11月に沖縄本島を十数年ぶりに訪ねた。初めての美(ちゅ)ら海水族館では沖縄の海の生物の多様さと美しさに息をのんだが、近隣の国からの見学者の多さにも驚いた。

 

 中城(なかぐすく)城跡ではボランティアで案内してくれた年輩の方の丁寧な説明で沖縄(琉球)の昔の歴史に思いを馳せることができた。美しい曲線を描いて丘の上に連なる石垣の上からの太平洋と東シナ海の眺めには感動した。近くにある古民家中村家では沖縄古民家をじっくりと見学することができた。沖縄本島ではもはや古い民家の集落はないのかもしれないが、いつか昔の集落が残る島に行ってみたいと思う。

 

 斎場御嶽(せーふぁうたき)を再訪したが、駐車場がやや遠くに移されて観光地化が進んでいるのに驚いた。一方では拝所で祈りをささげる人たちが二組もおられた。自分も観光客の一人なのに矛盾するが、このような今も生きる聖なる地は観光を止めるか制限した方がよいと思う。政治の世界などはもっと暴かれる(透明化)必要があるかも知れないが、このような沖縄の人たちの心の世界(信仰)はもっと大切にすべきではないだろうか。丘陵の草木に覆われた斜面には時々古い亀甲墓が見られたが、その形を模したミニミニ亀甲墓があちこちの墓地に見られたのも沖縄ならでの眺めであった。

 

 以下の文章は前に沖縄を訪ねた後に、沖縄の人たちの見えない世界(信仰)について書いたものである。
 

 
   あの世など信じてをらぬ吾にして 夫(つま)の墓石に水そそぎゐる
 
 大岡信さんの「折々のうた」で取り上げられた歌だが(『朝日新聞』2004年9月14日)、あの世など信じない-見えない世界は信じないのになぜ亡夫の墓に参るのだろうかと言っている。それは、長いこと共に生活した亡き夫は今も歌の作者にとっては見える世界の存在だからだと、私は思う。

 『朝日新聞』が「葬送」について読者にアンケートを取った結果をみた(2004年8月14日)。「自分の葬儀をしてほしいですか」という問に対して2834人のうち 44%の人が「してほしくない」と答えている。その主な理由は「家族をわずらわせたくない」「葬儀自体に意味を感じない」「お金がかかる」である。また「遺骨はどうしてほしい」との問については「墓に埋葬」が 51%、「散骨」が 28%、「樹木葬など墓以外に埋葬」11%という結果になっている。都市部に住んでいない人も含めて40%前後の人が、葬儀は無用、遺骨はお墓以外の場所にと考えていることが分かる。ということは、多くの人が「人は死んだら終り、あとは思い出の中に」というわけで、やはり見えない世界は信じないといった考えが多いことが読み取れる。
 
 
 
 一方、NHKの人気ドラマ 「ちゅらさん」 は、東京から沖縄の小浜島に帰省したちゅらさん一家がまず実家の亀甲墓にお参りするところから始まった。 また、2004年 4月に急逝した鷺沢萠さんが雑誌 『旅』(6月号)に寄せたエッセイ(遺稿)でこんなエピソードを語っている。普天間近くのレストランで食事をしていると顔は沖縄の年配の男女七八人が英語で会話しているので聞いてみると、沖縄からハワイに移住して同じ沖縄出身の人と結婚した家族と分かる。そこで、「沖縄の親戚を訪ねてのご旅行ですか?」 と訊いたところ、「They all are dead. We have to go to HAKA.」 という答が返ってきた。そこで 「ハワイに移住し、さらにカリフォルニアへと移った一家にとってのどのような係累が沖縄に埋葬されているのか、ということまでは訊かなかったが、なにせ親類一同が揃って、はるばるロサンジェルスから沖縄まで、墓参りのためにやって来るのだから、うちなーんちゅはさすがだなあ、と思う。」 と書いている。

 先祖-見えない世界とのつながりを大切にするのはなにも沖縄に限ったことではないが、亀甲墓・御嶽・ノロといったキーワードで沖縄のそれが語られることが多いのはなぜだろう。
 

 
 私の初の沖縄行きは関西空港から始まった。大阪での会合に出てその足で沖縄に向 かったからだ。那覇空港には沖縄の祭祀を研究している H さんが出迎えてくれた。も う秋も深まる季節なのにタクシーの運転手が半袖だったりして東京との違いを感じる。 首里城をはじめひめゆり平和祈念資料館・平和の礎(いしじ)・琉球村・県立博物館・壷屋など 沖縄の歴史と文化および沖縄戦の悲惨を学ぶ旅であったが、H さんの案内で見学した沖縄の 「見えない世界」 に関するいくつかの場所も大変心に残った。
 
玉 陵(たまうどぅん) 
 
