まだ20歳代だった昔、九州一周の貧乏旅行の途中で宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群を見学した。その折すぐ近くにあった日向国分寺を訪ねた時がおそらく私と木喰仏(もくじきぶつ)との最初の出会いだったと思う。
 
 昔の国分寺は礎石のみとなっていたが鄙びた雰囲気の素朴な石の仁王像の向うに小さなお堂が建っていた。ちょうどやってきたお年寄にお寺のことを訊ねると 「今日はこのお堂で寄合いがあるから木喰さんの造ったご本尊をどうぞご覧になって」 と戸を開けてくれて、小さな鉦を持って近所に寄合いの触れに出ていった。堂内の仏像はどれも天井につかえそうな大きな坐像で五体も並んでいた(五智如来)。古都の洗練された仏像にはほど遠い武骨で素朴なその風貌は石の仁王さんと好一対であった。ずいぶん昔のことなのにわりと鮮明に記憶にあるのはこの出会いが印象的だったからだろう。

 当時の私は木喰上人にそれほど関心があったわけでもなく知識も少なかった。むしろ当時有名になってきた円空上人のほうに親しみを持っていた。木喰上人より100年ほど前に鉈彫りの仏像を各地に残した江戸時代前期の回国修行の僧である。展覧会でその仏像に接する機会も多かった。やがて同じく回国修行しながら円空上人とは対照的に曲線的な優しい木彫仏を精力的に制作した木喰上人の存在を知った。民芸運動の指導者柳宗悦の思想と行動に関心を深めていた私は、日本民藝館が所蔵する地蔵菩薩像や自刻像には何度もお目にかかりその実に魅力的な姿に惹かれていたがその他の作品には円空上人ほど接する機会が多くはなかった。木喰上人晩年の作品に焦点を絞った松涛美術館
(東京都渋谷区立)での 「木喰の微笑仏」展(1997年12月)が木喰仏をまとまって見ることの出来た貴重な機会だった。木喰上人の故郷丸畑を一度尋ねてみたいという思いがだんだんと強くなっていった。
 

 
 
 
 上人の生地丸畑(まるばたけ)は今は山梨県の南に位置する身延町に属している。もう少し前には温泉のある下部町、もっと昔は古関村だった。駿河湾に注ぐ富士川を遡ってさらに支流の常葉川を東に少し行った北側の山の上に人家が点在する小さな集落で、生家のあるところは向川(むかわ)といった。柳宗悦が初めてこの丸畑に足を踏み入れた頃は富士駅から北に延びてきた身延鉄道は身延駅が終点だった。北の甲府から来ても、南の身延駅から来ても丸畑は交通不便な山あいのしかも山の上にあった。昔とは比べものにならな いにしても今も不便な場所に違いはなかった。

 11月のある日、河口湖で高速道路を降りた私は西へ西湖、精進湖を経て本栖湖畔に着いた。湖を前景に富士山の眺めの素晴らしいところだ。その日はあいにくと雲がかかって全容を眺めることは出来なかったが周辺の紅葉はなかなかよかった。湖畔近くのトンネルを抜けるとあとは急カーブが連続する下り坂をひたすら谷底に進むことになる。いつのまにか随分高いところまで来ていたのだと知った。下りきったところが常葉川沿いの道で車は無事丸畑の麓に着いた。そこからは山道を歩くつもりでいたが見ると車の登れそうな道がある。車1台分くらいの道幅なので対向車がきたらどうしようと心配したが歩くのがいやで車を進めた。幸い対向車もなく道幅も所々で広くなっているので心配するほどのこともなく山の上の集落に着くことが出来た。

 そこは山の上が明るく開けたところで、木喰上人の資料を陳列した微笑館(町立)があり近くには数軒の家がかたまっていた。なかなか眺めのよいところに建っているのだが残念なことに休館日だった。月曜日ではなかったのでそんな心配をしなかったのが迂闊だった。その日は近くの釜額(かまびたい)にある民宿に宿をとっていたので翌日出直すことにしたが、幸い近くにお年寄がいたので少し話を聞くことにした。
 
 
 この辺りは屋敷といい 5軒だがいま人が住んでいるのは 2軒だけでみな山を下りてしまったこと、微笑館の建っているところはもと桑畑で昔は養蚕が盛んだったこと、車の道は30年くらい前に出来たこと、小さいときには小学校に通うのに細い山道を下り30分、登り40分くらいかかったことなどなど。町が微笑館をつくる時には意見の対立があってもめたそうで、その頃にすぐ下の向川にある生家(伊藤家)に永寿庵(無住)の本尊五智如来(木喰作)が移されたという。そこで生家を訪ねたがあいにくと留守で木喰上人の仏さんにはこの日は縁がなかった。

