毎年 3月のお水取りが終ると奈良に春がやってくるという。東大寺二月堂で 3月 1日から 2週間にわたって行われる修二会(しゅにえ)はそのクライマックスが12日の深夜に行われる 「お水取り」 で、若狭井(写真)から本尊十一面観音に供える香水(こうずい)を汲み上げるのだが、その前後には大きな松明(たいまつ)を火の粉を散らして振り回す豪快な炎の乱舞が繰り広げられる。 この若狭井は、二月堂の前を少し下がったところの立派な覆い屋の中にあるが、奈良時代から続くこの伝統的な行事の歴史の重みを実感したのは小浜を訪れた際に 「お水送り」 という行事があることを知ったときだった。

 毎年 3月 2日の夜、神宮寺の大護摩から火を 移した松明が山伏と白装束の僧侶によってかかげられて 2キロほど離れた鵜 (う) の瀬に続き、 そこで香水を遠敷(おにゅう)川に注いで若狭井に送る奈良時代から続く行事だそうだ。これは 「お水取り」 の伝統の重みを実に鮮やかに実感させてくれた。そして、改めて古都奈良と若狭との歴史的な結びつきの深さを考えた。 
 
  若狭は福井県の西の地域にあたり京都府と接している。小浜は昔から天然の良港として栄えてきた。江戸時代はもちろんそれ以前から北日本との交通の要衝であったことは、羽賀寺が室町時代に焼失したときに再建につくしたのが津軽の十三湊 (とさみなと) を拠点として大きな力を持っていた安藤氏であったことが物語っている。そして日本海のかなたの大陸との人と文物の交流、多くの古い社寺の存在、さらに豊富な海の幸と、そのどれをとっても奈良や京都との深い結びつきを教えてくれる。
 

 
 
 
 水上勉の作品には若狭の人と風土に縁の深いものが多い。『雁の寺』 『金閣炎上』 『破鞋(はあい)』 などを読むと若狭の自然と生活の厳しさ、暗い風土のイメージが強く伝わってくるが、旅人の目に映る夏の若狭はあくまで明るく、豊かな海の幸に恵まれていた。

 小浜の東にある三方(みかた)五湖には海水・淡水・汽水(海水と淡水が混じる)の湖が集まっている。私の乗った船が二つの湖を結ぶ狭い水道を通るとき、岸の岩に砕け散る波とともに幾匹もの小魚が空に舞うのを見て若狭の自然の限りない豊かさを感じた。また、北に聳える梅丈岳の陰にある小川の宿で出されたいくつもの立派な活き作りに感嘆の声をあげながら、 旅人たちは海の幸と美酒に大いに満足したのだった。
 
  七百年若狭の貧(ひん)と共にある 古塔に風の吹きわたる聞く
  鯛はまち鱸(すずき)かれいに蟹(かに)とえび 若狭の海の幸豊かなる
 
 木簡は紙の代わりに木片に墨で字を書いたものだが、平城京跡からもたくさん出土している。その中には若狭から調(租税)や供物として納められた塩・鯛・アワビ・ウニ など海産物の荷札にあたる木簡が多数発見されている。

 若狭から奈良の都へは、おそらく小浜から陸路を今津へ出るかまたは三方五湖の東の美浜から陸路を海津に出ると、あとは琵琶湖を船で南下して宇治川・木津川を経て木津から ふたたび陸路を都に歩いたのであろう。遠いわりには物資輸送の便はよい。それとも人の背ですべてを陸路で運んだのだろうか。小浜から京都へは、今津への街道を保坂(ほうざか)で南に分かれて市場から先は安曇(あど)川に沿って辿り、花折峠を越えて大原・八瀬を経て出町(でまち)柳に至る いわゆる鯖街道が一番利用され “京は遠ても十八里” といわれた。小浜から周山を通って神護寺の方向から京都に入る周山街道のコースもあるが、山また山で距離的にも遠い。       

