私の親の代には焼酎は安く酔うための庶民の酒、もっとはっきり言えば貧乏人のための酒だった。ところが今はどうだろう。酒を売る店に行けば芋焼酎・麦焼酎をはじめさまざまな原料の焼酎がびっくりするほど高いものから安いものまで実に多種多様にそろっているのに驚いてしまう。こうした大きな変化はここ20年か30年の間のことで、焼酎造りに精魂を傾けた人たちの努力の結果といえる。これはそうした先人の一人、多田雅信さんの話である。
 
 
誰にでもこだわりはあるものだが、酒好きの私がこだわっていた焼酎は30年くらい前から最近まで福岡県の麦焼酎 「博多どんたく」 だった。東京ではなかなか買えなかったので蔵元から直接送っても らって飲んでいた。 一升ビンの 「博多どんたく」 は25度、3年熟成。壷の 「宝壷」 は 5リットル入り、 40度。自分の家で好きなだけ熟成させて飲む。ビンの裏には蔵元のこだわりが貼ってあ る。

 「原料・筑紫平野産二条大麦(精麦歩合60%)、白麹・吟醸酵母にて低温仕込み、常圧再蒸留(天盃式蒸留機)、炭素やイオン交換樹脂など薬品加工一切なし、糖類など完全無添加、三年熟成」 とある。

 要は、地元の麦を原料に本格的な焼酎を造ることを目指しているわけで、飲み手である私は、蔵元のこのこだわりに賛成してこれを飲むことにこだわっていたわけだ。
 

 
 
私がこのこだわりの焼酎の蔵元天盃を訪ねたのは 1999年、西鉄の天神駅から20分の朝倉街道駅で降りると後はバスとタクシーになる。ちょうど麦の稔る時期で、バスの車窓からは刈入れ間近の枯草色の大麦の畑とまだ緑の残る小麦畑が広がっていた。これほどの麦畑を見るのは何年ぶりだろう。いずれも米の裏作だそうだ。蔵元はこんな麦畑の中にあった。「原料・筑紫平野産二条大麦」 とあるがまさになるほどといった風景だった。

 天盃は1898(明治31)年創業ですでに100年を越す歴史をもった蔵だが本格的な焼酎つくりを始めたのは多田雅信社長(当時)の代になってからだった。社長と子息格専務(当時)を中心にお二人が杜氏も兼ねてごく少人数でこだわりの焼酎つくりに努力していた。社長は生憎と留守だったが若い専務が親切に案内してくださった。こだわりは添加物を一切使わずに地元の大麦だけを使って(麹の培養も大麦)いかに大麦の風味を最大限に引き出した焼酎をつくるかにあった。

 蒸留の過程で生じる雑味やいやな香りを薬品に頼らずに抑えてよい味や香りを引き出す工夫が 1気圧で 2度蒸留する天盃式蒸留機で詳しくはマル秘だった。一種類の上質な原酒をつくって熟成期間やアルコール度数によって何種類かの製品にして愛飲家のもとに届けられる。水は古処山系の地下水を敷地内で汲み上げて使用している。 少人数で納得のいく焼酎を造ることにこだわって決して妥協しない。規模を大きくして生産量を増やせば厳選した地元産の大麦を確保することは難しくなるだろう。目も行届かなくなるだろう。家族のように仲良く働いている蔵の人たちを見て、これからも大麦の風味豊かな焼酎が造り続けられるだろうと思った。

 2006年秋天盃からもらった葉書には、「おかげさまで 1周年。全日空国際線ファーストク ラス・ビジネスクラスの機内食ドリンクメニューとして飲まれています」 とあった。今も飲まれているだろうか。
 

 
 ところで、業界紙 『酒販ニュース』 に 「麦焼酎 今昔」 と題した多田雅信さんの談話 が2006年 に 2号にわたって掲載された(11月1・11日号)。これを読むと本格焼酎にかけた多田さんの強い意志と苦労が伝わってくる。

