東京では、わりと狭い地域に幾人もの作家や詩人たちが住んでいたところとして田端文士村と馬込文士村が知られている。田端についてはJR田端駅前に田端文士村記念館が建ち、近藤富枝の 『田端文士村』 という本まであるのでそのようすがよく分かる。馬込文士村についても資料展示室がありガイドブックも発行されているが、落合文士村というのはあまり一般的ではない。しかし、昭和の初期には多くの作家や詩人、画家たちが住んで活発に活動していたので文士村という言い方もあながち誇大とは言えないだろう。

 私は若い頃十数年間落合(新宿区)に住んでいたので私にとっても縁の深いところだが、この落合に住んで活動した文学者について、この地に住みここで亡くな った林芙美子を中心に書いてみたい。
 

 
 
 
 
 落合という土地は北側が武蔵野台地で、南側には妙正寺川(写真)と神田川が流れる低地が広がる。この二つの川が合流するので落合という地名が出来たのではないだろうか。 台地の下を妙正寺川の流れに沿うように西武鉄道(新宿線)が開通したのは昭和 2(1927)年 4月で中井・落合の両駅が設けられた。少し南には中央線(現JR)が並行して走り、東中野駅が中井駅のほぼ南の歩いて行ける距離にあった。この交通の便がよく新しく開発されて小さな家が建ち並ぶ中井駅と東中野駅を結ぶ一帯が落合の文士たちの活躍した舞台だった。台地の上には資産家の邸宅や目白文化村のような高級分譲住宅が建ち、貧乏な文士たちにはあまり縁のないところだった。
 
 林芙美子が中井駅の南西数分の上落合字三輪(現在新宿区上落合3丁目)の家に越して来たのは昭和5(1930)年5月で、「荒れ果てた感じではなく、木口のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子を開けると、川添いに合歓の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた」 ところだった(「落合町山川記」以下「山川記」と略す)。この年の夏に 『放浪記』 が改造社から出版されてベストセラーになったのでこれまでのように日々の生活を心配しなくてもよいようになった。これ以前は 「原稿を持って雑誌社へ行って、電車賃もないのでぶらぶら歩いて帰って来ると、時に、持って行った原稿の方がさきまわりして速達で帰っている事があった」 ような暮しだった。

 やがて長期間のパリ旅行から帰ると今度は川向こうの崖の下に建つ洋館の家を借りて移ったのが昭和7年の夏で、ずいぶんと庭の広い家だった
(下落合4丁目、現在新宿区中井2丁目)。 後に近くに越してきた尾崎一雄によれば、「私共の横丁を大通りに出て半町位西へ行くと、右手高台に、芝生庭園を前にして、林さんの二階建の家がある。木造ペンキ塗りの洋館風で」 あった(「もぐら横丁」)
 
  この頃の中井駅の周辺は高田馬場駅から二つ目という近さにも関わらずまだ田園風景が残っていた。「落合川(妙正寺川)に添って上流へ行くと、「ばっけ」 と云う大きな堰があった。この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものはも ぐりだろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧をあげている人や、模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。 うまごやしの花がいっぱいだし、ピクニックをするに格好の場所である」 と林芙美子が書いている(「山川記」)
 
 中井駅のようすも今とはだいぶ違っていた。今は駅を出るとすぐに車のすれ違いがやっとの道路になり両側には商店が並んで駅前広場というのはまったくないが、 当時は駅前が広く小さなカフェがあったりした。駅の南側はすぐに川なので当時は改札口がホームの北側にあったのかもしれない。
 
「私の仲のいい友達が、中井の駅をまるで露西亜の小駅のようだと云ったが、雨の日や、お天気のいい夕方などは、低い線路添いの木柵に凭れて、上落合や下落合 の神さんたちや奥さんたちが、誰かを迎いに出ている。駅の前は広々としていて、 白い自働電話があり、自働電話の前には、前大詩人の奥さんであったひとがワゴ ンという小さなカフェを開いている。」(「山川記」)
 
