東京では今年もそろそろ桜の開花宣言がでそうだが、カタクリの開花気温は
ソメイヨシノとほぼ同じと聞いているので、桜前線は私にはカタクリ前線でもある。
 
 これは山の麓から頂までカタクリだらけと聞いて亡友と出かけた新潟県の坂戸山の話。
 
 
 
野山で春咲く花に地上から姿を消してしまうのが早い草が多いのはなぜだろう。私のかねてからの疑問だが、スイセンのように花の咲いた後に葉が大きくなって夏近くに姿を消すものはそれまでに十分養分を貯えて来年に備えているのが分かる。しかし もっと短い期間で姿を消してしまうものがけっこうある。
 
 毎年節分の頃に春一番といった感じで咲くセツブンソウやコバイモ ・ アマナは、可憐な花を咲かせると養分を貯える間もないように他の草が芽を出して伸びてくるころにはもう姿を消してしまう。ニリンソウやイチゲもわりと早く消えてしまう。そしてソメイヨシノが咲くころに花を開くカタクリも姿を消すのが早い。
 
 華やかに咲いたと思ったら間もなく散ってしまう桜を好む日本人の心情からすれば、同じ頃に赤紫の華やかな花で地面を染めたと思ったらやがて姿を消してしまうカタク リの花が、春先の野草の中でもひときわ多くの人に好まれているのも分かるような気がする。だが桜とちがって群生しているカタクリの花を見るのは東京に住んでいるとなかなか難しい。

 東京の近郊がまだ農村で田畑や里山、森や林のあるのがあたりまえだった頃にはカタクリやその他の野山の草花も決して珍しくはなかったのだろうが、そんな時代の名残が私の住んでいる近くでは清瀬市と武蔵村山市の片隅で毎年桜の頃になると見られる。
 

 
  清瀬市のカタクリは市の北西部にあたる中里緑地とその周辺の相当に広い範囲に群生している。すぐ近くに空堀川が北に流れ、落葉樹の茂る西または北に下がる斜面に花弁をそり返した花がいくつも咲いている様子はなかなかすばらしい眺めだ。昔はこんな感じで桜の咲くころになるとこの辺りの雑木の斜面や平地の雑木林に一面に咲いていたのかと思うとしみじみとした思いになる。

 カタクリの根元を見るとまだ花には何年もありそうな若芽がいくつも生えているので、このまま荒らされないようにすれば数年後にはもっとすばらしい群生地になるだろう。ニリンソウの白い花も小さな群落をつくってあちこちに咲いている。カタクリの花より少し早い時期にはヒロハノアマ ナの控えめで清楚な花にもお目にかかれる。また夏にここを尋ねればカタクリに代って葉の消えたところに花茎だけを立てたキツネノカミソリの煉瓦色の花に出会うこと もできよう。まだ昔の自然が少し残っている貴重な地域である。


   武蔵村山市の北部の一帯は狭山丘陵にあたる。多摩湖 ・ 狭山湖といった貯水池を囲 むように広がる丘陵地は今も緑が豊かに残っていて、都立野山北 ・ 六道山公園のよう な自然を生かした公園がつくられて人びとの憩いの場となっている。カタクリの群生地は東に開けた小さな谷戸の奥にある。この丘陵地一帯はコナラ ・ クヌギといった落葉樹の新緑のころが一番すばらしいと私は思うのだが、そのころになるとこの小さな谷戸の南側 - 北に下がる斜面の下のほうにカタクリが葉を広げ、花を咲かせる。
 
 群生地はそんなに広くはないのだが、新緑に囲まれた環境が実にすばらしい。管理をしている人に話を聞くと、毎年草を刈り笹の根を掘りとずいぶん手間をかけてカタクリを 守っているとのこと。昔この辺一帯が里山として機能していたころにはもっともっと たくさんのカタクリの花を見ることが出来たのだろうなと思うことしきりであった。

