正方形をひし形のように置き左の端から象の鼻を垂らすと北海道の形になる。そうすると二つに割れた鼻の先端の穴に位置するのが函館になり、鼻の付け根にあるのが小樽、その西の半島が積丹(しゃこたん)半島ということになる。この函館から小樽までの日本海側 を走る約 500kmの道を追分ソーランラインともいうそうだ。「ニシン来たかとカモメ に聞けば わたしゃ立つ鳥波に聞け」 とあるように、このルートには昔はニシン漁で賑 わった浜が続いている。 人が亡くなったときばかりではなく、滅びさったもの、失われたものにたいする哀惜の情は人の常であり、私の旅のモチーフともいえる。その消えたものが少なからぬ影響をその時代に与えていたとしたらなおさらのことである。

 もうだいぶ前のことになるが、数の子は大好きだがニシン漁のことは何も知らない私はニシン漁の昔を追って函館から江差・寿都・小樽へと車で北上した。蝦夷地(北海道)に和人が進出したのは江戸時代より前だが江戸時代になると江差に松前藩がおかれた。その領域は象の鼻の先端部にあたるが、藩の歴史は広大な蝦夷地に住むアイヌの人たちの領域を侵し生活を奪う歩みであった。

 ニシンは北海道周辺の海を回遊して成長し春になると西海岸の浜に産卵のために大群で押し寄せたので春告魚ともいった。江戸時代半ばの記録には、「鰊漁まことに海内一の大漁なるべし。数十年来不漁ということなく、漁時分にはおのずから松前へ寄り来て年々時節をたがえず。春分一〇日過ぎより寄り来る。おおよそ二〇日ほどのうちに二、三度寄り来りて、そのとき漁を得れば、翌年までの渡世これにてすむなり」 と書いてある(『北海随筆』)。ニシンの大漁が浜の人たちの生活をいかに潤したかがわかるが、もう一つ実感がわかないのはニシン漁について私が何も知らないからだろう。

 やがて蝦夷地と東北・北陸各地との日本海の海運が発展してはるばる大坂(大阪) まで千石船が行き来するようになると江差は交易で栄えるようになり、またニシン漁でも賑わうようになった。ところがニシンの大群はなぜか時代が下がるとともに、より北の浜へと移り、大正・昭和には小樽より北の西海岸(留萌周辺)が後志(しりべし)地方(追分ソーランライン)とともに主要な漁場となっていった。
 

 
 
 
 
  江差には函館から車で 1時間半かかった。今は往年の賑わいはなく静かな町となっているが旧街道を整備して “いにしえ街道” と称し、旧家や明治時代の郡役所の建物を復元するなど町並みの整備に力を注いでいるようだった。旧家の一つ中村家の建物は、明治20年頃に近江出身の商人が建てたと伝える。同家は海産物問屋と回船で手広く商売を営んでいたという。 海に背を向けた建物は大きな切妻の屋根を街道に向けた総二階建てで、海に向かって驚くほど奥が深い。入口右側に細長い土間が通り、居住部分は6間でその後に文庫蔵・土蔵が続き、さらにハネダシが海に突き出ている。今は海岸に道路が造られたので海と家は離れているが昔は海と家はつながっており、沖の千石船から荷を移した小船が直接このハネダシに着いて蔵に荷揚げしたという。展示してあるパネル写真には海にハネダシを突き出した家が並んでいるかつての特色あるこの港のようすを見ることができる。もう一枚の写真には浜に人が群れて魚を手にしている。ニシン大漁の写真なのだろう。 
 
 
 
 
 かつてのニシン漁の賑わいを少しは感じることのできたのは翌日寿都(すっつ)町歌棄の佐藤家を見学したときだった。明治の半ばに建てられた総二階建てのこの家は一階が和風、 二階が洋風の造りで棟には六角形の高窓がついている。普通の農家3軒分はあろうかという大きさで、一階には9室、二階には5室あり、入口の右側部分はかつては郵便局であったという。一階中央の部屋(ジョウイ)から上を見ると吹き抜けとなっている高さ10m近くもある高窓から囲炉裏の自在鍵となる太い長い竹筒が一直線に吊り下げられている(写真)。ジョウイはこの家の主人の居る部屋であり、こうした建物の造りは類例のない独特なものであろう。この歌棄の浜はかつてニシン漁で大変賑わったことで知られており、佐藤家もその頃は今の建物の周りにいくつもの蔵などが建ち並んでいたという。ただ一人でこの家を守り親切に応対してくださっ
た老婦人の孤独な姿が忘 れられない。
 
 
 