  この洋館の時代に、林芙美子は 「清貧の書」 「牡蠣」 といった作品を発表して作家と しての地位を確立するが、この落合の地が気に入ったのかやがてすぐ近くに土地を買い、家を建てて引越したのは昭和16(1941)年の夏だった。
 

 
 「暢気眼鏡」 「虫のいろいろ」 といった作品で知られる尾崎一雄が上落合に越して来たのは昭和 8(1933)年10月である。林芙美子の最初の借家よりも火葬場に近い小さな家が建て込んでいる一角で、まだ大学生だった檀一雄の借りていた家の一階に同居することになった。この家とすぐ前の家を少し後に借りて移ってきた上野壮夫の所に出入りする若い文士の卵たちのようすは尾崎の作品 「なめくじ横丁」 に詳しいが、彼 らはいずれも20歳代で30歳を超えて妻子のいた尾崎は彼らとは一歩距離を置くような存在だった。
 
 「向いに越してきた上野壮夫のところへは、プロ派の新進作家や評論家や画家がよく集まった。本庄陸男、平林彪吾、小熊秀雄、亀井勝一郎、加藤悦郎、吉原義彦 等の顔を覚えた。上野君の夫人小坂たき子も小説を書いていたから、神近市子、矢田津世子、横田文子、若林つや子、平林英子などが時々やってきた。 私の方へは、浅見淵、丹羽文雄、田畑修一郎、中谷孝雄、外村繁、中島直人、古谷綱武、木山捷平、光田文雄等がきた。檀君の友だちの、若い人たちもよくやってきた。中谷孝雄と平林英子とは、夫婦のくせに、横丁を入ると、中谷は私方へ、平林は上野方へと別れた。
 
 古谷綱武、檀一雄の文学論議をきいていることで、私は、当時の新時代というものをわずかにのぞくことができたのだと思う。古谷君の家で、また、なめくじ横 丁で、あるいは東中野の飲み屋で、中井駅前の 「ワゴン」 で、彼らはじつによく 議論をした。毎日、そして終日、しゃべり、論じて倦むことがなかった。中谷孝雄が加わることもあり、誰彼が交ることはあったが、主役はいつも古谷、檀の両君だった。
 
 何か議論の時は、もっともらしい、むずかしいことも言うが、その生活には、つねに若々しさが溢れていた。私にはとうてい近寄れぬ瑞々しさ、甘美さがあった。 彼ら、ならびに彼女らは、まさに青春なのだ、と思った。」(「なめくじ横丁」)
 
 中井駅前にあったワゴンは詩人萩原朔太郎の前夫人がやっていたカフェで、古谷と檀が知りあったのもここだった。 「古谷氏は噂を便りに私が通いなれた落合のワゴンという酒場にやって来て、「此処に檀さんという人は居ませんか?」、「はい、僕です」 と、私は安いウイスキーをあおり乍ら答えた。全くどぎもを抜かれる風に激賞された。 当時私は不良少年で、何も文学なぞと関係のある人種とは違っていた。毎日ウイスキ ーをあおり、下手な油絵を書きなぐってドラン位になってやろうと思っていた」 と、 後に檀一雄が書いている(『来る日去る日』)

 これは檀が短篇 「此家の性格」 を発表したときの話で、この二人がこの作品を読んでもらうために当時高田馬場の諏訪神社の近くに住んでいた尾崎一雄宅を訪ねてきたのが縁で数日後に尾崎が上落合に引越すことになる。しかしなめくじ横丁での暮しは 約 1年で今度は駅の反対側に越すことになった。林芙美子の洋館の家のすぐ近くである。昭和 9(1934)年 9月の室戸台風の雨風が東京でも荒れていた日だったと作品 「も ぐら横丁」 の冒頭に書かれている。
 

