天明3(1783)年7月8日の浅間山大噴火の際に江戸で売られた瓦版をみると、噴火の大きな絵の周りにその様子が簡潔に書かれている。
      
「朝(浅)間山大やけの事 朝間山北東の間にやけいつる。七月八日昼時より。田 はすなにうつ(埋)む。くろきどろ(泥)七ッ時までふる。いまだ砂ふりしんどう(震動)やまず。近き村町一同にまつりごとをなす。」
 
 今も活動を続ける浅間山の最大規模の噴火で甚大な被害を出したことで知られるのがこの天明3年の大噴火だが、手元の歴史年表には「7月 浅間山大噴火、熱泥流・ 降灰で大被害 9月 浅間山噴火などによる凶作飢饉のため、上野の農民、安中宿・高崎町などの穀屋を打ちこわす 10月 西上州の一揆、前橋近辺および信濃小県郡・佐久郡などに波及」と書いてある。
 
 

 
 
この噴火による大洪水が北関東の農村に大きな被害を出し、広範囲に及ぶ降灰が飢饉を招いたことは知っていたが、鎌原村のことを見聞するまでは私にはたんなる知識に過ぎなかった。 今は観光地になっている鬼押出しはこのときの大量の溶岩の一部が堆積したものだが、そのさらに北にあった鎌原村はこの噴火による土石流で一瞬に埋没した。これを知ったのは、草津温泉に近い尻焼温泉に行った帰りに車で鎌原を通りかかり、資料館を見学して観音堂にお参りしたときだった。
 

 
 火山噴火の歴史は人間の歴史をはるかにさかのぼるが、浅間山は富士山と並んでその山容から多くの人々の記憶にあったのだろうか。有名な『伊勢物語』第八段に「信濃の国浅間の嶽に煙の立つを見て 信濃なる浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の見やはとがめぬ」とある。作者在原業平は東海道を下ったのだから浅間山が見えるはずがないので、次の九段に登場する富士山との対比で想像で書いたのだろうと考証されているが、それはともかく浅間山は東山道を下ればすぐ近くによく見えたので多くの人々に知られていたのだろう。これは9世紀初めの話である。もっと古くは『日本書紀』天武天皇時代の記事に「信濃国に灰ふり草木皆枯れぬ」とあるのが浅間山噴火のことだろうといわれる。7世紀終りのことである。

 こんな昔のことはさておき、天明3年の大噴火は突然やってきたわけではなかった。 地元の寺の住職が書き残した手記によると「天明三卯四月九日初に焼出し、煙四方に覆、大地鳴ひびき戸障子ひびき地震の如し」とあり、この年の4月から活発な火山活動が始まったことを示している。それは5月6月と激しさを増していき、山麓の人たちは山の鳴動・噴煙・降灰などにより生きた心地がしなかったことがいろいろな記録から分かる。今と違って正確な情報の何もない時代に人々の恐怖心は想像を超えるものがあったろうと思われる。

 7月にはいると噴火はますます激しさを増した。大きな鳴動とともにものすごい黒煙が空に立昇り、降り注ぐ火山弾のために山の樹木や家が焼払われていった。灰や砂が降り積って潰れる家もあった。人々はただ神仏に祈るか逃出すしかなかった。浅間山の南東麓にあたる軽井沢では「砂降る事五尺余。火石にて火事あり、家四五十軒焼失。大石降り落、人に当り打ちころし」と記録されている。
 

 
 鎌原村は浅間山の北麓六里ヶ原の先吾妻川の近くに位置するが、7日には噴火口から巨大な溶岩流が原を村に向かって流れ落ちた。そして運命の7月8日(今の暦で8月5日)を迎えた。近くの寺の住職の手記。
 
「八日昼四ッ半時分少鳴音静なり。直に熱湯一度に、水勢百丈余り山より湧出し、原(六里ヶ原)一面に押出し、谷々川々押払ひ、神社・仏閣・民家・草木何によら ずたった一おしにおっぱらい、其跡は真黒に成。川筋(吾妻川沿岸)村々七拾五ヶ村人馬不残流失。此水早き事一時に百里余おし出し、其日の晩方長支(銚子)まで流出るといふ。此日は天気殊の外吉故、川押(洪水)有べき用心少もなく、焼石ふるべき用心のみ致し、各土蔵に諸道具を入、倉に入昼寝抔致し居、油断真最中おもいの外にたった一押しに押流し、人馬の怪我数を知らず。凡一万七千人と申風聞、実の所未知。此節皆々七転八倒、譬へベき様無之、折節川の方能(よく) 見る者壱人もなし。命を捨て見物所では無之。」
 
