柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

 2017年は夏目漱石・正岡子規の生誕150年にあたる。春には神奈川近代文学館(横浜市)で正岡子規展が開かれ、9月には漱石の旧居跡(東京都新宿区)に漱石山房記念館が開館した。親友でもあるこの二人は決して過去の人ではなく、今も多くの人にとって身近な存在といえよう。
 
 明日は中秋の名月、柿が店頭に並ぶ季節になり子規の有名な句が思い出される。この句をめぐって俳人坪内稔典が著書 『柿日和』 (岩波書店、2012年9月) の中で考証している。それによると、体調を崩して朝鮮半島から帰国し神戸の病院で静養していた子規が元気をとりもどして松山に帰り、その後上京の途中奈良にやってきたのは1895 明治28年10月、日清戦争が終った年の秋のことであった。

 東大寺転害門の近くにあった旅館対山楼に3泊してあちこちを訪ねた子規は、寺の境内や民家の庭にたわわに実をつけた柿の木に心を惹かれた。果物が大好きだった彼は宿に帰るとさっそく御所柿を持ってくるように頼んだが、エッセイ 「くだもの」(1901年、『飯待つ間』 岩波文庫所収) にその時のことが書かれている。
 

 俳人子規としては 「奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」 のだが、大きな鉢に山盛りの御所柿をむいてくれる旅館の若い女の顔に見とれてしまう。

 「余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。」 (「くだもの」)  

 驚いている子規に、女は窓を開けると東大寺はすぐ目の前だと教えて、さらに 「大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます」 と話したという。「奈良の宿御所柿くへば鹿が鳴く」という句がこの時の思い出で1896年の作だが、法隆寺の句はその前年に愛媛県の 『海南新聞』(11月8日) に発表され 「茶店に憩いて」 という前書きがあった。奈良を訪ねたのは10月26日から28日だからそれから間もなくということになる。「東大寺前の宿でうっとりしながら御所柿を食べた子規は、その翌日であろうか、法隆寺を訪れて次の句を詠んだ」 と坪内は書いている。法隆寺で俳句のようなことがあったかどうかはともかくとして、子規が法隆寺に行った時にこの句を詠んだという判断である。

 さらに興味深いのは親友漱石とのかかわりで、この時の子規の奈良行きの費用を援助したのは漱石であり、子規の影響で俳句に熱心だった漱石にも 「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」 という句があることを紹介している。この句は先の 『海南新聞』 に 9月に載ったので、子規の句よりも 2か月早いことになる。このようなことを踏まえて 「柿くへば」 の句は 「奈良に柿を配合する」 試みであるとともに 「月並の次元を一挙に跳びこえ」 る名句になったと坪内は書いている。 

 「「奈良の宿御所柿くへば鹿が鳴く」 にはあっと驚く意外性がない。奈良には鹿がいる、というのは常識であって、その常識をなぞっただけ。こういう句を子規の批評用語では月並と言うが、このような月並の次元を一挙に跳びこえたのが 「柿くへば鐘が鳴る」 の句。対山楼の体験がその句で生きるのだ。もちろん、漱石の貸してやった旅費も生きる。」(p.34)  

 以上が子規の名句についての坪内の考証の概要だが、私には 「1901年に発表した 「くだもの」 で法隆寺について子規が一言も触れていないのはなぜだろう」 といった疑問が湧いてきた。このエッセイを発表した時にはすでに 「柿くへば」 の句も 「奈良の宿」 の句も出来ていたわけだからエッセイで触れてもおかしくはないからである。

 


 

  「同じような疑問を持ってこの 「柿くへば」 の句について考えた人がいるよ」 と知人が私に教えてくれた。疑問を持った人は日本古代史の研究者として著名な直木孝次郎で 「正岡子規と法隆寺」 というエッセイを1982年に発表していた。副題は 「「柿くへば」 の句はどこで作ったか」 となっている(『 直木孝次郎古代を語る 9 』 所収、吉川弘文館、2009年 6月)。そこで早速読んでみたが、事実関係を緻密に追及する歴史の研究者らしくその推論の綿密なのに感心した。