 
 中井駅を出て北に行くとすぐ崖に沿った道にぶつかり、それを西にしばらく歩くと今は林芙美子記念館となった芙美子の旧宅がある。この道の左側にある線路と挟まれた辺 りはあまり大きくない家が建ち並ぶ住宅地だが、尾崎が越した頃もそうで不景気を反映してか 「大中小さまざまの空家がいくらでもあった」。 なかで部屋が 3つある(三間) 家賃13円の家を借りることにした。この辺りにはもぐらがたくさんいたのでもぐら横丁と名付けたという。
 
「西武線の北側に沿って通称バッケの原方面へ走る道路がある。道路の北側は高台になって居り、樹立ちにかこまれた中級の家も見えるが、南側は、西武線と道路にはさまれた低地で、小さなごみごみした家が並んでゐる。私共の家は、その一 画にあった。道路に沿った一と並びの小家は多く何かの店屋で、露路を入ったその裏側に、私共のやうな仕舞屋がある。いづれも三間か、せいぜい四間の、極めて粗末な家ばかりであった。」(仕舞屋はしもたやで普通の住宅のこと。「もぐら横丁」)
 
 線路の向うには妙正寺川が流れており小さな橋がいくつもかかっている。芙美子の洋館の家のあったところは今は生協の店になっているが、その近くの五の坂に続く橋 がみなかばし(美仲橋)で前の三輪の家やなめくじ横丁に行くのに近い。芙美子も、「私 は落合川に架したみなかばしと云うのを渡って、私や尾崎さん(尾崎翠)の住んでいた小区(まち)へ来ると、この地味な作家を憶い出すのだ」 と書いている。

 この橋の通りには小さな店が並んでいるが、昔はこうした小さな商店街があちこちにあったのだろう。この辺りは戦災にあったので古そうな家は見かけないが、複雑に入り組ん だ狭い道は昔のままのように思えた。落合の火葬場に近付くとやや高台になるので低い崖の下に家が建ち並ぶようなところも見うけられる。なめくじ横丁については、尾崎一雄の 『あの日この日』 下巻に略図が添えられている(p.253)。それによると 片方が崖でもう一方は高さ 1間くらいの石垣という箱の内側の隅のようなところに 2軒長屋が 3棟並んでいる。尾崎・檀の家は中央の棟の石垣寄り、すぐ前の崖に近い家が上野宅で路地を挟んで玄関が向かい合っていた。人の出入りが手にとるように分かるのも当然だろう。こういう地形はそうはないのでなめくじ横丁はおそらく落合葬祭場の近くに間違いないと思われるがそれ以上は分からなかった。
 

 
 さて、もぐら横丁に移った尾崎一家は自然とすぐ近くの林芙美子と行き来するようになった。といっても親しくなったのは妻と子で尾崎の思いは複雑だった。芙美子は尾崎よりも若いがすでに流行作家だったし、今はお金にも困らなかった。尾崎は年齢 ばかりか作家としての経歴でも先輩だったが作品は金にならず暮しに困るような状態だった。大晦日に押寄せる掛取りから逃げるために家族で浅草に出かけて元日まで帰 らなかった話、もう元気になった子供を押さえつけて 「子供が死にそうなのに暮の勘定など払っていられるか」 と掛取りを追い払う話などが 「なめくじ横丁」 「もぐら横丁」 には詰っている。しかし天衣無縫で明るい一回りも年下の妻松枝に救われる毎日だった。この妻との生活を素材にした作品などが読者を得て、短編集 『暢気眼鏡』 が芥川賞を受けたのは少し後の昭和12(1937)年のことである。

 子供のいなかった林芙美子は尾崎の長女を可愛がり、子供も芙美子になついた。何かの会合の帰りに尾崎の家に立寄り子供に頬擦りして土産を置いていく芙美子、そんな彼女のようすを 「子供の無い、そして、もう生む可能性を失ったと自覚する中年女性の気持って厄介なものだなと思った」 と書く尾崎だった。尾崎一家は昭和10年に 『早稲田文学』 の編集事務の都合で早稲田大学の近くに転居して落合の住人ではなく なるが、芙美子はしばらく後の昭和18年に生後間もない男の子を養子にし新しい生甲斐を得ることとなった。
 