 それにしてもどちらのカタクリも花の色が淡いのが気になる。色の濃い花はずいぶんと少ない。毎年見 ている人によると、年々色が薄くなっていくようだとのこと。大変に残念なことで、濃い赤紫色の花が地面が見えないくらい群生して咲いている光景を見ることは私の夢でもあった。そんな折、新聞で新潟県六日町の坂戸山のカタクリはすばらしいと書かれているのを読んで、さっそく友人と出かけることにした。4月半ばのことである。
 

 
 
坂戸山の麓に宿をとって最初は六万騎山のカタクリを見に行った。上越線五日町駅に降りたときにはあいにくと今にも雨が降ってきそうな天気だった。駅員に 「カタク リの花は咲いていますか」 と尋ねたら 「大丈夫咲いていますよ。ここからも見えますよ」 と不思議なことを言いながらホームの端へ案内してくれた。教えられた方を見ると色の濃い桜の花が山の上に見えるではないか。どうやらカタクリと桜を勘違いしたらしい。カタクリの話になると首を傾げてしまった。

 六万騎山は標高 321m の低い山なので花はもう終っているだろうと思っていたが、「桜が咲いているのだからまだ大丈夫かも」 と考え直して山に向かった。 雪解けの水を集めているのだろうか水量が多くて流れの速い魚野川を渡るとやがて登山口に着く。そこからは階段状の山道を登ることになるが道の両側にカタクリがさっそく姿を見せはじめた。しかし残念ながら花は終り実を結び始めているものばかりだ。「もう少し上なら」 と期待を持ちつつ30分も登ると遠くから見た桜のところに着いた。

 もう頂上のすぐ近くだ。桜の辺りは平になっていてカタクリが一面に生えている。ごく一部はまだ咲いていたが、大半は花が終っていた。おそらく一週間か10日くらい早かったら下から上までカタクリの花の中を歩くことできたのではないかと思 った。時々色の濃いイカリソウの花が目についたが、急に明日の坂戸山が心配になってきた。「だがここよりは山が高いから」 と期待を繋いで降りだした雨の中を駅に向かったが、道端のフキノトウは長く伸びて花をつけ始め、ツクシも伸びて袴がいかにも硬そうになっていた。

 翌日は幸い快晴。宿の主人に 「あの雪の辺りを登り右手の薬師尾根を下ればいいよ」 と教わって歩き始めた。標高 634mの坂戸山は戦国時代には越後を支配した上杉(長尾)氏の山城の一つだった。上杉謙信の後を継いだ景勝はここで生まれたという。登山口の近くには当時の石垣が残り、山のあちこちに城の遺構が残っていて国指定史跡 となっている。
 
 
登山口に近い家臣屋敷跡の満開の桜はハラハラと花びらをカタクリの花の上に散らせている。朝早いせいだろうか花弁はまだ破れ傘のようなものが多いが、辺り一面がカタクリの花だ。近くには樹木が茂り日当たりがよくないためにこんなに標高の低い場所でも今が花の見頃なのだろう。道を挟んだ林を切り拓いたような広い平地にもカ タクリが群生している。よく見るとあちこちにキクザキイチゲのやや大ぶりの白い花が風に揺られている。中にはやや青みを帯びた花もあり、カタクリに混じって咲いているのがとてもいい。坂戸山のカタクリは歩き始めから大きな感動をもって私たちを迎えてくれた。
 
 スキー場の斜面を登るといよいよ小さな沢に沿ってジグザグに登る山道となる。山肌にはあまり大きな木はないがそのどれもが根元を谷のほうに傾けてから立ち上がっている。冬の雪の重みがその
ようにさせたのだろう。細い山道の山側も谷側も足元も、途切れることなくカタクリの花が続く。花の色は私の期待する色の濃いものよりやや薄いものの方が多かったが文字通り 「カタクリだらけ」 の山道に私は言葉を失った。

 しかも花の時期がちょうどよかった。山肌の木々の新緑もすばらしい。山道は高度を稼ぎ、魚野川に沿った帯状の低地とその向こうのスキー場ばかりの山々を眺めながらの一休みのなんと幸せなことだったろうか。はるばると各駅停車の電車を乗り継いでやってきた甲斐が十分にあったというものだ。残雪のある辺りにはカタクリが集まっている。歩きながら山側を見上げると自分の目の位置から上の方へカタクリの花を真正面からいくつも間近に見ることになる。まるで花と挨拶を交わすかのように。

