司馬遼太郎記念館

 菜の花忌シンポジウムが東京で開かれたという新聞記事を読んだ。19962月に司馬遼太郎が72歳で亡くなってもう22年になる。私は決して熱心な読者とは言えないが、時代を独自に見据えた数々の小説、それに該博な知識と考察に多くを教えられた「街道を行く」 などには感心するばかりだった。まことに私のような凡人は遅々として年月を歩むが、非凡な人は疾風のごとく人生を駆け抜ける感がある。

 

  司馬が亡くなった 5年後、晩年の20年近くを過した住居に隣接して安藤忠雄の設計による記念館が誕生した。大阪駅で環状線に乗り鶴橋駅で近鉄奈良線に乗り換えて各駅停車で 5つめの八戸(やへ)ノ里駅で降りると徒歩10分ほどだ。旧宅は玄関・廊下・書斎・書庫などが著書も含めて 6万冊の本で埋まっていたそうだが今もそうだろうか。

 

庭から記念館入口へのアプローチは片側が総ガラス張り、コンクリート打ち放しの曲線を描く回廊で、光とむきだしのコンクリートといった安藤建築の特色がみられる。記念館の一部分は地下 1階から 2階の天井まで吹き抜けになり、11メートルの壁面一 杯に取り付けられた書棚に約 2万冊の書籍が膨大な蔵書をイメージするように展示されている。遺品類の展示はごく控えめでそのかわりに小さなホールで映像を通して司馬遼太郎の息吹に触れられるように工夫されている。

 要するにこの記念館は何かを見せるためにあるのではなく、「来館した人たちがそれぞれに何かを感じとり、司馬作品との対話、自分自身との対話を通じて何かを考えることの出来る、そんな空間でありたい」ということのようだ。私が訪問した時には、見学者はけっして多くはないが絶えることはなかった。しかし、司馬遼太郎の作品に膨大な数の読者が存在し、著者についての記憶がまだ鮮明なうちはこうした考えは意味をもつだろうが、もっと長期的に考えるとはたしてこのような記念館のありかたがはたしてベストなのか私には疑問なしとしない。

 記念館の 2万冊の書籍は当然蔵書の一部と思って尋ねたらそうではないそうだ。この展示のために新しく購入したもので、本来の蔵書はそのまま手付かずに保存されているという。これを聞いて私は驚いた。本は本来読まれるために存在するのではないだろうか。決して死蔵したり陳列したりするためにあるのではないだろう。司馬遼太郎の頭脳を肥やした貴重な書籍であればなおさらのことだろう。本来の蔵書 6万冊とあわせて 8万冊の書籍が今後もこのまま死蔵されるのがベストだとはとうてい考えられない。

 

また書斎も、関係者による掃除などが行き届くうちはいいがいつまでも今と同じようにというわけにはいかないだろう。建物の老朽化も避けられない。東京の徳富蘆花や武者小路実篤のあの古ぼけて寂しい書斎がどうしても目に浮かんでしまう。保存のあり方をいずれ再考してみる必要があるだろう。司馬遼太郎の仕事が大きかっただけに一層こんなことを考えてしまう。

 八戸ノ里という駅名はなにやら歴史を感じさせる優雅な響きをもっているが、現実の町の風景は高校・病院・郵便局・ポンプ場といった施設が並んでいて新開地の趣を呈しているのはなぜだろう。ふたたび鶴橋駅に戻った私は天王寺駅まで電車に乗り久しぶりに明治屋に寄った。前は路面電車の走る大通りに面していたが今は再開発で建った大きなビルの一角に移りこれまでと同じような店の造りで昼間からやっているのが遠来の客にはまことに都合がよい。

 

