1月17日には阪神淡路大震災から23年になる。東京の住人である私はその大震災を体験したわけではないが、しかし特別な思い出がある。
 
 日本一の酒造地としてあまりにも有名な灘五郷は、神戸・芦屋・西宮の三市にまたがる東西約12kmの地域にあたる。東から今津郷-大関・扇正宗・白雪、西宮郷-日本盛・多聞・白鹿・白鷹・富貴、魚崎郷-松竹梅・桜正宗・浜福鶴、御影郷-白鶴・ 菊正宗・剣菱・福寿、西郷-沢の鶴・忠勇・富久娘・月桂冠と主な銘柄を並べてみると確かに日本一だと納得させられる。

 最近のおいしい地酒ブームでこうした灘の酒はやや影が薄くなった感があるが、それぞれの酒蔵が工夫をした酒造りをしているので灘の酒の底力はまだまだ大きいことと思う。そして酒好きならば一度は訪ねてみたいと思うのではないだろうか。私も例外ではなく、京都に行ったついでに足を伸ばし阪神電車の西宮駅で降りて白鹿の酒蔵を訪ねたのは1994年の12月だった。
 

 
 

駅から南に歩いて高速道路が上を通る広い道を渡ると有名な宮水を汲み出す場所 (井戸場)がある。いくつも立っているいろんな酒蔵の井戸と看板を見ると、「ああ、灘に来たんだな」といった気分になる。しかし付近に建ち並ぶ酒蔵はいずれも無表情な酒造工場といった趣で、屋根の上の大きな看板がなければとても酒を造っているとは思えない。そんな中にあって白鹿(辰馬本家酒造)の1892(明治25)年に建てられたレンガ造りの大きな酒蔵と(写真)、1888(明治21)年建造の神戸の異人館を思わせる白亜の洋館喜十郎邸、それに創業 320年を記念して1982(昭和57)年に建てられた白鹿記念酒造博物館、これらの建物が占める一角だけは周辺とは異なり洒落た雰囲気を醸し出していた。
 
 

 灘五郷が大きな力を持つようになるのは18世紀の末だが、辰馬本家酒造の創業は 1662(寛文2)年と伝えるから灘でも有数の古さを誇る酒蔵といえる。レンガの酒蔵を利用した資料館に陳列された道具で教えてくれる昔の酒造りのようす、博物館に保存されている貴重な古文書類などによる酒造りの歴史を見学するだけでも勉強になるが、実は私にはもうひとつ目的があった。

 大正の初めにあたる第一次世界大戦の好景気のときに船成金といわれた一人に実業家山下亀三郎がいるが、この人が同じく海運業を営んでいたこの辰馬酒造の辰馬吉左衛門と懇意にしていたこと、その関係からか山下はこの「白鹿」を愛飲して自分専用のラベルまで作 っていたこと、またこの両人は教育にも力を入れて、辰馬は甲陽学院を、山下は山水中学校(現桐朋学園)を設立したことなど、こうしたことについて話を聞くことであっ た。

 幸い博物館の澤田昌和さんから灘の酒造りの歴史や上のことについていろいろと教えていただくことができた。 山下亀三郎専用のラベルについては、『第十三代辰馬吉左衛門翁を顧みて』(1975年刊) といった本に次のような一節があり、酒蔵の展示にはラベルの実物もあった。
 
「山下さんが白鹿を愛用されたのは明治の末期からであって、樽詰は宴会用に瓶詰は白鹿の四合瓶詰として官界財界の有力者に進物として贈られたのであった。 山下さんは予て世間に対し特製白鹿の瓶詰は自分が辰馬さんに特別に頼んで吟醸して貰った天下の逸品であると吹聴しておられた関係で黒松白鹿の瓶詰では 納得ができず、当時の首相若槻礼次郎氏の筆致になる 「天下の白鹿の商標文字」を持参して今後山下からの注文品にはこの商標を使用するよう懇談があった。 先代は外ならぬ山下さんの事故早速「天下の白鹿」の商標を登録して昭和二年一月から「天下の白鹿」四合瓶詰に山下専用の文字を入れて御期待に副うこととし た。当時の納入数量は年間約一千打であった。」
            