 
 ところで、中井駅から東へ細い道をしばらく行くと落合第二小学校があるが、そのもう少し先に月見岡八幡神社(上落合1丁目)がある。住宅に囲まれて境内はあまり広 くはないが歴史は古くて平安時代にはすでにあったらしい。元は少し南の場所にあり下水処理場建設の関係で現在地に昭和37(1962)年に遷座した。この神社のすぐ近 くにヨーロッパから帰国した村山知義がアトリエを建てて住むようになったのは関東大震災前の大正12(1923)年 1月だが、この八幡神社の周辺がこれから昭和初期までの左翼的な文学・演劇活動の中心地となり、度重なる弾圧にもめげずに離合集散を繰 り返しながら多くの人たちがこの辺りに住み、あるいは駆けつけて活動を展開した場所にあたる。

 劇作家・演出家・舞台装置家として知られる村山は、その多彩な才能と前衛的な思想で築地小劇場を舞台とした演劇活動の中心となったが、その頃プロレタリア文学運動もマルクス主義やアナーキズムの影響下に離合集散を繰り返しながら昭和 3(1928)年に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に統一されて機関誌 『戦旗』 を刊行、以後演劇活動とも結びつきながら前衛的な芸術活動の中心となった。ナップや機関誌の事務所が置かれたのは八幡神社のすぐ近くで、創刊号の合評会が開かれたのは村山のアトリエだった。

 こうした動きに登場する人物として山田清三郎・佐々木孝丸・中野重治・鹿地亘・ 林房雄・亀井勝一郎・藤森成吉・平林たい子・小堀甚二・小野十三郎・壷井繁治・同 栄・蔵原惟人・片岡鉄兵・上野壮夫・小林多喜二・秋田雨雀・立野信之・小川信一・ 徳永直・水野成夫・秋山清・小坂たき子・平林彪吾・小林勝・黒島伝治・今野大力・ 中条(宮本)百合子・野川隆・神近市子・大田洋子・佐多稲子・貴司山治・細田源吉・ 渡辺順三・高見順らを順不同だがあげることが出来る。

 これらの顔ぶれをみると、当時の前衛的な文学・演劇活動の主要なメンバーが網羅されているがこのうち多くの人たちが落合に住んでいた。またこうした前衛的な活動とは距離を置いた作家たちも落 合には住んでいたので、落合の地が当時の文学や演劇の活動に大きな役割を果したこ とがよく分かるであろう。

 当時の彼等の複雑な活動のようす、人の動きを徹底した現地調査に基いて物語風にまとめた本に 『落合文士村』(目白学園女子短期大学国語国文科研究室)がある。この本に取 り上げられた 「落合文士」 は73名にのぼる。ただ居住者への配慮から現住所との照合が出来ないようになっているためにせっかくの努力の成果が読者に伝わってこないのが残念だが、年表や参考文献も充実しているので詳細は同書及び参考文献に譲って話を林芙美子に戻そう。その前に、落合の住人であったがこうした動きには距離を置いていた一人尾崎一雄の感想を紹介しておく。
 
 「自意識の過剰、不安と懐疑-そういうことがしきりと言われていた。それは、外国文学思潮をなぞっているかに見えたが、じつは左翼思想ならびに政治運動の崩壊と直接的につながるものであった。プロレタリア文学は急激な旋回と変貌とを迫られていた。さればとて、いわゆるブルジョア文学派が手離しで気勢を揚げうる培養基というものも見当らなかった。文学は圧えられ、歪められ、右と左とにかかわらず、圧えられ歪められた形でしか現われえなかった。みんなは割りに書いた。いろんな小説が書かれ、新しい作家が出現した。文壇は活気を帯びているふうだったが、しかし、いずれの流派を問わず、その基調は暗色であった。」(「なめくじ横丁」)
 

 
 
