居酒屋に寄るのが好きな酒飲みならば、自分の理想的な居酒屋を夢見たり自分がやってみたいと本気になって思ったりすることがある。私もそんな人間の一人で、いろいろと夢想したものだが、そのうちもし居酒屋の主人となったら酒を飲みたいときに自分が飲めないと気付いて諦めたことがある。
 
 作家島田雅彦が先日新聞に 「居酒屋 「まさっち」」 を書いているのを読んで、ああここにも夢想家がいたと苦笑した。「実際に経営者になったら、仕入れや採算や接客に悩まされるだろうが、空想居酒屋ならどんな奇抜なメニューやポリシーを打ち出そうが、思いのままである。「こんな居酒屋があったらいいのにな」というおのが理想をとことん追求すればよい。空想居酒屋 「まさっち」 はこれまで私が訪れ、独断で星をつけた実在居酒屋のいいとこ取りをしている」 と書いている。(『朝日新聞』 2017.1.7)
 
 昭和時代の戦中・戦後、酒もたばこも自由にならなかった大変な時代にも理想の居酒屋を夢見た人がいた。実は他にもきっとたくさん、たくさん同じような人はいたことと思う。そういった人たちの思いを文章で伝えてくれたのが青木正児(まさる)という一人の酒飲みだった。
 

 
 京都は東山の高台寺の近くに陶然(とうぜん)亭という酒亭があるのを知っている人は少ないだろう。 酒袋の古布で作った渋い柿色の暖簾(のれん)を潜ると中には20人ほどが座れるテーブルと椅子が並んでいる。店の奥には灘・伏見の銘酒の菰(こも)かぶりがいくつも置いてある。
 
 
 
 
 さて酒客が席につくと早速注文を聞きに来て、酒の銘柄を聞くと 「酒肴目録」 を置いていく。たくさん並んだ酒肴の中から客は欲しいものに印をつけていく。 注文した酒は銘柄の名が書いてあるガラスの燗瓶(かんびん)に酒樽から酒を入れて同じくガラスの盃と一緒にテーブルに運ばれてくる。器がガラスなのは清潔であること、量がはっきりわかること、酒の色を楽しむことができることからだそうである。そして、テーブルの上には燗瓶が3本は入る湯沸しが電気コンロにかけてある。客が自分の好みに応じて燗ができるようにとの亭主の心遣いである。

 酒肴の品数の多さにも目を見張る。 1.おつまみ 2.なめもの 3.酢のもの・和えもの 4.鍋もの 5.茶菓子 と大きく分けたそれぞれにしゃれた名称の酒肴がいくつも記されてお り、上戸の気持を知りぬいた亭主のこまやかな気配りを見ることができる。「酒味を尊重する立前からすると、肴は余り滋味に過ぎてはいけない。滋味に過ぎる時は酒味が肴味に圧倒せられて十分の妙趣を得られないので、肴味は酒味を佐(たす)くる程度もしくはこれを誘発する性能を有する簡素淡白なものでなければならぬ。」 といった亭主の哲学と、肴の選択を客の好みに任せる 「自由主義」 をとるかぎり品目はおのずから多種多様にならざるを得ないのである。たとえば、1.のおつまみは、精進もの、魚類、炒りもの、焼きもの、しぐれ煮、 煮豆、新案擬製菓子、海川佳味、異国風味に分かれてそれぞれにいくつもの肴が並ぶといった具合である。

 亭主の酒肴についての考えの原点は、たまたま入った小さな酒場で目にした光景だった。 「浅草海苔を一枚炙(あぶ)り、揉んで小皿に入れ、花鰹を一撮(つま)みつまみ込んで醤油をかけ、擦山葵(すりわさび) を比較的多量に副えて、燗酒と共に差出した。男は受取ると箸でそれをまぜて、ちょいと挟んで嘗めながら、如何にも旨そうに飲み始めたが、ぐびりぐびりと盛んに傾ける。」 それを見て、「花鰹の味と海苔の香りと、山葵の鼻をつく新鮮な気と、酒の肴としての要件がちゃんと備わっている。そして胸にもたれず腹にたまらず。まるで肴の精(エッキス)といったような ものだ。」 と彼は感心した。亭主の多彩な 「酒肴目録」 は、まず酒を吟味した上で、まさにこの 「仙肴三要の理法」 を原則として工夫し、調達した結果なのであった。
 

 
 さてここまで読んだ人が酒好きならば、こんな飲み屋があるならぜひ行ってみたいと思うのではなかろうか。私もその一人だったが、実はこの酒亭はある人の空想の産物で実際には存在しないことを知ったときには本当にビックリしたものである。その人の名は青木正児といい、1887年生れの中国文学研究者である。その著書 『華国風味』 (岩波文庫) に収 められた 「陶然亭」 と題する文章は37ページにおよぶが、実に細かく具体的に酒肴についての薀蓄(うんちく)が学問的な裏付けをもって語られているのである。詳しくはこれを読んでいただくしかないが、私はこの文章の内容よりもこのような文章を書いた著者の心境を思って涙する思いにかられた。  
 
 この 『華国風味』 は、著者の還暦記念に飲食に関する論考を集めて出版したものであるが、その序文に、「幼少より、父が酒の肴をやかましく言うのを見なれ聴きなれ、自分で家を持つようになってから、晩酌の肴に一通りの小言を列べることも覚えて、美食するほどの力はないが、貧乏世帯は貧乏世帯なりに、あれやこれやと択り好みして、食い気もまず相当なものであると思う。」 と記し、最後に 「昭和22年7月主食遅配のもなかに 迷陽老饕(とう) しるす」 とある。「迷陽」 は著者の号で、「老饕」 とは 「老いの食い意地」 という意味である。
 

 
 1905年生れの私の父も毎日晩酌を楽しみに働いていたようで、幼かった私は毎日のように2、3合の酒を近くの酒屋に買いに行かされたのを覚えている。後年の母の話だとお金がなかったわけではなく家にお酒があると飲んでしまうのでその日の晩酌分だけを買ったのだという話だった。しかし、東京の下町で町医者をしていた父のこのような生活もあの東京大空襲ですべてが無に帰した。幼い子供たちを抱えて、何の補償もないなかで一家の生活を維持するために両親がどんなに苦労したことか。好きな酒を飲みたくても飲めない毎日をどんな思いで過したのか。戦中戦後の想像を超える苦労のために身体を壊して1950 年にわずか44歳の若さで亡くなった父を思い出すたびに、父の無念を思い、私は涙する思いにかられる。父の血をついで私も毎日晩酌を楽しみにするだけになおさらである。

 『華国風味』 の著者がなんと37ページも費やして 「あるべき酒亭」 について書いた思いは、飽食の時代 といわれる今日に育った人には想像できないことかもしれない。 1947年2月に家族で還暦を祝った時の料理をユーモア交じりで綴った 「花甲寿菜単」 と題した文章の最後に、「旧い顔馴染の 「忠勇」 と 「金鵄正宗」、敗戦の今日、忠勇金鵄、思い出づるだに涙の種。オットこれは泣上戸。」 とあるのも著者の思いと時代をよく示しているといえるだろう。

 因(ちなみ)に、陶然亭の 「陶然」 とは、「心地よく酒などに酔うさま。うっとりするさま。」 と辞書にある。
 (写真のぐい呑みは信楽 小島良栄の作、酒器は島根県出西窯)