川でも海でもいいが水のほとりに立って広々とした風景を眺めるのは気持のいいものだ。 思わず深呼吸をしたくなる。また船に乗って岸辺が近付いてきたり横に流れていく風景を眺めるの良いものだ。しかしこうした水のほとりほど時代とともにその姿を変えていったものもあるまい。人気のある東京お台場の様子とそこから眺める海の景色はその典型といえよう。

 水上バスに乗って隅田川を下り、永代橋を潜って少し行くと川が二つに分かれるが、そこが佃島になる。今は月島とつながっているのでとても島には見えない。しかも再開発でいくつもの高層マンションが建ち、川岸はきれいに整備されているが、17世紀 の半ばに大坂の漁民がここに住みついてから明治になるまでは本当に小さな島でこの周辺はもう海(湾)だった。まだ放水路のない頃に台風や大雨で隅田川が増水したときによく島が水没しなかったものだと思う。

 船はやがて佃大橋を潜るが、その手前左手には大きな鳥居が見える。佃島の住吉神社だ(写真)。橋を過ぎると右側は浜離宮の辺りまで江戸時代にはいくつもの大名屋敷が連なり木々の緑が海辺に影を落していたことだろう。今は聖路加ガーデンのタワーとホテルが建ち、川岸は公園のようになっている。そして勝鬨(かちどき)橋の先は有名な魚河岸だ。
 

 
  この辺りの江戸時代の水のほとりの風景が大きく変わったのは今から160年前、1853年のペリー来航に始まるあの激動の時代だった。幕府は諸外国と結んだ条約の江戸開市の約束によって外国人居留地の建設に着手することとなり、その場所に選ばれたのが佃大橋の右岸の地域だった。幕府は大名屋敷を取払って居留地の建設を進めたが、完成を見ぬうちに幕府が崩壊してしまった。しかしそれを引継いだ明治政府によって完成した居留地が今の明石町の辺りである。町の南にあたる海岸には築地ホテル (和洋折衷二階建)も完成したが明治 5(1872)年には焼失してしまい、やがてすぐ近 くにメトロポールホテルが開業した。居留地近辺の海には帆船が行き交い、横浜にも海上で直結し、明治の新しい時代にこの居留地は首都東京で外国に最も近い異国情緒溢れる町となった。この町はまた宣教師によるキリスト教布教の拠点ともなり、教会や学校が建てられていった。

 水のほとりの町の変貌とともに、水のほとりからの眺めもまた変わっていった。明石町の海辺に立てば、海の彼方には房総の山々を眺めることが出来たが、やがて佃島に続いて月島の埋立てが進むと、海の風景も変わっていった(月島1・2号地は明治29年完成)

 海の水は町の中を縦横に走る掘割によって潮の香を町の人々に運んだ。居留地を囲 む掘割は途中で水を分けて本願寺と周辺の町を四角にめぐり演舞場の近くで再び分かれていずれも海に帰っていった。この築地川にはたくさんの橋がかかって太公望が腰を落着ける場所となり、きれいな川の流れは夏ともなれば水泳場になったという。またこの近くには新富座、歌舞伎座があり、西洋と江戸が隣り合わせになっている町でもあった。
 

 
 このような町で江戸と東京と西洋の空気を吸いながら育った画家が明治11年生まれの鏑木清方(かぶらききよかた)である。彼は20世紀のはじめに世に出てから明治・大正・昭和の三代に わたって東京の人々とその風俗を絵に残し、また文章にも残してくれた(『明治の東京』 岩波文庫)
 