 
春の一日、中井駅に降り歩いて 6~7分の林芙美子の旧宅を訪ねた。旧宅は四の坂の角にあり今は林芙美子記念館となっている。道路より少し高くなっている庭は桜の花がちょうど見頃だったが、目についたのは庭木の下のあちこちに咲いている山野草の花だった。なかでもニリンソウとユキワリイチゲ(写真)は大きな群落となって見事だったので記念館の人に、「林芙美子が好きだった花なのですか」 と尋ねてみた。ところが、芙美子が元気だった頃には庭一面に孟宗竹が生えていたが、彼女の没後に竹は切られて夫緑敏の趣味で山野草が植えられていったのだろうとの話だった。

 
 
 想像してみるに、芙美子が元気だった頃には竹はほどほどに繁っていたのだろうが、年数が経つとどんどん増えて、しかも場所にお構いなく生えてくるので手におえなくなり切られてしまったのではないだろうか。今の庭は落着いたすてきな庭だが、芙美子が眺めた庭とはだいぶ趣が違っているようだ。芙美子の没後57年、建物は変らなくても庭の眺めが変るのは仕方ないことだろう。なお、葉に斑紋があって花が大きいユキワリイチゲは関西に多くて東日本ではアズマイチゲが一般的だから、この花を東京で見るのは珍しいなと思った。

 さて、庭の話が先になってしまったが、この庭に面して芙美子が情熱を注いで建てた家が驚くほど手入れの行届いた状態で遺されていた。建物は、玄関 ・ 客間 ・ 茶の間 ・ 台所 ・ 浴室の棟と、寝室 ・ 書斎 ・ アトリエの棟とが近接してにない堂のように建っている。建築当時に建坪の制限があったために夫と妻それぞれの名義で 2棟建てて屋根つきの小さな土間で繋げたと記念館でもらった栞に書いてあった。

 庭に面した 6畳の茶の間には鍵の手に広縁がめぐっている。ここで昼寝をしたり、夏にヒグラシを、秋には虫の鳴声を聞いたらいかにも気持よさそうだ。この部屋で一家団欒の食事を楽しんだという。栞には、芙美子がこの広縁で小さな息子と食事をしている写真が載っている。庭に生えている竹はまだ疎らで庭は十分に明るいようだ。 玄関の上に民家の煙出しのように小棟を上げているのはおそらく暗い玄関への採光のためだろう。 
 
 
 
 8畳の寝室は次の間と合わせると14畳の広間になり、この隣りに 6畳の書斎がある。最初は納戸のつもりだったがいつのまにか書斎になったそうだ。深い土庇で光線が和 らげられ、雪見障子を通して机越しに眺められる庭の緑に目も心も癒されたことだろ う。 アトリエは厚い壁で頑丈に造られているが、今は写真や資料の展示室になっているのでアトリエらしいところは全くない。夫緑敏のアトリエだが、絵を描くのが好きだった芙美子の作品を見ることが出来た。 家の裏は急斜面になっているが、少し登れるようになっているので上から建物を眺めた。目の前には切妻の大きな瓦屋根が広がり、桜の花が彩りを添えて気持のいい眺めだった。


 
 
 旧宅の今の敷地は約500坪だそうだが、以前は後の傾斜地も含めて約1000坪あり 夫緑敏がバラを栽培していたという。芙美子は300坪買ったと書いているので、その後買い足してずいぶんと広い屋敷になったのだが、おそらく芙美子の没後に傾斜地を売り、さらに夫の没後新宿区が管理することになったようだ。

 記念館で貰った栞に、「家をつくるにあたって」 という林芙美子の文章が紹介されている。そこには、洋館を出なければならなくなってあちこちと借家を探したが世話する人があって300坪の土地を買うことにし、家に関する参考書を200冊近く買って勉 強したとあり、さらに次のよう書いてあった。
 