 やがて稜線に出ると頂上のすぐ近くに 「桃の木平」 という平坦地があるが、ここでも大きな感動が待っていた。地形からみておそらく城の遺構なのだろうが、その中央部は大きな残雪がほんの一部を残して消えたばかりで、そこには細い筆の穂先のようなカタクリの芽が無数に出ていた。しかもすぐ近くには今
地上に姿を見せたばかりといった薄緑のフキノトウがいくつもあるではないか。周りの早く雪の消えたところにはカタクリの花が満開だっ た。

 六万騎山のカタクリが見頃の時にはこの坂戸山はおそらくまだ眠りからさめたばかりだったろう。そして今は山の麓から上まで十二分に花を堪能させてくれる。しかも これから来る人のためにまだ楽しみを残してくれている。自然の働きはなんとこまやかなことだろう。ただただ感心するのみだ。
 

 
 
富士権現社の小さな社のある頂上からの眺めはすばらしかった。すぐ目の前には金城山が残雪のあるどっしりとした大きな姿を見せ、その奥には巻機山の頂が見える。北東に目をやると八海山 ・ 駒ケ岳 ・ 中ノ岳の魚沼三山のいずれも雪を残した姿を間近に眺めることが出来る。標高はいずれも 2000m 前後だが、越後の山々は重量感があり奥の深さを感じさせてくれる。人の少ないのもよかった。この日山で出会った人はほんの数名だったが、東京近郊の山では考えられないことだ。
 
 頂上からは金城山に向かって尾根が連なっている。その尾根を少し歩くと小城 ・ 大城というピークがあり、その辺りにもカタクリが群生している。まったくカタクリの山といったところだが、下山路にとった薬師尾根は一変してカタクリをほとんど見かけない。一気に下る尾根道のあちこちにタムシバが裸
の枝にコブシに似た白い大 きな花をつけておりとても印象的だった。斜面の木の陰にはイワウチワがいくつも咲 いている。花の盛りは少し過ぎたが、淡いピンクの花が魅力的だ。数は少ないが筒状の濃い赤紫の花をつけているイワナシも見られた。日のあたるところにはスミレ ・ キ ンバイの仲間が咲いている。

 なんといっても眺めがよい。周辺の山や六日町の町並みを見下ろしながら気持よく下っていくと時々色の濃いミツバツツジの花が、山肌に雪を残した金城山をバックに燃えるように咲いているのに出会う。 「登りのカタクリは最高だったが、下りもまたすてきな山だ」 と、十分に満足して登山口の近くまで来ると山菜を摘む土地の人の姿を チラホラと見かけた。今は木の芽(アケビの蔓の先端)が時期だそうだ。 「そういえば昨日の宿の夕食に木の芽のお浸しが出ていたな」 と思い出した。駅に近い八百屋でも木の芽を売っていた。六日町は銘酒 「八海山」 の町であり、温泉の湧く町だ。その上 においしいコシヒカリの産地でもある。山の花がなくても十分に魅力的だが、その上に山の花があるのだから申し分ない。

   しかし、あたり一面の濃い色のカタクリの花を夢見ている私には少々の不満が残っ た。坂戸山を歩いてみて、「もしかしたらそういう光景はどこにもないのだろうか」 と思ったが、「いやきっとどこかにあるにちがいない」 とも思う。 岩手県の湯本温泉に泊ったとき宿の女将が 「山に少し入るとすばらしいカタクリの群生地がありますよ」 と教えてくれたことがある。また、秋田県の角館から内陸縦貫鉄道に乗って少し行ったところに群生しているカタクリの写真を見たことがある。その広さといい色といいすばらしかった。 カタクリの花言葉は 「初恋」 だそうだ。私のカタクリにたいする思いは、初恋のようについに成就することはないのかもしれないが、夢を追って私はカタクリに会いに次の春もどこに出かけていることだろう。 (写真はすべて坂戸山で撮影)