1990年9月に土門拳が亡くなって28年になる。しかし最後の11年間は昏睡状態だったから実質は39年になる。しかしその作品、存在は依然として輝いている。
 
 最近 『土門拳の写真撮影入門』 (都築政昭、ポプラ新書、2017年11月) を読んだが、2004年の出版以来版を重ねてきたものが新書版になって再登場したわけである。写真ファンにはありがたいことである。土門の写真集はいろいろあり、山形県酒田市には立派な記念館があるわりにはその生涯や写真家としての姿、写真理論についてコンパクトに紹介する本があまりないからだ。著者はNHKでドキュメンタリ番組の制作に携わり、また映画やロシア文学の評論で知られている。
 
 デジカメ全盛の様子を土門は知らないわけだが、その写真を趣味としている私には、彼の写真に対する厳しい考えや姿勢を知るにつけ恥かしい思いをするばかりだ。
 
 本書の序章より。
 
 「土門拳の写真は、時代の壁を越えて、見る者の心を強く捉え、感動させる。日本の伝統文化に新たな光を与え、そこにある美の発見者としての業績と同時に、現代を生きる憂国の士としての鋭い眼で現実の社会と闘ったフォト・ジャーナリストとしての業績、それらは時間や空間の壁を突き破って直接訴えかけてくる。それは写真家・土門拳が、表現者としてその時代を積極果敢に生きた証であり、彼の芸術写真も報道写真も、彼の胸中で捉えた感動を一瞬の中に写真化し、永遠化したものばかりである。」
 
 本書に引用された土門の言葉より。
 
 「リアリズム写真は現実を直視し、現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の精神の写真的な発現としてあるのである。(中略)カメラを完全に一個の道具として、自分というものを社会へまともに直結させる必死の生き方であり、方法であるにすぎない。今日ただ今に生きる人間としての怒りや喜びや悲しみが結晶されている世界である。」
 
 「ぼくの写真家としての中心テーマは 『日本人』 ということだ。もし長生きできたら、日本人ということから人類一般へ飛躍ができるかも知れないナ。しかし、さしずめ、写真家としてスタートして以来、ぼくの中心テーマは、つねに日本人だナ。日本人の生き死に、日本人の喜びと悲しみだナ。」
 
 「微妙にして美しいものにひかれるこころを養おう。それは自然のすみずみ、野の花、流れる雲にある。人間ならば、含羞の人にある。」
 
 土門拳が愛した室生寺の新緑の頃の私の写真。
 
 
 
 
 
 
 
    
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