 午前11時頃噴火口から突然「熱湯」が噴き出し、一気に麓の村を押流して吾妻川に流れ込み大洪水となって沿岸の村々に大きな被害を出した。この時村の人たちはまさかこんなことが起きるとは思わず、空から降ってくる石ばかりを気にして土蔵に入って昼寝などして油断していたところを一気に何もかも押流されたと書いている。
 
「大方の様子は、浅間湧出、押出、時々山の根頻りにひっしほひっしほと鳴り、わちわちと言うより、黒煙一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙一面立、よ ふすしれかたし。上は大笹の下大堀、下は小宿川、広さ二、三里一面におし、其跡は百日ばかり煙立、漸々年を越止候。」
 
 六里ヶ原を一気に駆け下りてきた黒い塊-土石流は鎌原村をはじめ辺り三里一面を埋めつくして煙が収まったのは年を越えた頃だったとも書いている。「ひっしほひっしほ」「わちわち」といった表現にすさまじい勢いの土石流の臨場感がある。
 
 この時助かったのは小高い観音堂に必死で登ることの出来た人と、たまたま村外に居たあわせて93名だけだったと伝えている。土石流は噴火口から鎌原村まで約12キロをわずか10分か12分くらいで到達し、村の118戸全部を押流し、村民477名と馬165頭の命が田畑とともに一瞬にして失われた。
 

 
 
 
 嬬恋郷土資料館はこの観音堂のすぐ隣りにある。展示の中心はこの天明 3年の大噴火で埋没した村の様子で、パネルの説明と発掘調査で発見された数々の遺物によってこの230年前の悲劇と当時の村人の生活を知ることが出来る。
 
 この資料館の屋上に登ってみたが樹木が邪魔して浅間山は見えなかった。今の鎌原村(嬬恋村鎌原地区)は山のほうから川のほうへ緩やかに傾斜し、東西にそれぞれ低い山地が帯状に続いている。村全体が大きな雨樋の中にあるような地形なのだ。山頂からの噴火土石流が村を襲い一気に埋めつくしてしまった理由が分かったように思った。
 
 村の老人会有志の発掘で埋没家屋の一部が発見されたのを機に、1979(昭和54)年から1991(平成 3)年にかけて研究者による発掘調査が何回も行なわれた。観音堂の近くからは女性の遺体とともに家財の一部が発見されたが、涙を誘ったのは観音堂の石段の発掘だった。現在は上部15段が地上にあるがその下に何段あるか分からなかったので掘り進んだところ石段の上の方で折り重なって倒れている女性の 2遺体が発見された。老女と若い女性だった。必死になってこの石段まで逃げて来たが一瞬の遅れで土石流に埋められてしまった親子か嫁姑なのだろうか。石段は全部で50段、当時の地表は今の地表の約 5メートル下にあることが分かった。(写真)
 
 
また、延命寺の跡と推定される場所からは、本堂・庫裏などの建物の一部と仏像をはじめいろいろな仏具と陶磁器など当時の生活をうかがうことのできる遺物がたくさん発見された。この調査で発見された建築用材や家財がいずれも焼けていないことから、村は高熱の火砕流で埋没したとする従来の考えが訂正されることにもなった。 それにしてもこのときに発生した土石流の量は想像を超えるものであったことが分かる。家が建ち、樹木が茂り、畑には野菜が育っている今の村の風景を眺めると230年前にこんな悲惨な出来事があったとはとても信じられない
 

 
 
 
草葺の小さな観音堂にお参りした。だいぶ修理の手は入っているが昔の部材がまだだいぶ残っているようだ。隣りにも小さな草葺の建物があり村のお年寄が四五人お茶を飲みながら話し込んでいた。

 「皆さんは大噴火のとき助かった93人のご子孫にあたるわけですか。」
 「まあそうだな。新しく村に移ってきた人もいるから村の人全部が子孫というわけではないけど。」
 
 今の鎌原には374戸、1240人が住んでいるそうだ。石段の前の赤い橋の下には掘り出した石段の一部が残されているが水が溜っていてよく見えないのが残念だった。 
 
 石段から少し離れたところには大きな石塔が建っていた。大噴火の犠牲者477名の33回忌供養のために文化12(1815)年に建てられたもので、石塔の四面には犠牲者の戒名が所狭しと彫られている。
 
 
 
 
  また正面の下部には大きな文字で 「天明三癸卯歳七月八日己下刻従浅間山火石泥砂押出於当村四百七十七人流死為菩提建之 文化十二乙亥歳七月八日」と書かれている。(写真)
 
