捨 て て こ そ 

 


 時宗総本山遊行寺(神奈川県藤沢市)の三大行事の一つに 「別時念仏会」 がある(あ との二つは春秋の開山忌)。そのクライマックスが11月27日の夜に行われる 「一ッ火」 といわれる儀式で、この日は時宗の信徒をはじめたくさんの人が参集すると聞いていた。11月も末になると冷え込んで広い本堂の中は一段と寒い。夕方 5時前にお寺に着いたが広い境内の隅には既に何台ものバスが停まっており、岩手・群馬・宇都宮・沼津といったナンバープレートからこの日のために地方からきた信徒がずいぶんといることが想像された。本堂の外陣で儀式の始まるのを待つ人もどんどん増えてきた。

 この日の本堂は内側に黒い幕を張り巡らして外からの光を完全にさえぎるようにしてある。ご本尊の前には竹で大きな枠が作られ、上部には 「南無阿弥陀仏」(名号)の軸が18、その下に歴代の遊行上人が書いた名号が吊り下げられて全体が大きな壁のようになりご本尊は完全に隠れた状態になっていた。その左手下方には熊野神社のご神体とご神影が祀られ、それぞれの前に置かれた台の上には燭台などが置かれている。内陣には帯状の敷物が敷かれ、そばの台の上にはいろいろなものが置かれて儀式の開始を待っている。私たちの座る外陣との境には左右に 6つずつの灯明が並び、本堂内陣の左右の壁にもムシロで囲われた灯明が 6つずつ吊るされている。外陣中央の入口よりには白布で覆われた背の高いやぐらが置かれてひときわ目立つが、その上には四角形の灯籠が置かれ、すぐ後の長押の上には釈迦の絵像が掛けられている。内陣の帯状の敷物はここまで延びている。いつのまにか堂内には参拝者が一杯となり立 っている人もいた。

 午後6時を過ぎると堂内の灯明が次々とともされ、奉仕する僧尼に次いで遊行上人が昇堂して所定の場所に座ると遠くで低い太鼓の音が響いていよいよ儀式の始まりである。太鼓の音は雪の降るさまを暗示しているそうで、この行事が本来歳末の儀式であったことの季節感を示しているように思われる。


 

  儀式の前半は 「報土入り」 といって、独特の節回しの念仏大合唱の中で内陣の左右に控えている僧尼12名が一人ずつ呼び出され、細い敷物の上を通って上人の前に結跏趺座して念仏三昧に入る。しばらくして極楽浄土に往生した後、またもとの席に戻ることで穢土(現世)に立ち帰って衆生済度のために献身する心を示すという(12名 終るまでがとても長い)。次に浄土の阿弥陀仏と穢土の釈尊に念仏が捧げられ(片切念仏)、 さらにこの儀式に参列した人たちの名が読み上げられ(番帳読誦、これも長い)、上人が 僧尼に対する訓戒(道場制文)を読み上げて儀式はいったん休憩に入る。このとき参拝者は振舞われた甘酒で一息つくことになる。
 
  休憩が終るといよいよ 「一ッ火」 の始まりである。堂内の灯火が次々と消されていき、あたりは一段と暗くなる。やがて最後に残った名号の壁の前にある 「大光」 とやぐらの上の 「後燈」 (写真)が同時に消されて堂内は暗闇となる。隣に座っている人も全く見 えない。まさに暗黒の世界で物音一つ聞えない。すると闇の中に低く念仏の声が起こりやがて火打石で再び大光と後燈に灯が甦ると念仏の声は大合唱となって堂内に響き渡るようになる。火は灯明に次々と移されて堂内は明るい光と念仏大合唱の中に再び生気を取り戻すことになる。かくて、「無明暗夜の闇は晴れて、釈迦・弥陀二尊をはじ め諸仏諸尊の光明は輝き念仏三昧の世界がもどってきた」 とされる。 これで 「一ッ火」 の儀式は終りとなり、上人から 「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」 と刷られた小さな紙片をいただき(賦算)、お堂の外で振舞われる小豆粥に一息ついた参拝者はそれぞれに暗い境内を後にした。時計は午後 9時近くを示していた。
 