 記録によると佐藤家は最盛期には68カ統を経営していたという。もともとニシン漁は魚が網に絡まるのを捕る刺し網漁が主だったが、押し寄せる魚の大群を効率よく捕獲するために盛んになったのが建網による漁だった。建網は網を柵のように張って魚群を四角い枠の中に誘導して一気に捕獲するやり方で、多数の漁夫と船の共同作業であった。建網 1基に20~30人の漁夫(ヤン衆)を雇いこれを 1カ統といった。従っ て68カ統では1400~2000人もの漁夫を雇うことになり、そのための諸道具、さらには捕獲したニシンを処理する浜での膨大な作業もあり、大変な大事業であったことが分かってくる。目の前の静かな海、小さな砂浜の風景からはとても想像できないことである。佐藤家の近くには 「鰊御殿」 の看板を掲げた旅館橋本家がある。この家は佐藤家から独立した明治時代の建物で、ニシン漁の網元に物資や資金を貸す資本家だったという。保存状態のいい大きな建物である。噴火口のように丸い寿都湾では今はシラス漁が盛んらしく、昼食で食べた極小シラスの佃煮がとてもおいしかった。
 
 
 
 
 浜に押し寄せるニシンの大群とはそもそもどのくらいなのだろうか。「ニシンは岸の波もそのために盛り上がるかと思われる勢いで寄せてくる。雄ニシンの出す白子(精子)で海は白泡立っている」(『風土記日本』 第6巻 平凡社)と書いてあるが、もう一つ実感が湧かない。またこんな記述もある。「一枠二〇〇石、尾数にして五〇万から六〇万尾もはいる網袋に一晩で二まい(枠を漁場では 「まい」 と数える)も三まいもとるほど乗ってくるのである。これを陸揚げして、なるべく生きのいいうちに処理せねばなら ぬ」(同書)。これが68枠もあったら一晩で捕れるニシンは信じられない数となる。冷凍・冷蔵の施設がない当時この膨大な量のニシンを処理するのはいかに大変だったか、浜が大戦争のようになったろうことが想像できる。それにしてもこの大量のニシンはどのように処理されたのであろうか。 
 
 
 
 寿都をでた車はさらに海岸を北上、岩内町からは内陸に進んで函館本線と併行して早くも冬の気配を漂わせる積丹半島の根元を横断、1時間半かけて余市町に着いた。 ここは小樽市の西に位置して北には海が広がり、ウィスキーの工場で知られている。私はここの福原漁場ではじめて大量のニシンの処理を少し実感することができた。幕末以来福原家が経営してきたこの漁場は、経営者が変わったり建物が建替えられたりしたがニシン漁盛時の様子をよく残す漁場として国の史跡に指定されている。
 
 
 
 広い敷地の入口には約 80坪もある番屋主屋が建ち、その右には大切な書類や衣服・調度品などを保管した地下 1階地上 3階のものすごく立派な蔵、その後にはニシン粕や身欠きニシンを保管した石蔵(復元)が建ち、主屋の後には広場、その向うにはニシンを干すナヤ場、一番奥に漁場の食事に使われる米・味噌・醤油などを保管した倉(高床)と魚網などを保管した網倉が並んでいる。当時使われた道具類も保存されている。 そして右手には広い干場があり、まさに大量に捕獲したニシンを処理した舞台が目の前に残されていた。このような漁場が昔はいくつもここ余市の浜には並んでいたそうだ。主屋は中央の入口から裏に抜ける土間を境にして畳の部分と板の間の部分に分かれている。板の間には出稼ぎの漁夫たちが寝たのだろう。屋内は昔の様子を再現するように工夫されているので臨場感がある。しかし決定的に欠けているのは多くの人たちが醸し出す物すごい熱気で、こればかりは再現しようがない。

 それにしても冷凍・冷蔵設備のない当時、膨大な量のニシンの処理はまさに時間との勝負であった。船から陸揚げされたニシンはモッコを背負った女性によってこの処理場
(漁場)に運ばれた。取り出された数の子や白子は干場で乾燥され、ニシンの身は藁でつないでナヤ場に干されて身欠きニシンになった。ニシンが大量に捕れた時にはそのまま釜で煮て油を絞り残りは乾燥して〆粕(肥料)として売られた。最盛期にはこの〆粕が全体の約85%を占めたといわれる。こうした漁場の周辺にはこの人たちをあてにしたさまざまな商売人が群れてくる。いかがわしい商売も繁昌する。沖にはニシンを直接に買付けようとする商船が集まってくる。こうして北海道西海岸のニシン漁場は毎年春の数ヶ月間は異様な雰囲気に包まれたことだろう。
 