「大工は一等のひとを選びたいと思った。
まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレヴェシ ョンを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹き抜ける家と云ふのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と 云ふのが、私の考へであった。
それにしても、家を建てる金が始めから用意されていたのではないので、かなり、 あぶない橋を渡るやうなものだったが、生涯を住む家となれば、何よりも、愛らしい美しい家を造りたいと思った。まづ、参考書によって得た智識で、私はいい 大工を探しあてたいと思ひ、紹介される大工の作品を何ヶ月か私は見てまはった。」
 
 ここには幼いときから自分の家に住んだことのなかった林芙美子の、自分の家に対 する熱い思い、願いを感じとることが出来る。 芙美子の旧宅を一通り見学して感じたのは、造作が特に豪華というわけではないが 建てた人の思いが実現した気持のいいすてきな家ということだった。それに手入れが行届いておりすぐにでも住めそうなのがとてもよかった。庭の手入れも十分で、記念館全体が息をしている。けっして死んだ記念物になっていない。関係者の努力の賜物 だろうが、当り前なようで簡単にできることではない。アトリエと小さな石蔵を利用 して資料を増やし、展示を工夫すればもっとよくなるのではないだろうか。
 

 
 林芙美子を有名にした 『放浪記』 は、19歳から23歳まで 5年間の日記風雑記帳から作者が選択して発表した全三部をまとめたものだが(第三部は戦後発表)、「この 「放浪記」 は、私の表皮にすぎない。私の日記の中には、目をおおいたい苦しみがかぎりなく書きつけてある」(第二部)といった箇所や、自分の詩について、「私は私と云う人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか!只、人間の煙を噴く。 私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ」、「さきのことはさきのことで、また、何とか、人生の趣は変ってゆくであろう。譜面台のない人生が未来にはある。私はそう思う。自分の運命なんか少しも分かってはいないけれども、運命の神様が何とかお考えになっているのには違いない」、「一生懸命、ノートに私ははかない事を書きつけている。もう、誰も頼りにはならぬのだ。自分の事は自分で、うんうんと力まなければ 生きてはゆけぬ」(第三部)といった、現実と真正面に向きあう直情と楽観性が彼女を彼女たらしめていた。原本の雑記帳は失われているそうだが、もし存在したならばも っと深い魂の叫びを知りえたかもしれない。

 落合に新築なった邸宅は、こうした若い彼女の苦闘に対して神様が与えた勲章と言えるだろう。しかし立派な家に住んでも奢り高ぶらない人柄、庶民性は変らなかった。
 
「近所のおばさんの話ではこの近所で私を知らないものはもぐりだそうでコウエイの至りなのである。私は道路で子供たちと縄飛び遊びもするし、大根や人参を ぶらさげても帰るので近所のひとがあれがそうなのかと知っていてくれるのだろう。魚屋さんへ行っても安い魚を買うのはきまりが悪いけれども、どうも仕方がない。ここでは尾崎一雄さんの奥さんにもよく逢う。安い魚を買って、奥さんとぶらぶら帰って来る。この魚屋さんの前では髪を剪った若い女のひとが多いので愉しみで仕方がない。夕方の魚屋の前はお祭のように賑やかで好きだ。」(「わが住む界隈」)
 
 しかし、有名になり、原稿が売れてお金に困らなくなると、今度は原稿依頼の殺到、講演や会合の依頼に追いかけまわされて時間と健康を容赦なく奪われるといった新たな苦しみが芙美子を待っていた。戦後になって、「うず潮」 「晩菊」 「浮雲」 といった作品が多くの読者を得ていったが、昭和26(1951)年、朝日新聞に 「めし」 を連載中の 6月27日夜、帰宅直後に突然苦しみだして翌28日に亡くなった。まだ46歳の若さだった。 7月 1日には川端康成が葬儀委員長となって自宅で告別式が行なわれたが、近所のおかみさんたちが大勢焼香に押しかけてきて会葬者を驚かせたという。いかにも林芙美子らしい別れだった。
 

 
 
 
 私はなめくじ横丁近くの落合葬祭場から新井薬師駅の方へ功運寺(中野区上高田)を目指して歩いた。広い墓地の中ほどに林芙美子一家のお墓があり、新しい花が供えら れていた。波瀾に満ちた短い人生を一気に駆け抜けた彼女は、深く愛してやまなかった家族とともに今は心を込めて建てた家の近くで静かに眠っている。

