写真の謎
 
 

 写真家ロバート・キャパのよく知られた写真の一つにドイツ協力者として髪を剃られた若い女性と民衆を撮った作品がある。『ロバート・キャパ写真集』 (文藝春秋、1988 年刊) にはこのフランスのある町でドイツ軍が敗退した直後に起きた出来事の写真が5枚収められている。

 最初の写真は警察の中庭に引き立てられる女性の後姿で、その向こうにはすでに頭を剃られた女性を含む10名余りの人たちが写っている。次の写真は頭を剃られた女性11名とおそらくその家族との集合写真で30名弱集まっている。頭を剃られた女性の一人は赤ちゃんを抱いている。3枚目はその女性の母親と思われるやはり頭を剃られた女性との母子 3人の写真、その次は町の通りを行くこの人たちと向き合うように群がる人々にカメラを向けた写真だ。そして最後によく知られた写真が登場する。


 


 先頭を歩くベレーをかぶり白い袋を持った年配の男性とその後にいる女性は赤ちゃんを抱いた頭を剃られた若い女性の両親だろうか。若い女性は警察官らしい男性と言葉を交わしているようだ。ほかに頭を剃られた女性の姿は見えない。この 3人の周囲と後方には大変な数の町の人々。そこに見られるのは好奇・嘲笑・軽蔑・憐憫の数々のまなざしだ。

 第 2次世界大戦でドイツがフランスへの総攻撃を開始してパリに突入、フランスと休戦協定を結んで国土の5分の3を軍事占領したのは1940年 6月である。そして米英軍がノルマンディー北部の海岸に上陸してドイツ軍に反撃してパリを解放したのは1944年 8月25日。この間 4年余り、上の写真のようなことは決してこの町に限られたことではなかったろうと思われる。

 キャパはこの写真にどんな思いをこめたのだろうか。慌しい行動のさなかのスナッ プの1枚ではないことをこの5枚の写真は物語っている。最初の1枚から最後の写真 までにはある程度の時間の経過が必要なので彼はこの情景をじっくり腰をすえて写したのだろう。キャパが伝えようとしたのは、このような辱めを受けながらも父親を失ったわが子とともに己の運命にじっと耐えていこうとする女性の強い意志を示すその表情か、それとも乳飲み子の存在に象徴されるフランスの人にとって堪えがたかった数年間の悪夢のようなドイツ軍の占領への憎しみとそれからの解放感をスケープゴートとしてのこの母子にぶつけようとしている町の人々か。

 彼はおそらくこの両方を通して戦争の真実-人間が人間でなくなることを訴えようとしたのではないだろうか。キャパと親交のあったアメリカの作家スタインベックは、「戦争そのものを写すことは不可能であることを、彼は知っていた。何故ならば、戦争は激情の、果しない拡がりであるから。 然し、彼はその外にあるものを撮って、その激情を表現する。一人の子供の顔の中に、 あの民衆全体の恐怖を、彼は示した。」 彼の写真は 「芸術家の心をもって、われわれの時代の-醜く、或は美しい-真実で、生々とした記録を残した。」 と書いている。(「キャパが遺したもの」 1956年 『ちょっとピンぼけ』 所収)

 ところでこの写真はどこの町で撮ったのだろうか。写真集にはキャプションに 「嘲笑をあびながら帰宅させられる前ページの二人の女性」 とあり、「シャルトル、1944 年8月18日」 と明記してある。キャパが書いた 『ちょっとピンぼけ』 (文春文庫、1979 年刊) によると、連合軍がパリに近いランブイエに集結してパリ解放のために出発したのは8月24日だから、そこから東南方向に約 35km 離れているシャルトルでの出来事として疑問はなさそうである。

 ところが、『ちょっとピンぼけ』 にも同じ写真が掲載 され、そのキャプションに 「ナチに協力した女は髪を剃られ町を追放された(本文 174ページ)」 とある。さきの 「帰宅させられる」 と 「町を追放された」 ではだいぶちがうが、174ページを読んでさらに驚いた。「われわれがグランヴィルに到着したのは、夜 が明けたばかりの時刻だった。ところが町は大変なお祭り騒ぎの真ッ最中で、町役場には三色旗と星条旗が翻り、ゲイルは、自由フランス軍レジスタンスの連中の肩車にのせられて、町をねり廻っていた。彼につづく民衆の行列は、フランス国歌マルセイ エーズを歌い、ドイツ人と仲のよかった女たちは、群集にとりまかれて剃髪式が進行中だった。」 とあるではないか。そしてこの本にはシャルトルは一度も登場しない。

 さてどちらが正しいのだろうか。さきの写真集の写真の日付を見ていくとキャパがグランヴィルにいたのは7月31日となる。グランヴィルはパリの西方はるか遠くのサンマロ湾に面した小さな町である。日付をとるならばシャルトルになりそうだし、彼の文章との一致をとるならばグランヴィルとなる。いや両方の町でこんなことがあったのだとするならば、この写真はどちらの町のだろう。私の手元にある2冊の本だけではとうてい解決できそうにない。

 
 ところがこの疑問はある新聞記事により解決した。「ロバート・キャパ-知られざるその素顔」(柏木純一  『毎日新聞』  2004年 2月 8・15・22日) によると、キャパのこの写真はシャルトル大聖堂の近くで撮影されたとシャルトルの市立図書館長が語り、髪を切られた女性はフランス全土で約 2万人にのぼるという。そして生まれた子供たちは約 20万人に達すると推測されている。この子たちの多くは父親には認知されず、母親には捨てられ、行政には忘れられ、大衆には誹謗され、「両親の歴史の重荷を ”十字架” のように背負って生きて」 きた。1944年から46年にかけて 「シャルトルの特別裁判所ではドイツ協力者を裁く法廷が131回開かれ、190件を審理し、162件に有罪判決を下している。」 とあり、 写真の女性シモーヌ・トゥーゾーは10年間の国外追放の判決を受けたという。
 