 「「宴会の名人」で、逸早く情報を得てそれを商売に結びつけたので、「早耳のヤマ亀」 ともいわれた」(『現代日本朝日人物事典』) という山下亀三郎の面目躍如のエピソー ドといえよう。 短い冬の日はやがて傾き赤く輝くレンガの酒蔵が強く印象に残ったこの日の「白鹿」訪問であった。
 

 
 あの阪神淡路大震災はこの酒蔵訪問から一か月にもならない1995(平成7)年1月17日である。博物館に電話を入れたところ、最近の建物である博物館は無事だったが あのレンガの酒蔵は修復が不可能なほどに崩壊してしまったとのことであった。信じ られない思いだった。灘の古い酒蔵の大半が崩壊してしまったと新聞が報じていた。 宮水の近くの高速道路が横転した写真も新聞で見た。

 大震災から2か月たった頃に三宮・新長田の辺りを歩いた。鉄道はまだ完全には復旧しておらず、連絡バスで乗り継いでいったが、倒壊や半壊した家が見た目には壊れていない家と入りまじり、屋根にかぶせた青いシートや、神社境内のテント村に大震災の傷の大きさを改めて感じた。「興味本位に写真を撮らないで下さい」「家を覗かないで下さい」といった張紙に心が痛んだ。三宮駅前の大きなビルも傾き、地下街の店はまだ大半が閉めたままで火の消えたようなさびしさだった。
 
 高架になっている新長田駅のホームからの眺めには息を呑んだ。テレビでみていたとはいえこうしてこの目でみる焼け跡の光景は、大空襲で焼け野原になった東京の光景と重なった。人がいない、生活がない、大きな穴の開いたような空虚な空間が静かに広がっていた。駅前の焼け残った商店街は地震の被害が大き く人影は少なかった。私はついに一枚の写真もこの日は撮らなかった。
 

 
 

大震災3年後の1998年1月にふたたび被災地を訪ねた。三宮の辺りは前の活気を取り戻していた。新長田の駅前には高層のマンションが完成間近で、周辺でも工事が盛んに行なわれている。いかにも急ピッチで復興が進んでいるように見えた。駅近くの商店街も整備されて開いている店も多いがなんとなく活気がない。その理由はあたりを歩き、話を聞いてみて少し分かった。焼け跡に建っている建物は仮設住宅が多く、会社も商店もプレハブが多かった。しかも建物がないさら地がずいぶんと多い。

 

この辺りはもともとは町工場や小さな家が密集して路地が入り組み、老人が多い町だったそうだが、大震災の直後に区画整理事業の対象となった。しかし、その事業がなかなか進まず、もとの住民が町に帰ってくることができないので商売も繁昌というわけにはいかない。要するに本格的な町の復興には程遠い状態だったのだ。
 
 戦災にも今度の震災にも倒れることのなかった若松町市場の防火壁が今も剥き出しで建っている(写真)。この町の不運と悲しみを象徴するかのように。また大地震で亡くなったこの町の方々の墓碑のようにも私には思われた。すぐ近くに立つ真新しい石地蔵の水を替えていた老婦人の姿が今も目に浮かぶ。
 
 大震災で大きな被害をうけた灘の酒蔵も今は再建・整備されている。白鹿を再訪した。あのレンガの酒蔵は姿を消していたが、残った酒蔵を利用した「明治の酒蔵・酒 ミュージアム」が開館していた。この他にも沢の鶴酒蔵資料室・菊正宗酒造記念館・ 日本盛酒蔵通り煉瓦館・白鶴酒造資料館・神戸酒心館・桜正宗記念館桜宴・宮水の郷 白鷹緑水苑・浜福鶴吟醸工房といった施設が酒好きの訪問を待っていた。
 

 
 この長田と灘の再訪からもう20年経ってしまった。この間に東日本大震災と福島原発事故というさらに過酷な体験を日本はした。長田の街も灘五郷も新しい賑わいをみせているだろうが、今は大震災前のように無邪気に遊び気分で訪ねることができなくなってしまったのが残念だ。