 尾崎一雄の 「もぐら横丁」 は、当時郷里である小田原の在に住んでいた彼が林芙美子の葬儀に参列するところから始まり、最後は式の後に家族で昔住んでいた辺りを歩く話になる。「踏切りを越えて、上落合の方へ出た。なめくじ横丁のあたりを眺めると、焼けた跡に所々小家が建てられてゐるが、以前の様子は全然うかがへなかった。」

 こんな光景を眺めてから揃って自宅に戻ると、長女が何年か前に病気療養中の尾崎を芙美子が見舞いに来たときに自分に書いてくれた色紙を出してきた。そこには、「花 のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」 と書いてあった。

 林芙美子が亡くなって60年を超える今、彼女の作品がどれほどの読者を得ているのか知らないが、『放浪記』 だけは時代を超えて人々に読み継がれていくことだろう。 どの時代にも若者には辛くて悲しいことの方が多いのだから。
 


) にない堂 : 比叡山延暦寺の西塔(さいとう)にある常行堂と法華堂は、朱塗りの同じ造りの建物で近接して建ち渡り廊下で結ばれているので “弁慶のにない堂” と呼ばれる。芙美子の家がこのにない堂を思い出させてくれた。

追 記] 
   作家林芙美子の軌跡を、その生活と時代の視点から描いた 『林芙美子の昭和』 (川本三郎 新書館 2003年)によると、芙美子が 『中央公論』 (1932年11月) に発表した 「小区(まち)」に落合最初の借家での生活が描かれ、「古道具屋、下駄の歯入れ、按摩、駄菓子屋が本職の紙芝居、風呂屋と下宿を兼業にしてゐる地主、瀬戸物屋、そんな風な店が此小区には並んでゐた」 と書いているそうである。まさに庶民的な下町の雰囲気である。

 『放浪記』 がベストセラーとなり思ってもみなかった長期のパリ旅行から帰国すると、今度は高台への坂道の登り口にあたる少し高いところに建つ洋館風の家に移った。芙美子は 「植民地の領事館みたい」 と書いているが、家賃は12円から50円に上がった。それまで生活費を送っていた両親とも一緒に住むようになったが、両親はやがて近くの芙美子が最初に住んだ町の二階家に越してしまった。「行商の仕事をしていた両親には西洋館はハイカラ過ぎて居心地が悪かったのかもしれない」 と川本は書いている。
 
 また、芙美子が 「私は冗談に自分の町をムウドンの丘だと云ってゐる」 と書いているのをうけて、次のように指摘している。
 
 パリ帰りの林芙美子は、下落合の高台をパリ郊外、芸術家が多く住んだムウドンの森に見立てている。かつて北原白秋や木下杢太郎ら 「パンの会」 の詩人たちが隅田川をセーヌ河に見立てたのに似ている。貧乏旅行とはいえパリでの生活を十分に楽しんだ林芙美子にとっては、この”下落合ムウドン”の高台にある西洋館は、パリとの心理的距離を縮めてくれる重要な場所となった。それは、永井荷風が麻布の西洋館を精神的には ”日本の中のパリ” と仮構し、そこから、”東京のセーヌ河” 隅田川へとしばしば散策に出かけた見立ての行為と似ている。遅れて近代化せざるを得なかった日本では、作家たちはしばしばこういう見立てをせざるを得なかったのである。(p.130)
 
 そしてまた、次のようにも書いている。
 林芙美子は、この西洋館住まいのあと、昭和十六年に、西洋館のすぐ近くに三百坪の土地を買い求め、隅田川に架かるもっとも美しい橋、清洲橋の設計者として知られる建築家の山口文象に依頼し、自分の家を作るにいたるのだが、『放浪記』 の作家の心は、上落合の窪地にこそあったのではないだろうか。(p.134)