 
 遊行寺の大切な行事に参拝して、「これは開祖一遍上人の行実を劇的に再現したものだ」 と感じた。遊行に持ち歩いた名号の軸、何よりも儀式の内容が上人が信濃の善光寺で感得した 「二河白道」 の教えをよく示している。絵巻物 『一遍聖絵』 には、「文永八年の春、ひじり善光寺に参詣し給ふ。」 「この時己証の法門を顕し、二河の本尊を図したまへりき。」 「同年秋のころ、予州窪寺といふところに、青苔緑蘿の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとどめて、ひ とり経行し、万事をなげすてて、もはら称名す。」 と書かれている(第一巻、第三、四段)。「二河白道」 とは、中国唐の善導が書いた 『観無量寿経疎』 に説かれている譬喩で、往生を願うものの前に水と火(貪りや怒り)の二河があり、そこには細い白道が一本通っている。その時こちら側からは 「進み行け」 という声(釈尊)が聞え、あちら側からは 「進み来たれ」 という声(阿弥陀仏)が聞える。その声に励まされて迷わずに白道を渡ったものが浄土に往生できることで、これを図示したものが 「二河白道図」 である。一遍上人の法語に、「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河はわがこころなり。二河にをかされぬは名号なり。」 とある(『播州法語集』)

 「予州窪寺」 は一遍の故郷伊予国松山にある。この 3年後に紀伊国熊野本宮で、「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」 と念仏賦算の啓示を受け、名を智真から一遍に改めて念仏札をくばる(賦算)旅にでた。一遍の後半生は阿弥陀仏の救いと衆生を結ぶための身を挺しての全国行脚、遊行の旅だった。その困難の多かった旅は一遍の身体を弱らせたのだろう。同じく念仏に徹した法然や親鸞に比べるとはるかに若い51歳で兵庫の観音堂で亡くなった。
 

 
 『一遍聖絵』 は、一遍が観音堂に着いてから亡くなるまでの様子を詳細に描いている(第十一、十二巻)。これを読み、絵を見ながら考えたことがいくつかあった。
 日に日に弱っていく一遍の様子に周囲の人たちは 「臨終は今か今かと」 と緊張の日が続いた。「聖、西にむきて合掌して念仏し給」 「門弟ばかり前後に坐せしめ、頭北面西にして念仏し給ふ時、道俗おほくあつまりて」 とある。またある日、紫雲が見えると伝えると、「さては今明は臨終の期にあらざるべし。終焉の時にはかやうの事はゆめゆめあるまじき事なり」 「瑞花も紫雲も出離の詮にはたたぬ事」 と否定している。臨終にあたっては、頭を北に西を向いて側臥するのが普通とされた。釈尊涅槃の姿であり、 西方極楽浄土の阿弥陀仏と向き合う姿でもあった。そしてさまざまな瑞相で美化された。法然も親鸞も絵巻物にそのように描かれている。法然の場合は雲に乗った来迎の阿弥陀仏まで描かれている
(『法然上人行状絵図』)。『一遍聖絵』 でも最初はそうであったが、頭を逆方向にして仰臥し合掌する姿に書き直したことが絵巻物の修復作業で明らかとなった。面白いことに親鸞の場合はその逆で、最初は仰臥合掌だったのを頭北面西に描き直していることが同じく修復作業で分かった。

 絵巻物 『親鸞伝絵』 は親鸞の曾孫覚如が没後33年にあたる1295年に制作したが、1336年に焼失したという。 しかしその写本が 6つ残されている。といっても内容には異同があり制作年代についても異論があるが、そのうち 3つについては詞書を覚如が書いたとされている。上の 「仰臥合掌」 が確認されたのはこの3つのうちもっとも原初性が高いとされる津市の高田専修寺本である。ではなぜ描き直されたのだろうか。詞書に 「右脇に臥したまひて、つゐに念仏の気たへをはりぬ」 とあるのを絵師がミスをした結果、覚如が描き直させたのだろうと書いてある。また、「覚如は、臨終来迎を否定した親鸞の死らしく、 そうした瑞相を一切記していない。」 「実際の親鸞の臨終はもっとあっけないものらしかった。九十歳という、当時としては超高齢ともいうべき年齢で、おそらく老衰のような死亡だったろう」 とも書いてある
(平松令三 『親鸞』)。とすれば消された 「仰臥」 のほうが事実に近く、「側臥」 は覚如による 「あるべき臨終の姿」 への美化の結果ではないのだろうか。

 『一遍聖絵』 は、上人の死後異母弟聖戒が絵師を伴って遊行の跡を実際に辿った後に、詞書を聖戒が書いて没後10年の1299年に完成した。上人の思い出がまだ新しい時期に事実に即して描かれているので史料的価値が高い。一遍の時代にも 「頭北面西」 が普通なのは 『聖絵』 に上人の師聖達
(法然の孫弟子)の臨終が 「頭北面西にて往生し給ぬ」 と書かれていることからも分かる。では一遍の場合はどうだったのか。「所持の書籍等」 を焼いて 「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」 と弟子達に告げた後はさきにみたような情況で臨終が近付いてきた。そして、「八月廿三日の辰の始、晨朝の礼讃の懺悔の帰三宝の程に、出入のいきかよひ給もみえず、禅定にいるがごと くして往生し給ぬ。」 上人の遺詠の一つ、「南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるいき いらばはちすのみとぞなるべき」 にふさわしい最期といえよう。瑞相も、来迎も、頭北面西も超えたところに死-永遠の生命を見つめていたのであろう。

