太宰治のよく知られた作品 『津軽』 を読んだとき、文学とは縁のない話題だが興味をもったいくつかのことがあった。 
 
  作品では、太宰はまず陸奥湾に面した津軽半島の東海岸を蟹田 ・ 今別 ・ 三厩と北上 して竜飛岬までの旅をする。バスに乗って知人を訪ねては酒を飲んで歓談し、知人と一緒に酒の心配をしながら旅を続けて旅館に泊っては楽しみ、三厩からはとうとうバスもなく狭い道を歩いて竜飛の部落にたどり着く。
 
 「兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。」 とあるが、この北の果ての小さな部落にも旅館があった。

 「この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決して薄っぺらでない。」 どてらに着換えて早速酒を注文すると、「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて」 との宿のお婆さんの言葉にすっかり安心して飲み始めた二人はお銚子6本がすぐ空になってしまう。飲み明かすつもりの二人は、すぐに追加の注文をするのもどうかと考えて牧水や啄木の歌をうたいはじめた。ところが酔った知人の蛮声が宿に響くようになるとお婆さんが出てきて、「さ、歌コもでたようだし、そろそろ、お休みになりせえ」 と言ってさっさとお膳を下げて蒲団を敷いてしまう。酒の注文が出来なくなった二人は 「ぶつぶつ不平を言いながら、泣寝入り」 せざるを得なくなった。なんとも滑稽だが気の毒でもある光景だ。

 太宰がどのくらい酒が好きだったのか私は知らないが、この 『津軽』 を読むかぎり切ないほどに酒を求めている。おそらくアルコールと糖類を添加したうまくもない三増酒だろうが、配給制で金があっても飲めない、飲みたいときに飲めない世の中だった。
 
 私は都会も田舎も同じだと思い、酒好きにはいやな時代だったと改めて感じた。この竜飛をはじめあちこちで 「国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。」 といった配慮が見られるのも時代を窺わせる。『津軽』 が書かれたのは1944 昭和19 年である。

 いつの時代にもいろんな人が仕事で日本中を旅していた。だから交通の不便な時代にはどこの町や村にも小さな旅館があった。旅人はそこで人情に触れ、土地の食文化を楽しんだ。太宰は、三厩では 「表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらい上等である。」 と書いている。今はこうした旅館の多くが滅びて車 とビジネスホテルの時代になってしまった。
 

 
 太宰は次に津軽平野を歩き、最後は西海岸に足をのばした。津軽随一の港町で昔から栄えてきた鯵ヶ沢も初めて訪ねたが、「妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。」 「日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息づまるような気持がする。」 コモヒとは雁木のことである。昔の町の活気を今は感じられなかったのだろう。「飲食店が多いようである。昔は、ここは所謂銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく 「やすんで行きせえ」 などと言って道を通る人に呼 びかけている。」 と書いている。

 ここで気になったのが 「所謂銘酒屋のようなもの」 といった箇所である。「銘酒屋」 と言えばおいしい酒を売っている店、または飲ませる店のことだろう。港に集まる漁師と酒はつきものだから飲み屋が何軒あっても不思議はないが、「所謂」 と 「のよう なもの」 が気にかかる。 ここの本当の意味がわかったのは、木村荘八の 『新編 東京繁昌記』
(岩波文庫) を読んだときである。
 
 この本の終りに 「矢場」 「銘酒店」 という文章がある。おもちゃのような弓で的を射って遊ぶ楊弓場が集まったところが 「矢場」 で、昼は閑散としていても夜ともなると繁昌した。というのは弓で遊ぶのは表向きで、「敵は本能寺の仕組みで、 ここに通うものの目当ては 「矢場女」 にあるし、家々の構造にも 「本能寺」 独特の 「的裏の三畳敷」 と称する 「職場」 があった」 わけで、ようするに安い売春窟をさした。 明治の終りから大正になるとこの矢場に代って銘酒店が増えてきたという。「「銘酒店」 と呼ぶものは、殆ど名の示す 「銘酒」 設備はないと共に、家の構造はそれだけ手数が省けるので、それだけ 「三畳敷」 構造の方に力を分けることが出来たろう。」 と書 かれている。

 これで太宰が書いた 「所謂」 「のようなもの」 の意味が理解できた。「銘酒屋」 とはうまい酒を飲むこととはおよそ縁のない言葉だったのだ。昔の大人の男ならだれでも知っていたのだろうが今ではもう死語といえるだろう。念のために手元の辞書を引いたら 、
 
 「酒を客に供するという名目で、実は私娼を抱えて営業する下等な店。明治 ・ 大正に在り、東京では浅草の十二階下に群れていたのが有名」 とあった。.石川啄木が通ったところだ。
 
 日本の近くで戦争のいやな話題が絶えない昨今、太宰のような悲しい、辛い思いで酒を飲むような時代が再び来ないことを願うばかりだ。