 
 玉陵は1470年に始まる第二尚氏王統の陵墓である。第二尚氏の琉球王国を確立した尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために1501年に築いたとされる。そのとき建てられた石碑が今も墓室前庭の一隅に建っているが、そこには尚真王以下 9名の人物とその子孫のみを被葬適格者とする旨が記され、この書付けに背くならば 「天に仰ぎ地に伏して祟るべし」 と結ばれている。
 
   陵墓は石造切妻屋根の建物が円塔を挟んで横に三つつながって北に面して建ち、何もない広い前庭には珊瑚のかけらが敷き詰められている。中央の中室には洗骨前の遺骸を安置し、洗骨後は東室には王と王妃を西室にはその他の人を葬ったという。高い石の塀と樹木に囲まれた墓域には静謐の気が漂っていた。
 
亀甲墓(かめこうばか)
 
 
 
 
 石で造った大きな墓室の屋根が亀の甲に似ているので亀甲墓というが、沖縄のお墓が全部これというわけではなく地域差がずいぶんとあるらしい。中国福建州あたりの墓との類似が指摘されている。佐敷町の勢理客門中(じっちゃくむんちゅー)(写真)を見学したがずいぶんと大きくて立派だ。このお墓は支配層に受容された亀甲墓が農民層まで普及した一例で、門中という始祖を共通にする父系血縁によって結びついた集団が共同で祖先祭祀を行なう場だという。1960年前後までは昔ながらに葬った遺骸を後に洗骨して納めたという。墓室の前庭に立つと、花やご馳走を先祖に備えて団欒する子孫達の様子が想像される。明るく広々と広がる空間、青い空、やはり沖縄だなあと思う。暗 くじめじめとした陰気な場所が私の墓地に抱くイメージだがそれとはまるで違う。

 与那国島の海に臨む丘陵に大きな亀甲墓が並ぶ写真を新聞で見たことがある。周囲にはろくに木もなくむきだしの大地に南国の太陽が照りつけてこれ以上ない明るい空間が広がっていた。この写真に寄せて林望さんは 「沖縄では、生きている人間と死者の魂とが、なおこの現実の空間で時間を共にしているという実感がある」 と書いている。 そしてまた 「この亀甲墓の丸くエロティックな曲面は、豊かな女の下腹を、つまりは全ての生命の故郷である母胎を象徴しているらしい。だから、その産道にあたるところに小さな穴が穿たれていて、そこから遺骨が差し入れられるという構造になっているのだ。まさにその墓に入ることで母の胎内に回帰するのである。」 と、いわゆる母胎回帰説を紹介しているが、これは一つの考えではあるが定説とはいいがたいようである。 台湾に一番近い日本である与那国島の祖納集落の海岸沿いには何百という亀甲墓が並んでいるそうだ(『朝日新聞』夕刊 1999年11月25日)
 
 
 
 
 那覇市内で 「伊江御殿(うどぅん)墓」 という亀甲墓を見た(写真)。道路などで墓域をだいぶ削 られているのであまり大きい感じはしないが1687年の築造で最古の亀甲墓といわる(1999年国指定重要文化財)。今でも 4月の第一日曜日には一門が墓に集い、先祖に感謝の祈りを捧げているそうだ。伊江家は第二尚氏王統を先祖とする名家ということなのでこうした支配層に亀甲墓が取り入れられた時期が本土の江戸時代の元禄の頃にあたることが分かる。したがって民衆にまで普及するのはもっと時代が下がることになる。要するに亀甲墓はそんなに古くからのものではないが(明治時代に作られたものもあるという)、沖縄の人たちはそのはるか昔から死者を祀ってきたのである。
 
斎場御嶽(せーふぁうたき)
  
 
 
 
 那覇の東南に位置する知念村にある斎場御嶽は琉球の島々を作った神アマミク(阿摩美久またはアマミキョ)が造った七つの御嶽の一つと伝えられ琉球最高の聖域とされている。 第二尚氏王統の時代には王権の特別な聖域として常人は近付くことを許されなかったという。 樹木の生茂った入口から石畳の細い道を少し辿ると空を仰ぎ見ることのできる広場に出る。目の前には見上げるほどの大きな岩があり、岩壁には鍾乳石のような岩が二つ垂れ下がっていてその下に壷が2つ置かれている。この壷にたまる聖水の多少によって翌年の豊凶を占ったという。辺りは全く静まり返っておりまさに聖域といった雰囲気が漂っている。女性の神職者だけの聖なる儀式はこの巨岩の前の広場で行なわれたのであろうか。 この巨岩が割れて出来たような三角形のトンネルを抜けると狭い空地に出る。三方は岩だが東には木の葉越しに海の眺めが広がり平坦な姿の久高島を正面に見ることができる。ここは三庫理(さんぐーい)といわれ、琉球開闢の神阿摩美久(アマミキョ)が降り立った島 -久高島の遥拝所となっている。岩壁の下には香炉が置かれていて、神が岩の頂上からそこへ降りてくると信じらていた。斎場御嶽は王権と結びつくことで特別重要視さ れたが、ごく普通の聖域-御嶽は各地にたくさん残されている。
 