 微笑館の前には山口青邨の 「くさぎの花 さかりににほふ 微笑仏」、秋元不二男の 「村人に 微笑仏あり ほとゝぎす」 をはじめいくつかの句碑が建っている。 澄み渡った秋空のもと、目の前の栃代(とじろ)山をはじめ周囲の山々は赤く染まり左手遠くには本栖湖からの道が高いところに山腹を横切って見える。地形図を見ると湖畔のトンネルの辺りが標高1000mでいま私がいる微笑館が540m、下の川沿いの道が350mと分かる。丸畑は山の上には違いないが谷筋の道にもそんなに遠くはなく、飲み水さえあれば山の上のほうが日当りもよく、畑も出来て住むにはよかったのではないかと景色を見ながら思った。山の上は不便、よくないというのは谷筋を行き来するのが当たり前となった時代の偏見ではないだろうか。近くの畑では老婆が一人作物の手入れに余念がなかった。
 

 
 木喰上人のことや木喰仏について広く知られるようになったのが柳宗悦の努力の結果であることはよく知られている。柳と木喰仏との出会いは全く偶然だった。
      

 「それは一昨年大正十二年の正月九日のことでした。私は思ひついたまま甲州への旅に出ました。一つは小宮山清三氏の所に朝鮮の陶磁器を見に行くためでした。 ……小宮山氏とは初対面でした。然るにその日偶然にも二躰の上人の作が私の目に映ったのです。……二躰の仏像は暗い庫の前に置かれてありました。(それは地蔵菩薩と無量寿如来とでした)。さうしてその前を通った時、私の視線は思はずそれ等のものに触れたのです。……私は即座に心を奪はれました。その口許に漂ふ微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻み得ない-私の直覚はさう断定せざるを得ませんでした。」


 木喰仏に心を惹かれた柳はやがて上人の故郷丸畑を尋ねた。1924 大正13年 6月のことである。まず丸畑の南沢で木喰仏に会い、生家であれこれと聞き取った後についに隣の家に伝えられた上人直筆のいくつもの文書と出会うことになった。驚喜した柳は徹夜でその文書を読み、すぐ近くの永寿庵に上人の彫った仏像が祀られていることを知って真夜中にもかかわらず見に行った。それ以後の柳は憑かれたように木喰仏を求めて全国を廻った。かくて木喰上人の驚くべき生涯とその制作になる仏像が世に知られるようになったのである(柳の木喰上人に関する文章は 『柳宗悦選集』 9 「木喰上人」 春秋社に集められている)

 
 翌日再訪した微笑館は私にはいささか期待はずれだった。というのは木喰仏をまとめて見られるものと思っていたのにほとんどなかったからである。しかし考えてみるとこれまで木喰仏を大切にしてきた人たちが他人に見せるために微笑館に預けてしまう理由もないだろう。それにこの上人の故郷には今はそれほど多くの仏さんは残っていないようだ。だが上人自筆の貴重な文書が上人の背で苦労をともにした櫃とともに展示されていたのが嬉しかった。これらの文書こそ今回丸畑に来たらぜひ見たいと私は思っていたからだ。残念ながらガラスケースの中の貴重な文書を手に持って読むことは出来なかったが、こんなにいろいろな文書を見られるとは思っていなかった。ガラス越しにその一部を読むことで上人の思いに心を馳せることが出来た。
 
 
 なかでも 「四国堂心願鏡」 は、長い回国修行の末に久しぶりに故郷に戻った83歳の上人がこれまでの半生を語り、四国の88霊場遍路に代わる四国堂建設の経緯を書き残したもので、これに 「南無阿弥陀仏国々御宿帳」 や 「納経帳」 などの文書と仏像の背に書かれた墨書銘を手がかりにすることで木喰上人の驚くべき生涯とその手になる多くの仏像が世に知られることになったのである。
 
  「四国堂心願鏡」 は柳宗悦によって全文が紹介されている(前掲書)。それによると、丸畑に生れた上人は14歳で江戸に出て奉公するが失敗も多くてうまくいかず、たまたま相模国の大山不動尊に参籠した折にめぐりあった真言宗の僧と22歳のときに師弟の関係を結んだ(出家)。その後修行に励んで45歳のときに日本回国の大願をおこした。そのとき常陸国の木食観海上人から木食戒を受け、それからは全国を回国修行した。請われて日向の国分寺に留まっているときには寺が火災にあい、その再建に奔走して結局10年も滞在した(私が初めて見た木喰仏)。久しぶりに故郷に戻ってきたのは1800 寛政12年10月のことである。
 
