岡谷駅には観光案内所はなく駅でもらった資料を手に私は寒い風の吹き抜ける街を歩いた。岡谷についての私のイメージは「みんな髪は桃割れに赤い腰巻きをつけ、ワラジばきに木綿のハバキ、背中に荷物を袈裟掛けといういでたちで、五月春びきが終わると田植に帰り、またすぐ夏びきに出かけ、暮れ迫る十二月末には吹雪の峠路を飛騨へ帰っていったという」 あの 『あゝ野麦峠』(山本茂美)の製糸工女哀史で知られた町だったが、歩いてみると今はまったくその面影はなくて公開している唯一残った当時の経営者の邸宅(旧林家住宅)は冬期休館で人影がなかった。「林立する諏訪千本の煙突から吹き上げる黒煙が諏訪湖一帯を覆い、岡谷のスズメは黒いといわれた」大正から昭和にかけての最盛期の町の様子は岡谷蚕糸博物館で偲ぶしかないようだ。
諏訪湖の水が流れ出るところを釜口水門という。駅から南に30分ほど歩いたところにあり水面の一部が凍っている湖の水が静かに落ちていた。その辺を流れている小さな川と同じような流れがやがてあの大きな天竜川になるのかと月並な感慨にふけった。湖面の彼方には雪に覆われた山が連なり、水門の近くに建つ家はなぜかどれも大 きくて立派だった。水門の近くには大小二つの神社があったが両社とも本殿の周囲に 4本の御柱(おんばしら)が立っていた。ここまで来る途中の神社にも立っている。御柱はもちろん諏訪大社が有名だが、諏訪湖の周辺では諏訪神社でなくてもこの御柱が立つことになっているのだろうか。そもそも御柱は何のために立つのだろう。手元の資料には 6年 目ごとの御柱祭についての説明は詳しくてもこの疑問には答えてくれない。神様の依代( よりしろ)なのだろうか?
近年の岡谷は 「うなぎのまち」 で売り出そうとしているようだ。1月の土用の入り から立春までの間の丑の日を「寒の土用丑の日」 と定めてさかんにPRしている。ダムなどなかった昔は諏訪湖や天竜川は天然のうなぎがたくさん捕れたのでおいしい蒲焼が食べられたが、その伝統が今に受け継がれて「うなぎのまち」 となったようだ。 ところが駅でもらった地図にはうなぎ料理の専門店はなぜか街の中心部にはなくていずれも周辺部にある。だが街のなかには川魚の専門店が何軒もありいずれも自慢の蒲焼を焼いて売っている。ワカサギやフナの佃煮もおいしそうだ。岡谷の人たちは自分の家でこうしたおいしい蒲焼を食べているのだろう。しかし旅人はそうもいかないので駅から遠いうなぎ屋へ行くしかない。釜口水門の近くには 2軒のうなぎ屋があった が私はもう少し駅よりの店-濱丑でうな重を食べた。創業120年余だそうだが焼きたてのふっくらした蒲焼はなんともおいしくて寒さに凍えた身体が生気を取戻した。
飯田に向かう列車が辰野駅を過ぎるといよいよ南へ伊那谷を進むことになる。車窓からは右側(西)のわりと近くに中央アルプスの山々を眺めることができる。伊那市・ 駒ヶ根市と進むに従って雪に覆われた駒ケ岳・宝剣岳、空木(うつぎ)岳・南駒ケ岳といった3000 mには少し足らない高山が次々と現われる。左側(東)はやや離れて1500m前後の山が屏風のように連なりその向うに3000m級の南アルプスの山々が見られるがやや遠いため迫力には欠ける。飯田までは天竜川に沿って南北に細長いが東西にも開けた明るい盆地の風景が続く。飯田市はこの細長い盆地の南端に位置する大きな町で、岡谷から 2時間と少しかかったがこれは全体の 3分の1くらいの時間にあたる。
暗くなるにはまだ時間があったので街を歩いてみた。例によって観光案内所で地図をもらい、予備知識を得て冷え込む街を見て廻る。戦後間もなくの大火で街が焼野原となりその後できた大通りに中学生がリンゴの木を植えて大切に育てた話は昔聞いたことがあった。このリンゴの木は今は枯れたりして若い木に代わっているものもあるが、 残った老木は幹が太く枝はだいぶ切られていたが存在感があった。また城跡の周辺は 大火では焼けなかったので昔の面影が少しは残っていた。料亭入口の立派な門松にはきれいな水引の飾りがついていた。街を歩いて気付いたのはあちこちにそんなに大きくはないが商店の並ぶ通りがあり、どこにもあるようなアーケードのある大きな商店街がないことだった。今風に画一化した街ではなく昔の町並みが今も生きていて、映画館があり飲食店も多いように感じられたのは、おそらく南信州の中心地として周辺地域の多くの住民が支えているからだろう。飯田の辺りは線路がまるで街を囲むように敷かれて駅も多く、車窓から見ても住宅地が相当に広い範囲に見られた。