「分けても築地明石町は、少年にして初めて触れたる異国情調の豊かなりし思い出の忘れがたく、あの白々とした海近い街路は、行人稀なれば埃もなく、カントリー・ハウスをめぐる、柳、ポプラ、夏は紫陽花、立葵の咲く庭に籐椅子据えて、金髪の麗人の書を読むが、浅黄色のペンキやや古びたる柵を越して窺われ、海に沿うたるメトロポール・ホテルには常に観光の客絶ゆることなく、入江に繋がる帆船のマスト林立して、佃の漁村秋寂びたる夜など、朱盆の如き月、住吉社頭の大鳥居より出でて、うそ寒さに袖掻き合せて磯の香の身に沁む海辺を独り往けば、ホテルの広間銀燭煌々として歓呼の声、四辺の静寂を破る。……他日ここに泊まらるる身分とならば、海に面したる一室を専用して長くこのホテルに宿りたしと願ったのであったが……今は亡し。」(「築地明石町」 昭和 2年) 

 「居留地にあった外人の住居は、たいてい前庭が広く取ってあって、白ペンキか水色ペンキで塗った低い木柵で往来を劃り、季節の花を絶たなかった。その木柵に絡んで朝顔の花も咲いていたし、立葵が群がり簇り立って、梅雨あけ頃、梢へ日々咲きのぼってゆく、その花かげに籐椅子を据えて、金髪の若い女が手仕事をしているのもよく見かけた。」
(「築地川」 昭和 9年)   

「メトロポール・ホテル。それはまだ帝国ホテルの出来なかった時分、築地、上野 の精養軒と共に観光外人の定宿であったが、場所はよし、外人の経営だったので、門内には轍の跡の絶えまはなかった。別にとりたてていうほどの建築ではなく、木造漆喰塗のざっとした白亜館ではあったが、窓外直ちに房総の青螺を瞰み、海風室に満つというありさまで、眼の下の佃の入江には、洋風の帆船マストをならべ、物売る船、渡しの和船がその間を対岸の佃島へ通う。もう月島の埋立も七分通り出来てはいたけれども、芦、芒、茅の類が人の丈より高く、工場の気笛ならぬ葦切の声が喧しく啼きつれていた。」
(同上) 

 「明石町と入江を挟んで対しているのは佃島である。今では相生橋で深川につなが り、月島と境もわからないようになってしまったが、まだ月島埋立の行われなかった時分は、橋もなければ全くの離れ小島、大きいものは住吉神社の大鳥居だけ、島人というのは漁師ばかりで、名物佃煮をこしらえる家には、年中洗ったことのないという大釜が据えてある。……磯の香は巷に満ち、水苔のついた石垣には豆蔦が絡んだように船虫が無数にのぼって来る。夕汐がたぶりたぶりと岸によせる頃になると、真昼には人気もないように静まりかえった島の船着場へ、夕河岸の船が帰ると一としきり船いくさでも始まったような騒ぎになる。……小僧が岸へ上ると、西に東にちりちりになって、「いわしこーい、いわしこーい」 の威勢のいい呼び声が、下町の大路小路へ溌剌として響きわたる。」
(「築地界隈」 昭和 8年)
 

 
 鏑木清方のこうした文章を読むと、代表作の一つといわれる、あの異国情緒溢れる美人画 「築地明石町」 が生まれるべくして生まれたことがよく分かる。それにしても清方のあこがれたメトロポールホテルはいつなくなったのだろうか。

   木下杢太郎に 「築地の渡し」 という詩がある(明治43年、25歳)。
 
  房州通ひか、伊豆ゆきか。
  笛が聞える、あの笛が  
  渡
(わたし)わたれば佃島。
  メトロポオルの燈が見える。 

 後年この詩を第一詩集 『食後の唄』 に収めるにあたり、「築地の渡より明石町に出づれば、あなたの岸は月島また佃島、燈ところどころ。実に夜の川口の眺めはパンの会勃興当時の芸術的感興の源にてありき。云々」 との序を付した。

 このホテルのすぐ近くに明治33
(1900)年宣教師によって病院が建てられた。これが聖路加国際病院の始まりである。この前年条約改正によって居留地の歴史は終わりを告げていた。この病院の場所には居留地になる前には豊前(大分県)中津藩奥平家の中屋敷があった。この中屋敷こそ18世紀半ばすぎに藩医前野良沢が杉田玄白らと 『解体新書』 を完成させた場所であり、さらに100年ほど後には同じ藩の福沢諭吉が藩の青年たちに蘭学を教えた場所でもある。鎖国下の日本で西洋に向けて必死に窓を開けようとした先人の遺跡が、時代が変わると西洋に最も近い場所になったのである。歴史の不思議な因縁が深く感じられてならない。
 

