木の芽が冬の眠りから目覚めたばかりの頃に野山を歩くのは春を感じて魅力的だが、もう少し季節が進んで桜が咲く頃になると若葉が開き始めて魅力が一層深まる。新緑といっても薄緑から赤までこんなにもいろいろあるのかと感心するほど野山は明るく生気に溢れた姿となる。俳句ではこれを 「山笑う」 というそうだが、こんな季節に念願の滝坂道を歩くことが出来た。

 ずいぶん昔のことになるが、所用で大阪へ行った帰りに思いついて滝坂道を歩いた。このときは時間が無くてほんの少し歩いただけで紅葉とたわわに実をつけた豆柿の木を見て引き返したので、石仏やお寺を見ながら柳生まで歩くのはその時以来私のささやかな願いとなっていた。

 

 

 それから8年、願いがかなって兄と二人で春の滝坂道を歩いたのだが、それももうだいぶ前のことになってしまった。

 調べてみて驚いたのは奈良から柳生までが意外に遠いことだった。果たして歩き通せるか危ぶみながら滝坂道の入口にあたる飛鳥中学校の門前でタクシーを降りたのは午前 820分。夜だいぶ強い雨が降ったので心配したが、幸い朝には雨はあがって天気予報も晴れるとのことなので濡れた山道を歩き始めた。 

 滝坂道は奈良と柳生を結ぶ昔の柳生街道で、今は東海自然歩道の一部になっており道標も道も整備されているので歩きやすい道となっている。実は柳生が奈良市の一部とは知らなかった私は、当初JR関西本線の笠置駅からバスの便があるのかと考えていたが、それは昔のことで今は奈良駅と結ぶバスの利用しかないことを知り、柳生まで歩いたら泊り、翌日のバスで奈良に戻るという計画を立てた。

 


 

 
 

 

 滝坂道は春日大社の後背地にあたる手の入っていない原生林の一部を能登川沿いに標高460m の石切峠まで登っていく。歩き始めた中学の前との標高差は 310m ある。江戸時代に奈良奉行が整備したという石畳道がしばらく続く。朝のわりと早い時間のせいか歩いてる人もなくのんびりとウグイスの鳴き声を聞きながら登っていくとやがて道端に寝仏があった。あまり大きくない石によく見ると仏さまが横に彫られている。

 

 上から欠け落ちてきたのであろうか。原生林は常緑樹が多いので薄暗い感じだが、川沿いには楓をはじめ落葉樹が多いので朝日に輝く新緑がよかった。昭和のはじめまでは柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて人が行き来したという。

 

 1924 大正13年に刊行した會津八一の最初の歌集 『南京新唱』 に 「欠けおちていはのしたなるくさむらの つちとなりけむほとけかなしも (欠け落ちて岩の下なる草むらの土となりけむほとけ悲しも)」 「かきの実をになひてくだるむらびとに いくたびあひしたきさかのみち (柿の実を荷いてくだる村人にいくたび会いし滝坂の道)」 といった歌がある。 

 

 

 

 
 

 

 やがて左手に夕日観音と三体地蔵が見られ、さらに進むと小さな滝が連続している流れの脇を道が通り、やがて川を渡ると対岸の岩壁にちょうど朝日を浴びて朝日観音と左右の脇侍を眺めることが出来た。早朝に高円山の頂からさしのぼる朝日に真っ先に照らされるのでこの名がついたといわれる。

 

 しかし本当は観音菩薩ではなくて弥勒菩薩だそうで左右の脇侍は地蔵菩薩、この滝坂道の石仏を代表する文永 2年(1265年、鎌倉時代)の銘がある仏さまである。京都に向かう奈良坂の般若寺近くに立つ夕日地蔵とともによく知られている。夕日地蔵は街の中に立っているが、朝日観音は静かな山の中にすでに 750年ばかり弥勒の世の出現を待って立ち続けているかのように思えた。

 


 
 

 

 

 さらに歩いていくと街道の雰囲気を残したやや平坦な場所に出た。無人だがしっかりした休憩所がある。その前の別れ道に立っているのが首切地蔵で、首の下に横に割れ目が入っている。荒木又右衛門が試し斬りしたという話があるそうだ。ここで道は左右に別れるが、左の道は春日山石窟仏(穴仏)を通って石切峠に向かう。右の道は溜池の縁を通って地獄谷石窟へ向かう。私たちは右へ行ったが奈良奥山ドライブウェイを横切り地獄谷への下り道に入るところに何故かひもが張られて 「危険通行禁止」 と書いてある。仕方なくドライブウェイをしばらく歩いて峠への道に入りしばらく緩やかに登っていくと右手に地獄谷への道があるがここにも「通行禁止」 と書いてあっ た。やむなく地獄谷は断念して峠の茶屋に腰を下ろすことにした。