 
 
 
 
 しかし、自然は気まぐれである。漁獲高の推移を示すグラフをみると大漁の翌年は極端な不漁だったりする。ニシン漁が大規模化するに従い大漁の時の景気は凄いが、一方思惑が外れたときの損失も大きい。豊漁のときには 「一起し千両」 といってニシン漁だけで一年間生活できたという。明治以降では明治13(1880)年から大正 9(1920) 年の間が豊漁期で中でも明治30(1897)年前後が最盛期だった。大正 9年以降は漁獲高は減る一方で昭和30(1955)年をもってニシンの大群が北海道の浜に押し寄せるこ とはなくなった。(写真は寿都の海)
 
 留萌(るもい)市にある海のふるさと館の資料によると、明治36年をピークに漁獲高が減少し始めて明治41年には半分以下になってしまったが43年から大正初年までは豊漁となった。「今まで鰊漁の主体となっていた後志地方とともに北部の増毛・留萌・苫前(とままえ)地方が重要な生産地となってきた。大正 8年以降徐々に全道鰊漁獲高に(留萌地方が)占める割合が高くなり、昭和に入ってからは約40%の比率を占めるようになる。これ は鰊資源量の減少が顕著になり始めたからである。明治39年に奥尻島への来遊が途絶、大正 6年には久遠・熊石に来遊途絶、大正 9年には瀬棚に来遊途絶、大正11年島牧に来遊途絶、大正13年には松前に来遊途絶、昭和 4年には後志以南が来遊途絶、昭和 7年積丹以南漁皆無になり、歌棄・磯谷に来遊が途絶した。」 その上に昭和初年には世界恐慌の影響を受けて不況に苦しんだ。

 しかし戦後の 「昭和24年から一時鰊漁獲高がもちなおしたが、昭和30年留萌 317石、全道 36,314石を最後に北海道沿岸の鰊漁は終焉を迎えたのである」 と記している。 浜辺に打棄てられたニシン漁船の写真がいくつも残っている。私がこの二日間で走ってきた海岸線は昭和の初めにはニシンに見捨てられていたのだ。歌棄のあの佐藤家の建物の今は訪れる人もいない孤独な姿が思い出される。しかし何もかも失われてもなおあの堂々とした主屋だけは時の流れに逆らうように凛とした姿で存在感を示しているように思われた。
 

 
 ところで作家髙村薫の『晴子情歌』(上下、新潮社)には、主人公彰之の母晴子の体験として昭和初頭の初山別(留萌の北、羽幌に近い浜)でのニシン漁の様子を 20ページ以上にわたって書いている。資料を調べ、話を聞き、現地に足を運び、それらを自分のものにしてから言葉を紡ぎだす。それによって過去が生き生 きと甦ってくる。読み手が現地を見聞していればなおさらのことである。作家とはたいしたものだとつくづく思う。 最後に髙村の書いたニシン漁の様子を少し紹介しよう。おそらくニ シン漁の様子を書いた最も新しい例だろう。
 
「さう云ふ右へ左への喧騒の中、マツさんが私の手を引いて 「ほら来い、群来(くき)ば見えるど」 と云ひ、マツさんに連れられて番屋の裏の斜面を上って浜を見下ろす高台に立ったときでした。境目もない海と空の闇は墨を流したやうな分厚さでしたが、カーバイトランプの燈火でさうと分かる建網の近く、一面の漆黒の中に茫々と青白い光の輪があり、それは海の中から湧きだしてくる光でした。それがあちらに一つ、こちらに一つと固まり広がって輝いてゐるかと思へば、雲のやうに溶 けだして闇に帰り、また別の闇の中から音もなくぼうと新たな光が湧きだしてきます。地球のどこからか、四年ほどかけて回遊してきた数十万、数百万の鰊が、故郷の真っ暗な藻の海に光り輝く精液を噴きだし、魚卵を吐きだして走り狂ふ。 この群来と云ふものはまさに、どんな人間のこゝろにも届く自然の壮大な呼び声でありました。」(上巻、308~09ページ)  