「天明3年7月8日11時頃浅間山より火石泥砂が押し出てこの村の477人が死んだので菩提のためにこれを建てた」という意味で、悲しい出来事のまぎれもない証人としてこれからもここに建ち続けることだろう。

 すぐ近くには「浅間山 延命寺」と彫られた大きな石標も建っている。説明板によると、明治43
(1910)年の吾妻川の洪水のとき約25キロ下流の地点で発見され、その土地の人が神社の境内に保存していたが、後に鎌原村の延命寺のものと分かって昭和18(1943)年に村に戻されたそうだ。おそらく鎌原村本通りの参道入口に建ってい たのが大噴火の際に押流されたのであろう。土石流・水流の勢いのすごさを改めて感じさせてくれる。
 

 
 
 
 
 嬬恋村の鎌原でこうした昔の悲しい出来事をあれこれと見聞しながら、こうした自然の威力を雲仙・普賢岳(長崎県)の噴火でわれわれも最近体験したことを思い出した。

 島原半島に聳える雲仙岳の主峰普賢岳が198年の沈黙を破って噴火したのは1990年11月17日だった。以後1995年に沈静化するまでに火砕流が何回も山麓の住宅地を襲って多くの家を焼き、埋没させ、人の命を奪った。1993年6月までに全壊または半壊した住宅は271戸におよんだ。

 なかでも大規模な火砕流が発生したのは1991年6月3日と8日で、水無川に沿って猛スピードで流れ下った3日には死者40名、 行方不明者3名、負傷者9名を出す大惨事となった。8日はもっと大規模で海岸の近くまで迫り犠牲者は出なかったが多くの家が焼けた。当時の新聞記事を見てみよう。
      
「三日午後四時ごろ、長崎県の雲仙・普賢岳東斜面で、これまでで最大規模の火砕流が発生、水無川を猛烈な勢いで落下し、火口から約三・五キロの島原市北上木場地区に達した。高温の溶岩塊の破片と火山灰が一帯を飲み込み、北上木場地区の民家約五十軒の大半と、流域の森林二十数カ所が燃え上がった。…
とどまるところを知らない地中のエネルギーが、大規模な火砕流となって一気に沢を下り、人を、家を襲った。日ごとに活動を強める長崎県の雲仙・普賢岳で三日、死者一人を含む、大きな被害が出た。ごう音を伴い、みるみる広がる黒煙、 山ろくに広がる火の手。全身にやけどを負った人々が次々、病院に運ばれた。「水 を、水を……」。焼けただれ、火ぶくれした患者が床をころげ回る。車の無線にしがみついたタクシー運転手、米仏の火山研究者、取材中の報道関係者らからの連絡も絶えた。火山灰を浴びた住民たちは逃げまどい、そして立ちすくんだ。」(『朝日新聞』 1991年6月4日)
 
「長崎県の雲仙・普賢岳で八日夜に起きた最大規模の火砕流により、ふもとの水無川は岩石や火山灰でほぼ埋め尽くされたことが、九日、長崎県警島原署や陸上自衛隊災害派遣部隊の調査で明らかになった。火砕流の一部は尾根を隔てた南側の赤松谷川へも流れた。火砕流によって発生した三百度以上の熱風などで、島原市南上木場町をはじめ、川沿いの住宅など計七十三棟が全半焼した。火砕流は九日も午後九時までに六回発生。…」(『朝日新聞』 1991年6月10日)
 
 浅間山の噴火で埋没した鎌原村もこのような様子だったのだろうか。先に紹介した 住職の手記に「直に熱湯一度に、水勢百丈余り山より湧出し、原一面に押出し」「黒煙一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙一面立、よふす(様子)しれかたし」とあるのはまさにものすごい火砕流の描写のように思われる。

 『朝日新聞』(1991年6月4日)の解説記事に「様々な火山噴出物が地表を一団となって高速で流れ下る火砕流は、火山灰、溶岩とともに「噴火の三点セット」といわれる。溶岩の塊や軽石、火山灰などの固体と、空気や火山ガスなどの気体が混ざり合って、粘りけが少ない液体のように振る舞う。粉体流の一種で、粉が高温のガスに乗って運ばれるような状態。 岩が転がる時のような大きな摩擦がないので、秒速数十メートルに達することも少なくない」とあり、「日本で火砕流そのもので被害が出たものとしては、一七八三年、浅 間山で山すその集落が埋没し、四百六十三人が犠牲になった鎌原熱雲と一八二二年、有珠山でふもとの村が全焼し死者五十人を出した文政熱雲などが知られる」と書かれ ている。住職の手記に「熱湯一度に、水勢百丈余り山より湧出し」とあるのは、こうした火砕流(熱雲)を熱湯と見間違えたのだろうか。
 