 まず奈良から法隆寺に行く当時の交通事情について1894年発行の 『汽車汽船旅行案内』 によって調べる。それによると奈良・法隆寺間の所要時間は26分で運賃は10銭、汽車は 1時間半ごとに出ているから、子規はおそらく奈良の宿から日帰りで行ったのだろうと推論する。


 次に 3日間のうちいつ行ったかは分からないがその日は雨の降る日だったろうと考えて気象台の古い記録を調べたら分かるかも知れないと書いている。なぜ雨の日かというと、子規が 「稲の雨斑鳩寺にまうでけり」 「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」 といった句を作っているのでそう考えられるという。

 では、子規が法隆寺に行ったときに本当に 「柿くへば」 の句のようなことが起こったのだろうか。その可能性がないと断定はできないが、もしそうであるならばエッセイ 「くだもの」 でなにも触れていないのはいかにも不自然だ。しかも 「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」 「渋柿やあら壁つづく奈良の町」 「渋柿や古寺多き奈良の町」 といった 「奈良に柿を配合した」 句をいくつも作っていることからして、「柿くへば」 の句は思いつきではなくて苦心の作であることは明らかだから、これは 「奈良の宿でのことをモデルとしたフィクションではないかと思われてくる」 というのが直木の結論である。

 その上で、子規が最初に作ったのは 「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」 ではなかったかと想像する。しかし、法隆寺の茶店に休んで柿をみるか食べるかしたときにふとひらめいたのが 「東大寺」 を 「法隆寺」 に改めると 「鐘が鳴るなり」 のR音と響きあって、実際には雨が降っていても句のほうは 「晴れた空に鐘が鳴りわたる、大和の秋ののどかな情景が浮びあがって」 きて整い 「法隆寺のもつ明るい美しさをえがくのに成功したのである」 と書いている。

 なお、このエッセイには追記があって、これを読んだある人が当時の天候を調べた結果、子規が法隆寺に行ったのは奈良からの日帰りではなくて大阪に帰る10月29日に立ち寄ったと推定しているそうだ。

 『柿日和』 を著わした坪内は、このように緻密に検討したエッセイを歴史の研究者が書いているとは知らなかったかもしれないが、この直木のエッセイは私の素朴な疑問と、フィクションではないかと私がひそかに考えていたことについて一つの答をくれたようでうれしかった。実は坪内も 「柿くへば」 の句の 「意外性」 を強調するあたりで言外にフィクションであることを認めているのではないだろうか。

 


 


 ところで、この 「柿くへば」 の句碑が法隆寺にあることを知っている人は多いだろう。西院の伽藍-有名な金堂・五重塔・講堂を見学して回廊を出ると小さな池があり、そのほとりに石の杭のような形の句碑が建っている。坪内はなにも触れていないが、直木はこの句碑のことからエッセイを始めている。

 句碑には、「法隆寺の茶店に憩ひて/柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺/子規」 と彫られ、碑蔭には大変読みにくいが 「明治28年にここで休んだ子規の直筆の句を拡大して碑にした」 といったことが書かれ、1916 大正 5年 9月にこの土地の俳句結社の人たちが建てたことが分かる。

 この句碑について 「奈良の法隆寺には、私の俳句や和歌の師、正岡子規先生の句碑 「柿くへば」 といふのがあるが、これなどは、もと原稿紙か何かそんなものに、小さく書いてあった文字を引き伸ばしたものと見えて、筆つきなどもまことにお粗末な彫り方だ。どうせ変なものを後で建てられるくらゐなら、生きてゐるうちに、少しでもいいものを作っておく方が、自分の芸術に対して忠実といふべきだ。」
(「私の歌碑」1950年1月、『新潟日報』) といささか批判的に書いている人がいる。歌人 ・ 書家として知られる會津八一である。奈良を 「酷愛」 して古い寺や仏たちを詠んだ歌を集めた歌集 『鹿鳴集』 が知られているが、奈良には會津八一の直筆の歌碑が20基も建っている。