「汲み船のはうから、背丈よりも長い大タモを枠網の中に差し入れ、ソレ、天を仰げとばかりに満身の力をこめて網の底を持ち上げ、すくひ上げ、そのつど筵敷きの汲み船一杯に鰊の雨がぎらぎら降り注ぐのが。その上で、ウミネコの大群が鰊だ、鰊だとギャーギャー叫び合ふのが。さう云ふとき、船の若衆たちは腹と喉をふり絞り声を限りにソーラン、ソーランと唄ひ競ってゐるのださうだけれど、その声まではこちらには届きません。……さて陸揚げは、艫(とも)付けした汲み船から滑車で鰊の詰まった敷畚(しきもっこ)を釣り上げ、櫓の下で待っている荷車にあけるほか、十貫目ほど入る畚を背に女たちが歩み板を踏んで延々と運び続ける作業でした。…… 後から後から押し寄せてくる汲み船と、畚と、木函と、人と車と馬車追ひで辺りはもう野戦場のやうな混乱です。」(上巻、310~11ページ)

「また、鰊をつないでは干し場へ運ぶ傍ら、男たちは取り分けられた数の子を塩水で血抜きしては簾に干し、肥料用の白子を干す作業もするのでしたが、その間にも鰊を潰す女たちや木架の周りでは、辺りに捨てられ山を成していく臓物や血が少 しづつ穏やかに腐り始め、乾いた鱗は次第に乳白色の瘡蓋(かさぶた)のやうになって、人と云はず、砂と云はず層をなして張りつき、臓物の腐臭とともに潮風に吹かれて飛 び散ります。」(上巻、315ページ)

「海水を運び、鰊を運び、正確に時間を測って煮上げると、熱い煮汁や油を浴びながら煮上がった鰊をタモですくい、角胴に移して梃子で締め上げます。圧搾するときに流れ出る煮汁と油は樋から垂れ落ち、油八合(油槽)で魚油が分離されますが、数日もすると釜場の地面はこぼれた油ですっかり黄土色のぬかるみです。 続いて角胴を二人がかりで持ち上げひっくり返しますと、灰色の四角い粕玉がどすんと転がりでて、今度はそれを干し場へ運ぶのですが、天秤棒を担ぐ男たちはみな煤と油で黒くした顔をうつむけ、一秒でも早く荷を下ろすことだけを考へ続 けてゐるやうに見えました。……さうして釜場の煙が上がり続けてゐた五月の末、 約五十日続いた漁は終はりを迎え、沖揚げや、陸揚げの声が絶えた浜には船が引き揚げられ、気がつくと日溜まりに干された網が静かに光ってゐるばかりの風景に変はってゐたのでした。」(上巻、319ページ)  (原文の正漢字は常用漢字にした)
 


  その後 『鰊-失われた群来(くき)の記録』(北海道新聞社)をみる機会を得た。ニシンの大漁に湧いた北海道沿岸の様子を伝える貴重な写真集で、北海道で教職にあった高橋明雄さんが20年以上かかって集めた成果が盛り込まれている。この写真集をみるとかつてのニシン漁場の様子を感じ取ることが出来るが、もし漁場の盛況を体験したり直接に話を聞いたことのある人がこれをみるならば、きっとその場の音や動き、空気を生き生きと感じとることが出来るだろうと思った。

 ところでこの写真集でも紹介されているが、1999年の春 45年ぶりに留萌の浜に群来があった。『北海道新聞』(2003年5月13日)の 「春告魚の旅」 という記事に 「一九九九年三月十八日早朝、留萌市礼受町沿岸の海面は乳白色に染まり、岸は漁業関係者や市民で沸き返った。「群来た」。四十五年ぶりのニシン。藻に付いた卵に雄が精子をかけ、沖合は紺ぺきなのに浅瀬は一面、白いペンキがまかれたようだった。「放流されたニシンが仲間を連れて帰って来たのさ。ありがと」。稚内水試の研究員は、漁業者からそんな声を掛けられた。一年後、同水試の報告会で稚魚の回帰率は 1%程度だったことが分かった」 と書いてある。

 この記事は、群来の再現を目指して漁業関係者によるニシンの研究や稚魚の放流が繰り返されており、2007年には200万匹の放流を目指していると書いている。果してサケのようにうまくいくだろうか。それにしても、もし群来が再現してもすべての事情が変化している今日、その経済的効果は昔のようにはいかないのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 2004年には『朝日新聞』 が、北海道の日本海岸ではニシンが大漁で、増毛町では昨年の100倍の水揚げがあったと報じている。また札幌生まれの作家島木健作に 「鰊漁場」 という作品があるそうだ。(2004年3月27日)
 
 ニシンを干した身欠きニシンは海から遠い地方では長いこと貴重なタンパク源だった。会津の本郷焼にはニシン鉢という伝統的なやきものがある。身欠きニシンの山椒漬けは会津のおいしい珍味だ。数の子をはじめ日本の食生活になじみ深いニシンの近年の漁況ははたしてどうなのだろうか。