 司馬遼太郎の小説 『王城の護衛者』 にこんなエピソードが書いてある。幕末に京都守護職として都にやってきた会津藩主松平容保(かたもり)が孝明天皇の食事があまりにもお粗末なのを知り、文久 3年の正月に鯛と塩鮭を献上した。「天子の御膳は、何汁何菜ときまっている。しかし幕府から支給される賄料(まかない)は銀七百四十貫目で、これはざっと九十年來かわらず、その間、物価が数倍に騰(あが)っている。このため品目と数量だけはそろえ、内容は極端に粗悪になっていた。たとえば毎夕御膳にのぼる鯛は爛(ただ)れたように異臭を放っている。」 そこで、「四日、容保は新年の御祝儀として新鮮な鯛と塩鮭を献上した。天子だけでなく、親王、准后、関白、伝奏、議奏にも贈った。とくに鯛は若狭の海からおおぜいの人夫に担ぎつがせつつ急送させてきたもので、莫大な駐留費を必要としている、いまの容保の経済力としてはたやすい出費ではなかった。帝は、朝、この塩鮭を召しあがった。これは容保の鮭か、と何度も言われ、いかにもうまそうに箸をはこばれた。」 そして食事が終わり御膳を下げようとするとわずかに残った鮭を指さして、「「それを残しておけ。晩酌の肴にする。」 よほど御未練だったのであろう。二度いわれた。」 とある。歴史家はこうは書けないが、小説家が書くと実に リアルに朝廷の貧しさや鯖街道の役割が伝わってくる。小説家の特権だろう。
 

 
 
 
 さて、小浜から京都に向かうと若狭と近江の国境いの手前に熊川の宿がある。豊臣秀吉の家臣浅野長政が小浜城主のとき租税を免除して保護したこともあり宿場町として発展した。国道がバイパスになっていることもあり、宿場の家や土蔵の前を水が勢いよく流れて瓦葺の民家が並ぶ旧街道の昔の面影をよく残している。 
      
 水坂(みさか)峠を越えて保坂で今津への道を分けるとやがて市場に着く。ここは鎌倉時代の末から明治維新までこの辺りを支配した朽木(くつき)氏の本陣のあったところだ。戦乱の続いた室町時代に何人もの足利将軍が戦乱を逃れてこの山間にやってきたという。近くの岩瀬にある興聖寺の境内には将軍のために作られた庭園が今も残されていた。住職の案内でこの由緒ある寺の見学を終えた頃ひとしきり大粒の雨が降ってきてしばらく雨宿りをしたが、雨どいのない本堂の軒先からは滝のように雨だれが落ちてきた。住職は周辺のブナの山が杉に変わってしまったことをしきりに嘆いておられたが、各地を歩いていると同じような思いをすることが多い。
 
  語部(かたりべ)の話に盛時の偲ばるる 弁柄(ベンガラ)の影流れに宿りて
  みほとけは何思うらん朽木谷 ぶなの山々すぎと変わりて
 
 
 
 ある年の春、桜にはまだ早い頃に東京から車で西に向かい、琵琶湖大橋を渡って途中(地名)から鯖街道に入って京都に行ったことがある。大原を通るので三千院に立寄ったが、春の浅いせいか観光客は少なく、阿弥陀堂(往生極楽院)の北の軒下にはまだ雪が消えずに残っていた。少し腰を浮かして前かがみになっている観音・勢至両菩薩の姿がなにやら臨終の場へ急いでいるように感じられる来迎の阿弥陀三尊にお参りしてからモミジの木が多い庭を歩いた。木の下では何人もの人が落葉や枯枝など冬の間の汚れを清めるのに余念がなかった。近寄ってみると落葉には杉苔やモ ミジの種が混じっているので、その捨てる落葉を少しばかりもらい、東京に帰ってから苔は庭に、種は鉢にまいてみた。杉苔は残念ながらつかなかったが、モミジはいくつも芽生えて、今では庭に植えた苗木が大きくなり秋には三千院の紅葉を偲ばせてくれる。