近代文学の研究者平岡敏夫さんに 「原敬の遺書と鷗外の遺書」(『図書』 2012年11月) という一 文がある。原敬の遺書は大正10(1921)年11月 4日に暗殺された直後に公表された。そしてその翌年7月 9日に亡くなった鷗外が死の直前に書いた遺書に共通する 「栄典拒否」 「墓石には氏名のみ」 といった遺志をめぐって考察したものである。

 総理大臣まで勤めた南部藩出身の原敬の遺書の根底には薩長藩閥支配権力に対する佐幕派-敗者の側からの抵抗の精神を読取ることが出来るが、鷗外の場合はどうか。
 津和野藩出身の鷗外の遺書は、長州藩山県有朋の支配下にある陸軍の軍医官僚として活動し心中は授爵・貴族院議員を望んでいたが与えられなかったことに対する鷗外の 「憤書」 であり、可能性のない栄典を拒否することで薩長藩閥支配権力に対する抵抗を表明したと言う。

 「明治文学は敗者が生んだ文学、佐幕派、賊軍側の子弟が生み出した文学であるとすれば、鷗外を佐幕派とは呼べないとしても、鷗外文学もまた敗者の文学として、< 佐幕派の文学史>のなかに組み入れることができるのではないか」 というのが、『佐幕派の文学史』
(2012年2月) の著者らしい結論である。
 


 この一文を読んで思い浮かべたのが永井荷風の遺書である。
 私が気付いているのは 『断腸亭日乗』 記載の 2通の遺書と一ヶ所の言及および随筆 『西瓜』 における言及である。

 最初の遺書は昭和11(1936)年 2月24日で、草案として 7か条に書かれている。

 一 余死する時葬式無用なり。死体は普通の自働車に載せ直に火葬場に送り骨は拾ふに及ばず。墓石建立また無用なり。新聞紙に死亡広告など出すこと元より無用
 一 余が財産は仏蘭西アカデミイゴンクウルに寄附したし。(下略)    

 ほかの箇条は、霊柩車は嫌いだ、日本の文学者は嫌いだ、死後の著作に関することは親友に一任、中央公論社は嫌いだ、定期預金で著作全集をつくって同好の士に配布 したい、といった内容になっている。

 次の遺書は、昭和16(1941)年 1月10日に従弟杵屋五叟に送ったもので、8か条 の内容で昭和15年12月25日付である。

 一 拙老死去ノ節葬式執行不致候事。
 一 墓石建立致スマジキ事。
 一 遺産は何処ヘモ寄附スルコト無用也。

 といった内容で、他は家督相続や財産の処分に関してである。

 こうした遺書のほかに自分の死後のことに触れているのは吉原に近い南千住の浄閑寺を訪ねた時の 『断腸亭日乗』 の記述で、30年ぶりに訪れた感想として、「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず。名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」 と書いている(昭和12(1937)年6月22日)

 そして、自らの生立ちを綴った 『西瓜』(昭和12年4月)にも、「森鷗外先生が 「礼儀小言」 に死して墓をつくらなかつた学者のことが説かれてゐる。今わたくしが之に倣つて、死後に葬式も墓カツもいらないと言ったなら、生前自ら誇つて学者となしてゐたと、誤解せられるかも知れない。それ故わたくしは先哲の異例に倣ふとは言はない。唯死んでも葬式と墓とは無用だと言つておかう」 と書いている。(カツは石偏に褐の旁)

 森鷗外を敬愛し、常に 「森鷗外先生」 と記した荷風だが、その死の前日に鷗外邸に駆けつけた時には特別に鷗外に面会を許された。しかしすでに鷗外の意識は失われていた。後に 『鷗外遺珠と思ひ出』 を読んだときには 「臨終口授(遺言)」 を日記に書き写している(昭和8(1933)年12月17日)
 


 若くしてアメリカ・フランスでの生活を体験して欧米の近代-個人主義と自由の精神を体得して帰国した永井荷風が、薩長藩閥政府による日本の近代化を批判、嫌悪して江戸時代の書物に親しみ、その時代の名残を訪ねて市中・郊外を彷徨し、文壇を嫌い、限られた少数の友人・知人や市井の女たちとの交流・交情を楽しんだことはよく知られている。

 社会的な地位や権力とはおよそ縁のなかった荷風だから、原敬や森鷗外の遺書との比較は出来ないが、鷗外の遺書の影響がないとは言えないだろう。ただ拒否する対象が権力による栄典ではなくて、自らが嫌悪する社会-俗世間の名誉や権威だったと言えよう。

 このように考える時、晩年の文化勲章授章 (昭和27年) は大きな矛盾だった。
 『断腸亭日乗』 には授章についての感想は見られず、ただ事実が記されているだけである。
 
 原敬と鷗外は、その遺言が実現したのに対して、「葬式と墓は無用」 とした荷風が昭和34(1959)年 4月30日に孤独死した時にはその遺志に反して葬式が行なわれ、雑司ヶ谷の永井家の墓地、墓石 「永井荷風墓」 の下に眠ることになったのはこの矛盾の結果とも言えよう。

 映画 「濹東綺譚」(新藤兼人監督、1992年、近代映画協会) では、なじみの玉の井の女たちが荷風と浅草の観音様ですれ違ったときに、「あの人が文化勲章の荷風先生の筈がないわね」 と通り過ぎてしまう。

 泉下の荷風先生ははたしてどのような思いだろうか。