 多田さんが家業を継ぐために実家に戻ったのは1953(昭和28)年、26歳のときだった。その頃の焼酎のイメージは 「車夫馬丁の酒」、安くてすぐ酔う酒だった。原料は清酒の粕をはじめ、濡れ米、腐ったジャガイモ・サツマイモなど捨てるようなものばかりだった。従って焼酎屋には社会的・文化的な位置付けはないも同然だった。家業に誇りがもてなかった。
 
 原料が悪いからアルコールに近づけることが技術革新といわれてきた。文化もないから標準もない。例えば減圧蒸留もイオン交換樹脂も、ヤシガラ炭素も全部、味を退かす、味をなくすということ。それが焼酎屋の歴史です。そうでなかったのがイモ焼酎。イモ焼酎はその代わり臭かったが、文化があったからイモ焼酎屋が残った。 
           
 多田さんの苦闘はここから始まった。子供が生れてからは胸をはって子供に家業を継がせることのできる焼酎造りが悲願となった。これまでの原料も製法も一切やめにして 「文化としての焼酎」 造りがゼロから始まった。
 
 
まず原料に二条大麦を使うことにした。麦は地元の産物であり、政治の影響を受けにくい作物なので将来に安定性があったからである。問題は蒸留機だった。原料以外に何も添加せずに風味を最大限に引き出すには蒸留機の改善が不可欠だった。試行錯誤の末に出来上ったのが常圧単式蒸留の天盃式蒸留機だった。さらに貯蔵もウィスキ ーやコニャックの樫樽での貯蔵に対する疑問からステンレスを利用する。そのためにはより完全な蒸留が求められた。

 次は麹に河内源一郎の白麹(河内菌)を使うことにし、前例のない麦麹の開発に取組んだ。品質の良いものを作るために清酒で検証済みの酵母の中から9号酵母を使い低温発酵を目指すことになった。「原料から造り、仕込みから蒸留、貯蔵まで、一貫したものがないと文化として成り立ちません」 と考えた多田さんの苦闘が続いた。杜氏に頼るのもやめた。「乙類焼酎を造るところは基本的にはすべて鹿児島の杜氏なんですよ。黒瀬杜氏。うちもそうだったんです。立派な杜氏でした。しかしある時、疑問に思ったのです。杜氏制度を止めたのは九州でうちが初めてです。そこで自動製麹機が必要になった。社員で造るようになったことで、それ自体が財産になってくる」 と語 っている。
 

 
 かくて 「麦・麦麹」 焼酎が初めて世に出たのは1970(昭和45)年のことだった。「造りを変えようと決めてから、昭和40年からの五年間はのたうち回りました」 「全財産なくなりましたよ」 「家内はよく持ちこたえてくれましたよ」 と経済的に苦しかった時を述懐している。
 
 「昭和50年でしょうか、一升瓶のラベルに 「大麦100%」 と入れました。この年、飯田博さんと出会います。最初の取引が51年春のことですから。一升瓶一〇〇本からのスタートでした。……
ロングサイクルにおいては、なんでもやるのは約束の条件ではないとですよ。単一商品、単一銘柄、それが文化の基本なんです。典型的なのは、京都の三条にある千鳥酢ですわ。……
他のことが必要とすれば、それは売り手、酒販店と組むこと。それをするのが卸ではないですか。その裏付けをしようとした卸はなかった。それをしたのが唯一、日本名門酒会であり、飯田博さんでした。僕は売ってもらおうと思ったんですわ。なぜかというと、それじゃないと文化は維持できないですから。……」
 
 どんなに理想に近い焼酎が出来ても売れなければ商売にならない。そこで出会ったのが日本名門酒会だった。同会は東京の中堅卸岡永の飯田博社長により多田さんと出会った年に設立され、おいしい地酒を発掘して販売に力を入れていた。翌年からは特色のある焼酎(乙類)の市場拡大にも先導的役割を果した。 かくて 「文化としての焼酎」 造りを目指した多田さんの夢はほぼ実現することになったが、最後の問題はこれを将来的に保障するシステム、ロングサイクルを約束する 「本格焼酎」 の定義の実現だった。