 
 
 
 1771(明和 8)年 3月、『ターヘル・アナトミア』 を片手に小塚原刑場で腑分けを見 たその翌日から始まった杉田玄白らの翻訳の大事業は、3年余の歳月を経て 『解体新書』 として出版された。これが蘭学の本格的な発展の第一歩となったことはあまりにも有名である。同じ中津藩出身の福沢諭吉が1858(安政 5)年に蘭学塾を開いて、後の慶応義塾の起源となったのもここであり、しかも杉田玄白の 『蘭学事始』 を初めて出版 (明治 2年) したのも福沢だった。

 当時幻の著作であった同書の写本を幕末に神田孝平が江戸で発見したときの喜び、 杉田玄白らの苦心に感泣して出版を決意するに至る経緯は諭吉の 「蘭学事始再版の序」 (『福沢諭吉全集』 第19巻) に詳しいが、「書中の紀事は字々皆辛苦、就中明和 8年 3月 5日蘭化先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向ひ,艫舵なき船の大海に乗出せしが如く茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の 一段に至りては,我々は之を読む毎に,先人の苦心を察し,其剛勇に驚き,其誠意, 誠心に感じ,感極りて泣かざるはなし」 といった箇所などはまことに胸にせまるもの がある。
 

 
 文明開化の先頭を行った明石町一帯は、今はこんな歴史も忘れられたかのような静 かな町になっている。「初めのうちの居留地こそは新時代のナゾと夢とに充ちた、そこには何といっても外人が身親しくいるのであるから、銀座煉瓦よりも一層魅惑深い地域・別天地であったものも、われわれなどが知ったころの築地居留地は(明治末・大正 初め)、すでに 「火の消えた」 居留地であって、面白さはあったけれども 「夢」 はなく」 と、画家木村荘八(明治26年生)は 『東京繁昌記』(岩波文庫) に書いている。銀座や横浜がその後も発展を続けていったにもかかわらず、明石町からはだんだん外国人が去り、学校も移転していった。その理由についても木村は次のように書いている。 
     
「もし築地近く(大川口)の水運が良く、品川の港湾が深かったならば、今ごろは -その後やはり八十年の星霜- 「東京港」 の終着点・出口・入口として、世界的 な築地になっていたことは明らかだった。川口周辺の埋立地が今の 「羽田」 に変 っていたかもしれぬ。それは横浜と東京とを合せたものだったろうからである。品川の海は水入六尺以上の船を入れることの出来ない 「遠浅」 だということ、それでは 「受入体勢」 は如何に整のっても、その先へ進歩することは出来ない 「運」 だった。」
 

 
 聖路加国際病院の前の小さな三角の緑地には 『解体新書』 と 「慶応義塾発祥」 の二 つの記念碑が建っている(写真)。この記念碑を見ると私はいつもこうした明石町にまつわる出来事のくさぐさを思って感慨深いものがある。学生の頃には佃大橋のたもとから佃島までまだ公営の渡船が運航されており(橋はもちろんなかった)、勝鬨橋も時間を決めて橋の中央を船の通行のために跳ね上げていた。橋の上を風に吹かれて佃島に向かいながら、私は渡船に乗ったり、橋の開くのを見るために何度もこの辺にやってきた頃のことを思い出していた。
 
 佃島のとなり、月島は “もんじゃやき” の店が多いので知られているが、岸田屋という居酒屋もある。あまり大きくないごく普通の飲み屋だが昔のままの雰囲気があり、日本三大居酒屋の一つにおす人もいるくらいなのでいつも混んでいる。今日はうまく座れるかなと頭は現実に引戻され、佃大橋を渡る私の足は急に速くなった。
 
 
 
  
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