 
 シャルトルの光景
 
 

 まるで緑の麦畑の中に浮かぶかのようなシャルトルの町と2本の尖塔が空に向かう大聖堂とが作り出す風景は、まさに豊かな田園のある国フランスにいることを私に感じさせてくれた。

 聖堂の正面に立った私の目の前の出入口だけは1194年の大火災以前のものであるが、あとはいずれも再建されたもので様式の異なる左右の塔は微妙な不均衡の美をもって高く聳えている。左のゴシックの方が新しく16世紀の建築だという。石を積み上げた巨大な建築が持つ圧倒的な重量感、柱や出入口の周りを埋め尽くす数知れない人物像、そして高い天空を目指して長い年月建築を続けた人々の強い意志、聖堂は日本の木造建築とは異質な存在感を示している。 
 
   その昔彫刻家ロダンがこの聖堂を訪れた時に少女たちが来た。彼は聖堂の多くの聖像と少女たちについて、「私は、聖堂の諸々の像が呼吸をして、身動きをしてゐるのを見るやうな思ひがした。像が壁から降りて来て、 身廊の中で跪いてゐるのだ。これらの像と少女達とは、なんと似通ってゐること か!それは同じ血で繋がってゐるのだ。(中略) 十三世紀より今世紀に到るまで、長い歳月が経ってゐるにも拘らず、その本質的な要素に於て変らなかった自然は、これら偉大な観察者達の誠実さをわれわれに証明してゐる。彼等は国土の優しい自然を模写した。彼等は、神がわれわれの時代の女性達と同様に彼等の時代の女性達の顔の上にも惜し気なく撒き散らし給うた優美さを再現した。古への自分達の苦悩や希望をわれわれに物語ってゐる石の聖女達は、わがフランスの片隅の女性であり、また現代の女性である。」と書いている ( 『フラ ンスの聖堂』 新庄嘉章訳 二見書房 1943年刊)
 
 

 この聖堂のあまりにも有名なステンドグラスは、天気のよい日に太陽の動きにつれて微妙に移り変わっていく色の変化を一日中眺めるのが最高というが、忙しい旅人にはとてもできない相談だ。椅子に座ってバラ窓を眺めていた私の耳に、そのときまるで空から降ってくるかのように静かな、きれいな歌声が聞えてきた。石で造られた、それも縦に長い空間は地上の歌声を天上からの歌声に変えてしまい、人の心にしみこんでくる。見ると聖堂の中ほどで小さなオルガンを囲んで4、5人の若い男女が歌の練習をしているところだった。私は数日前にマルセイユの丘の上の聖堂でミサに際会したときの感動を思い出した。
 
 外に出て、駐車場工事の際に発見されたというローマ時代の遺跡の様子を見ていたら、聖堂から出てきた若いカップルが突然長いキスをした、と思ったら脇に停めてあった車に乗って走り去った。つかのまの出来事だったがまるで映画の鮮烈なワンショットを見る思いがした。 

 

  実は私がシャルトルを訪れたときにはキャパの例の写真のことは全く頭になかった。 もしシャルトルに宿をとり、聖堂だけではなく古い歴史をもったこの町を散歩していたならば、あの写真のことを思い出していたならば、私の感想はまた違っていたかも しれない。原爆の悲惨を経験した広島・長崎も、大空襲で焼野原になった東京も、戦争の地獄を経験した沖縄も、知ろうとしない人には何も語ってはくれない。
 

 
 トゥールの広場
 
 シャルトルを後にした私は南西のトゥールに向かった。ロワール川沿いの古城めぐりの基点となるこの町も古い歴史をもつが、この辺りで造られるワインはおいしいので知られている。トゥールにつくまでの川沿いの町の風景も実に美しく、ロワール川にかかるウィルソン橋の上から夕日が眺められる頃に町外れの小さなホテル、アリ アンスに着いた。
 
   

 旧市街のブリュムロー広場の朝は静かで清潔だった。石畳はしっとりと濡れてゴミ一つ落ちていない。広場には太い木を組んだ煙突のように細長い家が多いが、どの家も隙間なくくっついていながらそれぞれに個性を発揮しているのが面白い。カフェは店の外にテーブルと椅子を次々に並べて開店の準備をしていた。歩いている人たちが 一人二人と近くの建物に吸い込まれていく。広場の周辺には石の建物に混じって木造の建物も建っているのがいかにも町の古さ、歴史を感じさせてくれる。建物の中には斜めに小さな窓がいくつかある円筒状の建物がついているのがある。らせん階段なのだろうか。町の一日が始まる直前の朝の静けさを味わう散歩だった。      
 
 緑の多い広い敷地に建つ白い小さなホテルも大都会のホテルでは味わえない寛ぎを十分に与えてくれた。建物の内部も白を基調としており、部屋のつくりや籐の家具調度などすべてを古風な趣でまとめている。従って働いている人たちも同様で実に和やかに落着いた気分で一夜を過すことが出来た。

 ロビーでは客がピアノを静かに弾き、バーの年輩のマスターはにこやかに客の注文に応じている。このホテルに泊り、ロワール川沿いの古城ならぬ小さなワイナリーを気のあった友人たちとのんびり訪ねる旅をしたいものとグラスを片手にしみじみと思った。