 丸畑では永寿庵の本尊(五智如来)(写真)を彫って再び回国に出ようとしたら四国堂の建設と88霊場の仏像をと村人から懇請されたのでそのために尽力して1802 享和 2年に完成したと書いてある。「心願鏡」 の最後には 「日州児湯郡府中国分村五智山国分寺隠居事 天一自在法門木喰五行菩薩 八十五歳」 とあり、回国修行、造仏の生涯のなかで日向国分寺滞留の生活が上人にとって大きな意味をもったことが 「国分寺隠居」 という文字に込められているように思われる。
 

 
 1718 享保 3年に生れた木喰上人は生涯に 4回の大きな回国修行を行なっているが、その範囲は北は北海道函館・江差から南は鹿児島と全国に及んでいる。1回目は56歳の1773年から1777年まで関東・東北を廻っているがこのときはまだ仏像を作っていない。2回目は60歳の1777年から1788年まで、東北・北海道から佐渡・中 部・近畿・四国・中国・九州と全国に及んでいる。3回目は80歳の1797年から1800 年まで、中国・四国・近畿・中部を廻って故郷丸畑に帰り四国堂の建設をしている。そして最後の回国は85歳の1802年から1808年、越後・丹波・摂津・甲府に足跡を残して精力的に仏像を刻んだがその最後の地は不明のままである。1810 文化 7年 6月に93歳で没したと伝えられている。
 
 最も古い木喰仏は1778年に北海道でと考えられているがこれ以後各地で仏像を刻んだ。1797年80歳の時には千体仏造像を発願して1807年90歳でそれを達成し、さらに二千体をめざしている。仏像の多くには背後に造像年月などの墨書が遺されている。こうした回国の間に四国88霊場遍路を 2 回、西国・坂東・秩父100観音霊場巡拝も成し遂げている。驚くべきことはこれらの回国・造仏が56歳以降のことであり、造仏のスピードが10年で千体だから 1年で 100体、平均 4日足らずで 1体である。まさに超人的としか言いようがない。今流に言えばこれらは定年以後の年齢にやり遂げたことになる

 
このような木喰上人の風貌を伝える史料がある。晩年の1806年丹波の清源寺に釈迦如来像と十六羅漢像を残しているが、その折の上人の様子を同寺の僧が 『十六羅漢由来記』(原漢文)に記している。「容貌を視るに顔色憔悴して鬚髪(しゅはつ)雪の如く白し。乱毛螺(にな)の如く垂る。躬の長六尺なり。壌色(つちいろ)の衣を著、錫を持って来り立つ。異形の物色謂ひつ可からず。実に僧に似て僧に非ず、俗に似て俗に非ず、変化の人かと思ひ、狂者の惑ふかと疑ふ」と、長身弊衣、僧俗を超えた上人の風貌を伝えている。また食事を勧めると 「我れ誓願して五穀と塩味とを食せざること茲に五十年なり。且つ臥具を用ゐず、寒暑一に単衣、時変れども衣を重ねること無し。請ふ高懐を煩はすこと勿れ。 齢ひここに九十有一歳なり。惟我れ廻邦して、望むものは他無し。神仏一千像を調(彫)刻し及び加持を修して以て衆生の病苦を救はんと欲するのみなり」 と答えたという(柳宗悦前掲書)
 
 上人の回国は、木食戒(五穀と塩を絶ち、火を通したものを食べない)を守るまさに厳しい修行であり、それを支えた精神は造仏・加持による衆生の救済を願う菩薩行であった。「心願鏡」 の冒頭には 「日本順国八宗一見之行想拾大願之内本願として仏を仏師国々因縁有所にこれをほどこすみな日本千躰之内なり」 とあり、微笑を湛えた仏像に秘められた上人の厳しさを見る思いがする。この前年に米寿を祝った自画像の版画が残されているが、あごひげのほかに側頭部に少し毛が描かれている。自刻像はあごひげのみだが本当はこんな顔だったのかもしれない。この記録や絵からは最晩年の上人の風貌が生き生きと伝わってくるように思われた。
 

 
 
 
 
 丸畑に戻ろう。微笑館を見学した後昨日は留守だった上人の生家を訪ねた。微笑館から山を少し下った向川という集落である。今日は奥さんがいらしたので永寿庵の本尊五智如来にお参りすることが出来た。あまり大きくはなく肌が黒っぽい仏さんで、鋸歯状に光輪が刻まれた頭光をつけて微笑を湛えながらやや厚みのある蓮台に坐られている。なお五体の如来は仏の備える五種の智慧をそれぞれに示すわけだが総体として法身(ほっしん)大日如来(絶対的真理)を意味するとされる。二階には木喰上人についてのさまざまな資料が展示されていた。研究会 「全国木喰会」 の中心となって活動されているご主人伊藤勇さんが在宅ならば詳しく説明して下さったであろう。
 
