きで、こどもの中に入っては遊び、写真を撮ったという。そのためこどものたくさんいる東京の下町にしばしば出かけた。「犬や猫だって、うまいものを見れば舌を出す。それと同じことが人間でも見受けられる。実に切ないものだ。そういう人間のほんとの感情を写真に出したい。うわべの、絵そらごとのものでなく、人間の心から出た動き、表情をつかみたい。」 といった土門の思いがこどもたちのたくさんの写真となり、その一部が写真集として私たちの目の前にある。私は東京の下町の育ちなので、こどもたちの写真を見るとまるで自分のこども時代を写してくれたように感じてしまう。
 
 土門拳が築地明石町の二階家に引越したのは1939(昭和14)年 30歳の時だった。それから麹町のマンションに1966年に移るまでの約30年間彼は明石町に住んでこどもたちと遊び、「こどもたち」をはじめ 「風貌」 「室生寺」 「ヒロシマ」 「古寺巡礼」 など多くの写真集を世に出した。
 
 こども好きの土門は明石町のこどもたちと一緒によく佃島まで遊びに行ったそうで、街にこどもがいなくなると 「また土門さんが連れて行ったのね」 とお母さんたちは安心したという。( 『土門拳の写真撮影入門』 都築政昭 )
 
 佃島へは今は佃大橋を渡ればすぐだが、この橋ができたのは1964(昭和39)年東京オリンピックの年で、それまでは隅田川最後の渡し(渡船)が運航されていた。橋の建設の関係で佃川が埋められ橋も壊されたりしてかつての佃島は今は拡大発展した周辺地域にまったく呑み込まれてしまい、小さな木造の家が建てこんだ昔の街の面影は住吉神社にわずかに偲ぶしかない。かつては土門も一緒に遊んだろうこどもたちの声を聞くことも稀になった。
 
 築地明石町が明治日本の幕開けと深い縁があったように、佃島は徳川家康による江戸時代の始まりと深い縁を持っていた。もともと家康と縁のあった摂州(大阪)佃島の漁師が江戸開府とともに命じられて33名移り住んだのにはじまるという。最初は日本橋の近くの浜町に住んで白魚など将軍献上のための漁を許されていたが後に隅田川の干潟を埋め立てて佃島となったという(1644年)。
 
 江戸城の天守閣をはじめ江戸の町の大半が焼けたという明暦の大火(1657年)後の江戸再建期のころ熱心な門徒だった佃島の漁師が願い出て建てられたのが築地本願寺だった。しかしそれから約250年後の1923(大正12)年の関東大震災で本願寺は焼失した。
 
 大正末年から昭和の初めは東京をはじめ川崎・横浜は都市復興が大規模に進み、町には災害に強い鉄筋コンクリート造りの建物が続々と誕生した。今の築地本願寺が仏教寺院としては珍しいユニークなデザインのコンクリート造りなのはこうした時代の反映と言えるかもしれない(1935 昭和10年、設計伊東忠太)。1929年には和田堀(杉並区)にあった陸軍火薬庫の払い下げを明治大学とともに受けた本願寺はこの地に大規模な公園墓地を建設して墓地を築地からこの地に移した(和田廟所)。
 
 
 
  この墓地に佃島の先祖33名の墓があると聞き、訪ねてみた。墓地の中ほど、桜並木に面してめざすお墓があった。墓石には 「佃島祖先参拾参名之墓」 と刻まれ、その脇には佃島の由来を刻んだ石碑が建ち(1932年)その歴史を今に伝えている。
 
 話が築地明石町から離れたようだが縁の深い佃島のことを少し紹介した。 
 
 
 
 
 
 
  
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