カウンター席に坐ってお酒と豆腐を注文する。もう湯豆腐は終って冷奴の季節になっていた。燗をした菰樽の酒がガラスの徳利で出てくる。薄手の盃には縦に「明治屋」 と藍で書 いてある。メバルの煮物も注文して飲んでいると私と同じような年輩の人が隣に坐り酒と生ビールを同時に注文した。店の人が聞き返したがそれでいいという。どうやら2つの酒を一緒に飲む趣味らしい。その隣りには勤め帰りらしい若い女性が冷酒を一人静かに飲んでいた。みな長居はしない。しばしの寛ぎを得てそれぞれの居場所に戻るのだろう。店の雰囲気がそうした人たちによく合っている。隣の人は「本当は毎日来たいのだが無理なので時々来るのだ」 と話してくれた。土地の人たちに愛される居酒屋は酒好きの旅人にも愛される。

 


 

 鳥 辺 野

 翌日大谷本廟をはじめて訪れた。浄土真宗開祖親鸞上人の墓所だ。1263年に90歳の高齢で亡くなった上人はこの地で荼毘(だび。火葬)に付されて後に知恩院の辺りに葬られたが、江戸時代の初めに幕府の命令で現在地に移されて今日に至るという。

 

 

 御荼毘所に行ってみた。本廟裏手の墓地の中を歩きさらに日蓮宗の寺の墓地を横切ると一段と低い窪地に屋根に覆われて石碑が建っている。「親鸞聖人奉火葬之古蹟」と彫られていた。750年の時間がまるで封じ込められているかのようだった。それにしても本廟の裏手に広がる墓地の広大なのには驚いた。とにかく見渡す限り墓石ばかりだ。この辺りが昔の鳥辺野の一端なのだろう。南に阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)が聳え、北の方向すぐ近くには清水寺が建っている。

 

 昔は阿弥陀ヶ峰の麓一帯を鳥辺野といったらしい。平安の昔、光源氏の愛した女性たちもここで煙になった。『源氏物語』には人の命のはかなさを嘆く描写が繰り返されている。急死した夕顔を弔う場面では

 

十七日の月が出て、賀茂の河原の辺、ご前駆の松明もかすかだし、鳥辺野の方などを見渡した時など、気味が悪い。やっと東山に辿り着きなさった。そこら一帯の様子までが凄い感じのするところへ、板屋根の小屋の傍に堂を建てて、勤行 している尼の住まいは、実に物寂しい。
庵にお入りになると、燈は遺骸に背けて、右近は屏風の向こうに、横になっている。どんなにたまらないだろうとご覧なさる。恐ろしい気持ちもしない。実にかわいらしい姿で、まだちっとも変わったところはない。
(右近は)おろおろ泣 き、「あの方の煙とご一緒して、お跡を追いましょう」 と言う。 (玉上琢彌訳)  

 

とあり、亡くなった紫の上を送る 「御法」 の巻では、「はるばるとした広い野原いっぱいに人が立ちこんで、この上もなく荘厳な儀式であったが、ほんのはかない煙となってはかなく立ち昇っておしまいになったのは、常のことではあるが、あっけなくひどいことだ」(玉上琢彌訳) と書いてある。実在した人物藤原道長もここで煙になったという。


 ところで 『司馬遼太郎が考えたこと 1(新潮文庫)に、「それでも、死はやってくる」 というまだ有名になる前の1954年に書いた文章がある。

 

  学校を卒業してもその次には軍隊しかなく、その先には死しか考えられなかった時代に親鸞に出会ったこと。やがて司馬自身も軍隊に行き死と背中あわせの日々を過すことになった。「戦いの或る夜、私は死も生も分別つかぬ、極度に疲労した骨と肉とを草原にころがしていた。」そのとき、「私は大きな衝撃をもって今までとは違った世界に入っていたのだ。」 「念仏。私は、私を包んでいる空気とも合体した。砂漠の石くれとも合体した。死も区々たる問題に思われるようになった。念仏。静かな安堵が私の全身をひたし、あらためて生きる喜びを考えた」と回想している。

 
 司馬には『空海の風景』はあるが、親鸞を取り上げた作品はないようだ。しかし、こうした戦争体験と宗教体験は彼の著作の大きな背景となっているのではないだろうか。

 

 司馬遼太郎はあの広大な大谷墓地、親鸞の近くに眠っているという。