 当時の酒税法は焼酎を甲類、乙類に分けていたが、甲類以外のものが乙類とされた。 甲類の焼酎とはいろいろな原料から造られたアルコール含有物を蒸留して原料の味や香りを消した焼酎で、主に大手の酒造会社が生産している。乙類は原料の風味を大切にした焼酎で、乙類を 「本格焼酎」 とすると甲類が反対する。多田さんは焼酎の将来のためにと頑張るがなかなか実現できなかった。やっと実現したのは18年目の2002年11月 1日で、この日に 「本格焼酎」 の定義が発効した。定義の要旨は次のようなものである。

次に掲げるアルコール含有物を単式蒸留機により蒸留したもの。水以外の物品の添加不可。
① 穀類またはイモ類、これらの麹および水を原料として発酵させたもの
② 穀類の麹および水を原料として発酵させたもの
③ 清酒粕・水、または清酒粕・米・米麹・水を原料として発酵させたもの、清酒粕
④ 砂糖、米麹および水を原料として発酵させたもの
⑤ 穀類またはイモ類、これらの麹、水および財務大臣が定めるその他の物品を原料として発酵させたもの。穀類・イモ類の重量が水以外の原料の50%超のものに限る

(2006年5月1日以降、新酒税法によりこれまでの甲類は連続式蒸留焼酎、乙類は単式蒸留焼酎と呼ばれるようになった。なお、連続式蒸留機とは連続して供給されるアルコール含有物を蒸留しつつフーゼル油、アルデヒドその他の不純物を取り除くことができる蒸留機をいう。単式蒸留機とは連続式蒸留機以外の蒸留機をいうと定義されている。)

 これは多田さんにとっては妥協の産物だった。「問題はこの次(の法改正)ですよ。 法では単式蒸留焼酎で、その例外表示が本格焼酎となっていますが、いっぺん完全に区分けし、この次の法改正では、単式蒸留焼酎そのものを本格焼酎に変えようということ」 と述べている。また、「本格焼酎の文化の裏付け、法律の裏付けは、できたと思っています。だから、もって瞑すべし。子供に譲ることができる、孫にも譲ることができるという可能性だけで僕は死んでいくんです」 とも言っている。
 

 
 『酒販ニュース』 に載ったこうした多田雅信さんのお話を読むと、科学技術の発達によってなんでも造れてしまい、マスメディアによって宣伝すればなんでも売れる時代に、本当においしい、本物の焼酎を造り、売ることがいかに困難に満ちたものであったかがよく分かる。これは個人経営のような小規模な蔵元の奮闘の歴史である。最後にこんな発言を紹介しておこう。
 
 「もし清酒に勝とうとすれば、15度で五年ものを出せないかという考え方は成り立 ちますよ。最後に割水するのではなく、貯蔵の段階で割水する。割水したまま寝 かせるのが必要だと思う。蒸留酒を好きな人は濃いのを好む傾向がありますが、その濃いのが飲みやすいというのがうちの特徴です。飲みやすさは減圧蒸留的な飲みやすさだが、水で倍にしても常圧蒸留は三分の二の味わいが残る。三分の一 しか減らない。減圧は倍にすると、四分の一くらいまで味が減るですよ。飲み比べてみればよくわかります。常圧蒸留の味はそんなに減りません。」
 
 焼酎のおいしい飲み方のヒントがありますね。ここまで我慢して読まれた方は一度天盃の本格麦焼酎 「博多どんたく」 を飲んでみませんか。小売店ではなかなか買えませんがあちこちにある酒場 「天狗」 には40度の 「宝壺」 が置いてあります。天狗はこだわりの酒場で私の好きな店の一つだが、経営しているテンアライドKKの主要株主の一つに岡永があるので多田さんとの縁があるのかもしれません。