 
 
 
 
  実は普賢岳大噴火の翌年、1992年 8月に私は山の麓に立った。まだ小さな噴火が断続的に起り周辺には緊張感が漂っていた。ビデオで噴火の烈しかった頃の様子を見、噴火の絵葉書を買ったりしたが、赤い炎を見せながら聳える真黒な溶岩ドーム、溶鉱炉の鉄をひっくり返したように山腹を流れ落ちる真赤な火砕流の夜の写真を改めて見ると、鎌原村の人たちはこうした光景を毎夜浅間山に見ては恐怖に駆られたのであろうと思った。また、土砂に埋もれた水無川の近くに残された、一階が完全に埋没した幾棟もの建物を見たときには言葉を失った。火山の底知れぬ威力を目の当たりにした思いだった。

 それからしばらくして、天草諸島を訪ねた折に再度島原を訪ねたのは2000年 3月 だった。水無川には砂防ダムが造られ、広大な被災地は整備が進んでいた。今頃は再び住宅地となっているだろう。土砂に埋没した家は大噴火の記憶の風化を防ぐかのように大きな屋根をかけて保存されていた。
 
 ところで、鎌原村を埋没させた土砂は高温の火砕流ではなくて常温であったことが 発掘調査の結果明らかになっている。しかし、7月 8日の大噴火により大規模な火砕流が発生したことは疑う余地がない。また、これまでの何回もの噴火によって六里ヶ原を駆け下った火砕流が、時には大地をえぐるようにして村のすぐ近くにまで迫って堆積していたとも考えられる。大噴火の衝撃はまずこうした堆積した土砂を沢沿いに猛スピードで押し流して村を埋没させ、その上を高温の火砕流が走ったのだろうか。 あるいは火砕流は村には達しなかったのだろうか。これは素人の推測に過ぎないが専門家はどのように考えているのだろう。普賢岳の噴火が烈しい火砕流を何度も起したにも関わらず、私が見た建物を埋没させた土砂が高温でなかったことは、地上に残された建物の様子からも明らかだと思われる。
 

 
 天明 3年の未曾有の大災害に対して、江戸幕府をはじめ為政者と近隣の村々は被害を受けた村の復興に力を尽した。しかし、壊滅的な打撃を受けた鎌原村の再建は容易ではなかった。生き残った93人のなかから、妻を失った男と夫を失った女を新に夫婦とし、子を失った親と親を失った子を養子縁組して新しい親子とするなどの努力で村人のつながりを強め、住居の再建や田畑の新開発が図られたと伝えている。その後今日にいたる村再建の歩みは困難を極めたことと思われるが、これはまた別のテーマ となるので触れないことにする。

 今でも毎年 8月 5日(旧暦7月8日)に観音堂境内で大噴火犠牲者の供養祭が欠かさずに行なわれているそうだ。 当日唱えられる念仏和讃の一節には、「老若男女諸共に、四百七十七人が、十万億土へ誘われて、夫に別れ子に別れ、あやめもわからぬ死出の旅、残り人数九十三、悲しみさけぶあわれさよ、観音堂にと集まりて、七日七夜のその間、呑まず食わずに泣きあかす、南無や大悲の観世音、助け給えと一心に、念じ上げたる甲斐ありて、結ぶ縁 もつき果てず、隣村有志の情にて、妻なき人の妻となり、主なき人の主となり、細き煙を営なみて、泣く泣く月日は送れども、夜毎夜毎の泣き声は、魂魄この土に止まりて、子供は親を慕いしか、親は子故に迷いしか、悲鳴の声の恐ろしさ」 とある。鎌原の人たちにはこの大噴火は決して忘れることのできないことなのだとしみじみ思った。
 
 それにしても青空をバックに眺める浅間山の姿はなんと静かでやさしいのだろう。 かつて訪れたイタリアのポンペイから眺めたヴェスヴィオ山も同じように優美な姿だった。
 
  若山牧水の歌集より
 浅間にしまことありけり雲とのみ 見し白けぶり真すぐにぞ立つ
 火を噴けば浅間の山は樹を生まず 茫として立つ青天地に
 浅間山の北の根にある六里が原 六里にあまる枯薄の原
 
[] 天明 3年の大噴火については、主として 『天明三年浅間山噴火史』(萩原進、鎌原観音堂奉仕会、1982年)および嬬恋郷土資料館の展示資料によった。萩原進さんは長年この大噴火についての史料収集と研究をされた方で、本書は1982年の大噴火犠牲者200回忌供養にあわせてこれまでの研究成果の概要をまとめたものである。