 地獄谷の石窟には平安時代の 6体の仏像が線刻されているようだがそこまで行けないのでは仕方ない。後に茶屋の人に聞いたら道の途中が崩壊しているそうだ。石窟の仏像を詠んだ「いはむろのいしのほとけにいりひさし まつのはやしにめじろなくなり
(岩室の石のほとけに入日さし松の林にメジロ鳴くなり)」 に添えた會津八一 の自註に 「その壁上に六体の仏菩薩像を線刻し、もと彩色を施し、所々に金箔を押したる痕跡あり。藤原時代の作と見らる」とある。しかし、「彩色は古いものに見えるが昭和二十年代のもので、墨で汚されていたのを、誰かが着彩したものである」 と書いてある本もある(小川光三 『大和路 古寺・仏像巡り』)。どちらが真実なのだろうか。今は石窟の入口に柵が作られてすぐ傍までは近づけないようだ。
 
 おそらくこの石切峠までの道が滝坂道なのだろうが、ここまではそんなに急ではないがほぼ登りばかりの静かで気持のよい、小鳥の鳴き声を聞きながらの山道だった。歩いている人は少なくここまでに出会ったのは一人歩きの男性
2名だけだった。 

 
 
 

 
 

 

 満開の山桜の前にある茶屋は思ったより立派な建物で男の人が一人で守っているら しい。100年以上は経った建物というが、部屋の欄間には旅人が置いていったという鉄砲などが飾ってあり歴史を物語っているようだ。草もち、しょうが湯の札が下がっていたのでしょうが湯を頼んだが高いのに驚いた。しょうがの味と甘味が疲れたからだにおいしかったが、世の中そうは甘くないぞという感じだ。
 

 


 
 

 

 さて、峠の茶屋を出ると道は緩やかな下りとなりすぐに上誓多林の集落になる。狭 いところに家が何軒も建っているがみな瓦葺のしっかりした家ばかりだ。山の斜面にはきれいに刈りそろえた茶畑が見られたが、その中に大きな地蔵菩薩像などがかたまって立っているのが珍しい眺めだった。この集落を抜けると道は人里を離れて山の中を円成寺に向かっていく。だいぶ疲れてきたころに一見して古い墓石・五輪塔の多い墓地に出たがすぐ近くが目指す円成寺だった。奈良からの車道が寺の前を通っている。ここから柳生までは里道をさらに約 9kmも歩かなくてはならない。すでに約 9kmの山道を歩いてきた合わせて140歳を越える二人にはいささかきついようだ。そこでここからは午後 1時通過予定のバスに乗って柳生に向かうこととし、寺をゆっくりと拝 観した。

 


 

 

 

 

 

 円成寺は運慶初期の仏像が安置されている寺として私の記憶にあり、いつか訪ねたい寺の一つだった。車の通る道より少し低いところに大きな池があり、伽藍は一段高いところに建てられている。広い平地の少ない山間地に浄土庭園を備えた寺院を建てようとした工夫なのだろう。中の島のある明るく優美な池では鴨がえさを探し、池のほとりには桜が咲いていた。正面の石段を登って楼門を入ると屋根が低くて大きな本堂(阿弥陀堂)が建っている15世紀再建)。入母屋屋根の三角の破風が正面に見えその下から大きな庇(向拝)が延びて、正面の階段の左右は舞台になっている。阿弥陀堂としては大変珍しい形をしているが、このお堂の右手にある小さなお宮をみて謎が解けた思いがした。同じ形をした二つのお宮は春日堂・白山堂といい鎌倉時代初期の春日造社殿を伝える貴重なもので国宝に指定されている(写真)。大きな本堂はこの社殿を大きくしたような形をしている。お寺の本堂の脇に国宝の社殿があるのは珍しいが、円成寺と春日大社との深い関係を物語っている。本堂(阿弥陀堂) 5間に 5間だが、中央に阿弥陀如来像(12世紀が安置され周囲の柱には25菩薩が描かれて聖衆来迎を示 している。しかし正面以外の三方にコの字状にいくつかの部屋が作られているのはおそらくあまり例がないだろう。


 本堂の前に建つ多宝塔1990年再建の本尊が運慶作の大日如来像である。ガラスが邪魔して少し見にくいが、両手の拳を合わせて坐っている姿は定朝様のふっくらおっとりとした本堂の阿弥陀如来像に比べれば、身体が引締まり写実的でしかも若々しい清新の気に溢れている。この像は台座の天板の裏側に墨署銘がある。その写しが像の手前に置いてあるが、銘文には、「運慶が安元元(1175)11月に制作を引受け、 翌 2年10月に完成させて上品絹43疋をもらった」 とあり、最後に 「大仏師康慶実弟子運慶」 の文字と花押(かおう、サイン)が書いてある。康慶は運慶の父親、運慶は当時25歳前後でこの像は彼の最初の作品であり、仏師が署名を遺した最初の例でもある。この 4年後の治承 4(1180) 年暮に平氏によって東大寺・興福寺が焼き払われ、その再建に運慶らが活躍することになる。

 