 一遍はいくつもの消息
(手紙)を残しているが、その一つに、「南無阿弥陀仏ととなへて、わが心のなくなるを、臨終正念といふ。此時、仏の来迎に預て極楽に往生するを、念仏往生といふなり。」 とある。来迎は目的ではなく結果なのだろう。また別の人への消息で、「念仏はいかが申べきや」 との問にたいする空也上人の 「捨ててこそ」 とい う答は 「誠に金言なり」 として、「念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ。」 と述べている(『一遍上人語録』)。されば 『聖絵』 で最初は頭北面西側臥に描かれた臨終の場面が頭南仰臥-ごく自然な姿に直された理由がわかるように思う。
 
 
 

 ところで 『一遍聖絵』 では、上人は自身の死後のことについて、「没後の事は、我門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野にすててけだものにほどこすべし。 但、在家のもの結縁のこころざしをいたさんをば、いろふにおよばず」 と述べている。 また 『語録』 には、「法師のあとは、跡なきを跡とす。跡をとどむるとはいかなる事ぞ。われしらず。世間の人のあととは、これ財宝所領なり。著相(執着の対象となるもの) をもて跡とす。故にとがとなる。法師は財宝所領なし。著心をはなる。今、法師が跡とは、一切衆生の念仏する処これなり。」 とある。

 「一切の執着を捨てて念仏を」 と説く一遍が亡くなったあとその教えはどうなるのか。人間とは悲しいもので、見えるもの、手がかりがないとそれに近づけないようだ。上人が所持のものを焼き捨てたときに弟子達は、「伝法に人なくして師とともに滅しぬるか」 と悲しんだと書いてある。しかし遺言に 「在家のもの…」 があったお蔭で 「在地人等あつまりて御孝養したてまつるべきよし申ししかば、遺命にまかせてこれをゆるしつ。よりて観音寺のまへの松のもとにて荼毘(火葬)したてまつりて、在家のともがら墓所荘厳したてまつりけり。」 ということになった。『聖絵』 には五輪塔のお墓 と一遍上人の像を祀ったお堂が描かれている。やがて教団が形成されて、一遍の教えは弟子達によって受け継がれていったが、それは上人が生涯をかけて求めたものから離れていく、または別のものになっていく歴史ではなかったか。こんなことを考えながら10月の末に一遍上人のお墓に参った。
 

 
 神戸市兵庫区の真光寺が上人の亡くなった観音堂のあった場所で、JR兵庫駅から南に歩いて15分ほどのところにある。兵庫駅の西隣りは新長田駅で、あの大震災で焼野原になったところだ。兵庫駅のあたりも大きな被害を受けたのではないかと思われるが町を歩いただけではよく分からない。


 

 うかつにも町を歩いて気がついたのだが、ここは平安時代以降大いに栄えた大輪田泊(港)があったところだった。平清盛が港を修築して日宋貿易の拠点としたことは高校の教科書にも書かれている。真光寺の前には清盛塚という大きな十三重石塔が建 ち、近くの能満寺には清盛の墓と伝える十三重石塔があった(いずれも鎌倉時代)。近 くの川にかかる橋は大輪田橋、清盛橋とという名だった。港町神戸発祥の地といえるのだろうか。町を歩いているとこうした歴史を教えてくれる説明板にお目にかかる。 しかし、町は平坦地で新しい建物が多く、大きな樹木が少なくて道路も直線的だ。いかにも海の近くにできた新開地といった雰囲気で歴史とのギャップが大きい。やはり戦災や大震災の影響なのだろうか。
 
 真光寺についても同じような印象だった。寺域は方形の平坦地で大きな木が少なく全体が明るい。本堂などの建物はコンクリートで作られていた(大震災の前からという)。 境内の左手に目指す一遍上人の墓所があった。築地塀に囲まれた中にさらに垣に囲まれて大きな五輪塔が建っている。鎌倉時代のものだそうだが、もっと小さな苔むした石塔といった私の想像とは異なってまことに堂々たるものであり(高さ1.95m)、すぐ傍には 「荼毘所」 と彫られた石標が立ち石の仏が祀られていた(写真)

 あの阪神淡路大震災の折に五輪塔が倒壊して塔の中に安置してあった壷が転がり出た。その中には遺骨と灰が入っていたそうである。恐らく一遍上人のものだろうが調査はされずに再び埋納された。学問的に究明することは宗教的には意味をもたないということなのだろう。法然・親鸞に始まる浄土宗や真宗と比べれば時宗は小さな宗派でしかない。しかし世俗的な大小は信仰とは別次元の問題だろう。一遍の信仰と生涯はいまなお多くのことを我々に問いかけてくるように思われる。