 「私の歌碑」 は、生前に建てられた
6基の歌碑のうち 4基についてその建碑の事情などを記したものだが 「私などの歌でも、石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも伝はる。」 「私の記念なら私の歌でなければならない。そして私がそれを自分の筆で書いたものであれば、さらに記念の意味が強くなる」 と考えた會津八一だが、そのために歌碑を建てるのには厳しかった。歌碑のために新しく原稿となる歌を書き、彫り方にも注文をたくさんつけた。だから子規の句碑の建立が安易に過ぎないかと批判的になったのだろう。

 子規よりもだいぶ若い會津八一だが、若いころは故郷新潟を舞台に熱心に俳句を詠み、活動した。歌集 『鹿鳴集』 の 「後記」 には自身の文学の歩みが書かれているが、その中に 「予は中学を卒業して東京に出でしも、ほどなく病に罹りて、七月に郷里に帰れり。帰るに先だちて、六月の某日、根岸庵に子規子を訪ひ、初めて平素景慕の渇を医するを得たり。この日、俳句和歌につきて、日頃の不審を述べて親しく教を受けしが、梅雨の煙るが如き庭上の青葉を、ガラス戸越に眺めながら、午頃の静かなる庵中にて、ひとりこの人に対坐して受けたる強き印象は、今にして昨日の如く鮮かなり」 とある。
1900 明治33年、数えで20歳のときである。やがて早稲田大学で英文学と哲学を学んで新潟県の有恒学舎の教員となり、小林一茶直筆の 「六番日記」 を発見して埋れていた一茶の句を大量に世に出すことになるが、その時には子規はすでに亡くなっていた。八一が初めて奈良を訪れ、短歌20首を詠じてその後の終生の奈良との縁が始まったのもこの時期だった。

 會津八一が柿を特に好んだか否か知らないが、歌集 『鹿鳴集』 には柿の歌をいく首かみることができる。「南京新唱」 の中に 「滝坂にて」 と題して次の
2首がある。

   かきのみを になひてくだる むらびとに いくたびあひし たきさかのみち
   まめがきを あまたもとめて ひとつづつ くひもてゆきし たきさかのみち

 滝坂は新薬師寺の近くから石切峠を経て柳生に通じる昔からの道で、峠の付近をはじめ坂道の途中にも多くの石仏がみられるので知られている。八一は
1921 大正10年10月に写真家小川晴暘と石仏の写真撮影のためにこの道を歩いているので、歌はおそらくその時のものだろう。私が初めて滝坂道を歩いた時、熟した柿の実が陽光に輝いていたことを今も鮮やかに思い出す。

 會津八一は
1939 昭和14年10月には学生を伴って奈良から京都への 「観仏三昧」 の旅に出るが、浄瑠璃寺と京都大原での歌に柿がみられる。

 

 やまでらの ほふしがむすめ ひとりゐて かきうるにはも いろづきにけり
   みだうなる 九ぼんのひざに ひとつづつ かきたてまつれ ははのみために
   おほはらの ちやみせにたちて かきはめど かきもちはめど バスはみえこず

 


 
 柿が好物で、各地の柿を訪ね歩いてはエッセイを書いた坪内だが 『柿日和』 の中で 「柿という果物が詠まれるのは俳諧(俳句)においてであった。柿は食べ物であり、食べ物は俗なものなので、俗を排して雅を尊んだ和歌では柿が登場しない。大歌人柿本人麻呂も柿の歌は残していない。雅の意識のことに強くなった平安朝の 『古今和歌集』 などはどこを探しても柿はない。和歌に詠まないものを意識的に詠もうとした俳諧(俳句)がさかんになると柿は格好の対象となる」 と書いている(p.105)。なるほどと思うが近代になるとそのような意識は薄くなったのだろう。

  枝づたひに来たるしづくの大きさよ わが古庭の江戸柿の木は
  死んだ日は能天気にも青かつた ひとりごちつつ死後帰り来む
 

  “死んだらわが家の柿の木に帰った来よう”

 遺詠ではないがこんな歌を残して病のために64歳で逝った歌人河野裕子を悼む文章が心に沁みた。