 バスに乗ると僅か20分ばかりで終点の柳生に着いてしまう。里道とはちがう新道だがあっけないものだ。終点の近くには造り酒屋があり柳生錦・春の坂道といった酒の看板が出ていた。「春の坂道」 は柳生宗矩を描いた山岡荘八の作品名でNHKの大河ドラマにもなった。柳生の里は川に沿って南北に細長いが、ひときわ見晴しのよい山の上に柳生一族の墓がある芳徳寺が建っている。柳生但馬守宗矩が父石舟斎供養のために創建、有名な沢庵和尚が開山で柳生氏の居城の跡ともいわれるが、春の日差しのなか時折吹く強い風に桜が花吹雪となって散っていた。この里を訪れるのは柳生一族の物語の愛好者か剣道の関係者が多いらしい。花と新緑の柳生の里も休日ではないせいか観光客が少なくのんびりと歩けたのがよかった。また泊るところが 2軒しかないのも分かったような気がした。

 柳生には瓦葺の立派な家が目立つ。母屋のほかに蔵などの建物が幾棟も固まって建ち塀をめぐらしている。あまり敷地が広くないので一つの塊のように見える。土地の人に聞くと、「家が立派だとよく言われるけど、家族は少なくみな質素な生活をしています」 とのこと、家に金をかける土地柄なのだろうか。狭い敷地に建物が固まっているようすは円成寺の境内の印象と同じだと感じるのは私だけだろうか。

 

 川の近くに建つ民宿から眺めた春の柳生の里の風景はよかった。どちらを見ても低い山の斜面となり桜の花の白と新緑が横に広がる風景はやはり超ワイドの人間の目で見るにしかずとつくづく思う。カメラはポケットにいれたままで味わった。夜はまた雨が降ったが朝にはあがったので、バスの時間の関係で円成寺までは無理としても途中までは歩こうと怪しい空模様だったが出発した。

 

 
 
 
 
 道は山向うの川沿いに出るために阪原峠を越えるが、その登り口にあたる柳生の里のはずれに元応元年(1319、鎌倉時代)の銘のある疱瘡地蔵がある。大きな御影石の岩に南を向いて地蔵菩薩が彫られ、その右側面にも小さな仏像が数体彫られている。今は屋根に覆われているがもとはなかった。村人を疱瘡のような災厄から守るために祀られたのであろう。実はこの地蔵菩薩も一度見てみたいとかねてから願っていた。というのは、この地蔵菩薩の右下に15世紀に徳政の行なわれたことを示す碑文が彫られているからだ。
 

 大正の末年に地元の研究者によって判読されたもので、高校の日本史教科書にも紹介されるほど有名な碑文である。半紙大の窪んだところに、「正長元年ヨリ/サキ者カンヘ四カン/カウニヲヰメアル/ヘカラス」 と彫られている。今回実物を見て分かったのだが岩はきめの粗い御影石のためとても上のような文字は読めない。かろうじて 「正長」 が分かる程度だ。よほど丁寧に拓本を採ってみないととても判読はできないだろう。しかし教科書に紹介されている拓本ははっきりと上のように読める。この碑文が何を意味しているのか。教科書の説明を紹介しよう。

 
 「これは当時春日社領の大柳生・坂原・小柳生・邑地の神戸 4カ郷の郷民が正長の徳政一揆の成果をしるしたものである。文意は 「正長元(1428)年より以前に関 しては、神戸四カ郷には負債がいっさいない」 というものでそれまでの負債が正長元年ですべて破棄されたことを示している。(『詳説 日本史』 山川出版社)
 
 正長元年の徳政一揆(土一揆)は京都・奈良周辺の民衆が広範囲に蜂起したもので、当時春日大社の支配下にあった柳生地域でも徳政が実現したことを示している。民衆が自らの成果を記録した大変珍しい貴重なものである。

 


 

 

 
 

 

 阪原峠はたいしたこともなく越えたが藪椿が赤い花をたくさん山道に散らしていた。峠を下った南出という集落には南明寺という古い寺があり、少々武骨だが鎌倉時代のお堂が建っている。堂内には平安時代の仏像があるそうだが見られなかった。奈良周辺はどこを歩いても鎌倉・室町時代の建物や石造物が珍しくないのが関東との歴史の違いと関東の住人は感じる。因みに東京都で最古の木造建築は東村山市の正福寺地蔵堂(国宝)15世紀初頭(室町時代)の建築とされている。


 バスの走る道を近くに見ながらなおも里道を辿るとやがて塔阪に着くがここで東海自然歩道と別れて大柳生のバス停に到着した。空模様もだいぶ怪しくなり雨が降ってきた。よい判断だったかも知れない。すぐ近くには瓦葺の柳生らしい家と草葺の家がそれぞれ塀に囲まれて隣り合わせに建っていた。

 再び奈良に戻った私たちは昔の町のようすが残っている奈良町を散策して夜は酒肆春鹿に腰を下ろした。日本酒はいかにも奈良らしい春鹿という奈良町の地酒だけを出す。戦前の建物を利用した店はカウンターの奥にいくつかの座敷もあって落着いた雰囲気で、今が旬の若竹煮などをつまみ純米吟醸を味わいながら今日の疲れを癒した。