飯田はまた画家菱田春草、詩人日夏耿之介の生地であり柳田國男が養子となった柳田家の出た町でもあった。菱田春草は横山大観らと近代日本画の確立に努力し、兵庫県福崎に生れた松岡國男は1901年27歳の時に柳田家の養子となった(その縁で東京の成城にあった書屋を移した柳田國男館が城跡にある)。リンゴ並木にある日夏耿之介の詩碑の前には戦争中飯田に疎開していた作家岸田國士(くにお)の 「飯田の町に寄す」 という詩碑もあり、大火の前の城下町飯田のようすが偲ばれる。
飯田 美しき町/山近く水にのぞみ/空あかるく風にほやかなる町 |
翌日は 9時21分に飯田駅を発った。天竜峡駅の三つ手前の駄科(だしな)駅辺りからは両岸の山が迫ってきて列車はいよいよ渓谷に沿って山岳地帯を縫うようにトンネルを次々と潜りながら走るようになる。春か秋ならば素晴らしい眺めなのだろうが冬はいかにも寂しい。列車を乗り継いだ天竜峡駅は川下りの季節には賑わうに違いないが、今は静まり返っている。列車が渓谷を走るようになると当然沿線の人家は少なくなるが、不思議なことに駅間の距離はわりと短いのが多い。駅の前後がトンネルでホームだけがぽつんとあるといった駅がいくつもある。金野(きんの)駅の周辺には人家はまったく見られない。さらにすごいのは田本駅で、ホームは絶壁にへばりついており線路の向うは天竜川へ険しい崖になって落ちている。はたして駅を利用する人がいるのかといつも持っている地形図(20万分の1)をみると近くの山の上にぱらぱらと人家があり道もあるようだ。また小和田(こわだ)駅は長野・静岡・愛知 3県の県境近くにあるのでホームに 3県の方向を示す木標が立っていた。
この辺りはさすがに駅間の距離は長いが次の大嵐(おおぞれ)駅を出ると長い大原トンネルを抜けて東側の谷を列車は進むようになる。下流の佐久間ダムの建設により水没する路線を付け替えたためで、峰トンネルを出た佐久間駅で元に戻るが今度は天竜川が東に大きく蛇行して離れてしまい、列車は北流する支流を遡るように走ってやがて静岡県と愛知県の県境をトンネルで越える。ここが分水嶺でこれから先は豊川に沿って下っていくことになる。三河川合駅の辺りで山岳地帯が終ってトンネルもなくなり、列車が進むに従って視界が開け人家も増えてきた。長篠城駅では有名な長篠の戦いはこの辺だったのかと思ったりしたが、やがて豊川・豊橋両市の近郊路線となった飯田線の終点はもうそれほど遠くはなかった。
ところでこの飯田線には始・終点を入れて94の駅があるので駅間距離は平均 2.1km になる。昨年の冬に乗った只見線は平均 3.7km、中央線の東京駅・高尾駅間の通勤電車区間は平均 1.7kmである。飯田線は山岳地帯があるわりには駅間距離が短いようだ が、その理由はどうもこの鉄道の歴史にあるらしい。もともとはこの路線は 4つの私鉄だったが戦時買収で国有化されて飯田線となり(1943年)それがJRに引き継がれたもので、鉄道の建設にあたって地域住民の協力を得るために細かく駅を設置した私鉄の苦労を示しているようだ。
開通は豊橋・大海(おおみ)間(豊川鉄道)がもっとも早くて1900 (明治33)年に、大海・三河川合間(鳳来寺鉄道)が1923(大正12)年、天竜峡・辰野間(伊那電気鉄道)は1927(昭和 2)年で三河川合・天竜峡間(三信鉄道)は山岳地帯の難工事でもっとも遅く1937(昭和12)年になる。佐久間ダムの建設は戦後の電源開発最初の記念碑的な大工事だった。
いろいろと知ったり考えたりの長いローカル線の旅だったが、13時01分に豊橋駅に着いた私にはまだ東京駅までの東海道線 293.6kmの旅が待っていた。