 
 1985年から10年余にわたって久高島に通いつめ年に27回もあるという島の祭祀を克明に見聞した比嘉康雄さんは次のように書いている(『日本人の魂の原郷沖縄久高島』)
 
「御嶽に鎮まる守護力をもつ神霊は母神であった。…御嶽には鳥居もなければ境界を示すような人工の物は何もない。一つの森が漠然と御嶽だと考えられているので、正確な広さもわからない。森の広がり具合で判断するほかはない。祭場になる御嶽には広場と礼拝の拠り所になる自然石と石製の香炉があるだけで、ほとんど自然のままである。 久高島の御嶽はその末裔たちによって、祖先の魂が存在するところとして記憶され、伝承されていた。農耕が始まって開墾するようになっても、祖先の生活の場、魂の鎮まっている場所として御嶽は残され、あるいは祈願の場所として使われていたのかもしれない。 」

 人は死ぬとどうなるのだろうか。1960年代まで久高島では風葬が行なわれていた。 葬列が葬所の近くに来ると東方に向かって 「○○年(どし)生まれの者がこのたびニラーハラ ーへ参ります」 と唱えて礼拝が行なわれる。死者の魂は海のはるか彼方太陽の昇る方にあるあの世-ニラーハラー(ニライカナイ)に行くと考えられていた。葬所は人の寄りつかない断崖絶壁の下にあり、遺骸はそこで自然の風化にゆだねられた。そして寅年の秋になると縁者による洗骨が行なわれて骨壷に納められたが、もっと昔は放置されたままであったらしい。

 久高島では、結婚すると女は神女になり一生夫や子供達の守護者として生きる。一方男は16歳から70歳まで妻や母たちが行なっている祭祀を経済的に助ける立場になる。「人々は魂の不滅を信じ、魂の帰る場所、そして再生する場所を海の彼方のニラーハラーに想定し、そこから守護力をもって島の聖域にたちかえる母神の存在に守護をたのんでいる。この 「母たちの神」 は、<生む><育てる><守る>という母性の有り様の中で形成された、つまり内発的、自然的で、生命に対する慈しみがベースになっている。<やさしい神>である。」
 
 第二尚氏王統は、村や島の母系を重んじる祭祀を王妹を頂点とするノロ(女性の最高神職者)制度に組み込むことによって、父系を重んじる政治・軍事面の男社会と宗教面の女社会を巧みに結びつけて統一支配の体制をつくりあげたといえる。してみると父系を重んじる亀甲墓の成立と普及はこうした支配の二重構造をよく示すものであり、統一以前からの人びとの魂の世界は形を変えながらも否定されることなく受継がれて今日に至っているといえよう。

 急激な近代化は人びとを 「見えない世界」 「合理的でないもの」 から切離して、「見える世界」 「合理的なもの」 しか信じなくさせてきた。しかし人はながいこと 「見える世界と見えない世界が一体となった世界」にこそ幸せを見つけてきたのではないだろうか。近代化が急速に進んだ本土の人々からは見えない世界がどんどんと失われていき、近代化が緩やかに進んだ沖縄には本土が早くに失ったものが色濃く残る結果になったのだろう。沖縄本島と他の島々との間にも似たような現象が展開したのではないだろうか。
 

 
 戦争の悲劇が予想もできなかった1938・39年に沖縄を訪ねた民芸運動の指導者柳宗悦は、「日本の何処へ旅するとも、沖縄においてほど古い日本をよく保存している地方を見出すことは出来ません」 と、その旅での発見と感動を 「琉球の富」 と題して発表した。文庫本で50ページを越す長い文章を柳は 「墳墓」 から書き始めている。
 
 「地上にどんな墳墓があろうとも、私たちは琉球の玉陵においてより、鬼気迫るもの凄いばかりの墳墓を見たことがありませぬ。または沖縄の累代の祖先を納める霊墓より立派な形相のを見たことがありませぬ。それは精霊の実在に対する、まざまざとした信仰の直接の現れなのです。どんな人といえどもあの玉陵の前に佇 むならば、幽冥の国が目前に漂うのを否むことが出来ないでしょう。ここでは死者がものいう如く活きているのです。霊と霊との触れ合いを心にひしひしと味わうのです。…(墳墓は)死によって真の生に入る霊魂の住家なのです。そこには死んだ何者も祀られてはいないのです。現世の者よりも更にありありと活きている魂魄が、その明け暮れを送る住居なのです。…精霊への信仰こそ沖縄人の凡ての生活を支配している原理なのです。このことへの理解なくして沖縄の美を解することは出来ないでしょう。」
 
 沖縄の人たちの見える世界と見えない世界とが一体となった死生観こそ沖縄の歴史と文化の根底にあるものであり、そのことへの理解なしには沖縄を語ることはできないとする鋭い指摘である。民衆的工芸-民芸を探って全国を旅した柳宗悦の目は沖縄の人たちの魂の世界をよく理解し、沖縄の探求こそ古い日本の探求につながるのだと鋭くも見抜いたといえよう。