 お願いして四国堂に案内してもらった。生家の裏手を右に少し山を登ったところにお堂は建っていた。しかしこのお堂は元の場所にほぼ同じように再建されたもので(1977年)、一つの場所ではもっとも多く刻まれて堂内に祀られていた木喰仏は姿を消していた。 お堂を建てて仏像を祀るには、山から木を切り出したり仏像を作る作業場が必要となる。それに多くの人たちの労力がどうしても必要だ。丸畑や周辺の人たちは協力を惜しまなかったが、人が多くなり時間がかかれば意見の対立は避けがたく人の和は乱れていった。「心願鏡」 に 「半の頃に至りて脇村方皆割々に不落着の儀なり。皆離れて残りの家数十八軒になり成就する事も覚束なく存じ相談に及ぶ。」 「其後又々不落着に相成、離れて後十三人となる」 と書いてある。
 
 
 
 
 
 こうして最後まで上人を支えたのは13人だけとなった。四国堂が完成したとき上人はこれを徳として円い板にこの13人講中の名を書いて、88体の仏像のうち特に尽力した南沢の 3人に 8体を内仏として与え た(この一部は今日に伝えられている)。2年間の丸畑滞在中に上人は88体の仏像と弘法大師像・大黒天像・自刻像それに永寿庵の本尊 5体、山の上の小祠に祀った山神、さらに釜額に残る 1体と合わせて計98体もの木像を制作したことになる。

 四国堂と仏像が完成して開眼供養が行なわれたのは1802 享和 2年 2月である。上人85歳の春にあたるが、村人がそろってこれを喜ぶというわけにはいかなかった。「開眼の節も一円世話もなく又後の取片付くる事も更に構はず、此心にては一切覚束無くは候へども、之迄の一切の善も悪も懺悔して何事も堪忍、不足を堪へて互に睦じく一切に心をつけ至心信心の志を起すに於ては、村講中も安全なる事を得て、所も繁昌、福徳円満自在なる事眼前也」 と、上人は村の人たちが和の心を持ってこれらの神仏を守っていくように願った。
 
 
 「心願鏡」 の最後に記された 7首の歌の中に 「みな人の心のぐち(愚痴)はいらぬもの ふじやう(不浄)けかれ(穢れ)とおもへ人々」 「みな人の心をまるくまん丸に どこもかしこもまるくまん丸」 「木喰のかたみのふでのおもかげを 心にかけよこのよ(世)のちのよ(世)」 とある。

 ところがこれから約120年の後に悲しいことが起きた。四国堂をめぐって上人の生家と村の人々が争った結果1919 大正 8年に仏像はすべて売払われてしまい、やがてお堂も取壊されてしまった。木喰上人の願いは破れて跡には 「奉納大乗妙典日本廻国供養等 木食五行」 「寛政十三酉(1801)十月十五日」 の字が読める石碑が 1基残るだけとなった。四国堂の跡地(今の四国堂) からは微笑館がよく見えるが、これをめぐって昨日今日感じた何やら冷たい空気はこうした昔のしこりがまだ溶けていないためだろうか。「みな人の心をまるくまん丸に」 することは容易なことではないようだ。

 散逸した仏像の幾体かが甲府在の小宮山清三の手に渡り、柳宗悦が偶然それを目にしたのは 4年後の大正12年正月のことだった。かくて全国各地で木喰上人と縁のあった人たちによって守り伝えられてきたが世には埋れていた木喰仏と上人の事績が世に現れることとなった。木喰上人が生涯をかけて祈った神仏のはからいだったのだろうか。
 

 
 上人は全国各地で1000体をこえる木像を制作したがそれは仏像にとどまらず神像・羅漢像・自刻像など多様であった。「心願鏡」 の冒頭に 「日本順国八宗一見」 とあるように上人の回国は一宗一派にこだわらない神社仏閣の巡拝でありその土地の人々との親しい交わりであった。

 木喰仏の研究者によれば、鋸歯状の光輪を持った頭光と微笑は四国堂の諸仏において安定した様式となり晩年の木喰仏を特色づけるという。たしかに丸畑を後にして最後の回国に出た上人の越後・丹波・摂津に残された諸仏はその多くが頭光を持つ微笑仏であった。その表情は限りなく仏であってまた人のようでもあり、やさしく人の心に呼びかけるものであった。

 どの仏にも光輪の内側には光明真言が墨で書かれている。密教では24の梵字が並ぶこの呪句(真言)を数回誦すれば無量の福徳があり一切の罪障を滅ぼすという。光輪は光明であり大日如来である。故郷丸畑の永寿庵の本尊は五智如来即ち大日如来である。また、丹波の清源寺に遺された1806 文化 3年の上人の釈迦如来画像に添え られた歌に 「木喰の鼠衣につつみおく 阿字の一字ぞ あらはれにけり」 とある(「木喰 の微笑仏」 展図録)。密教では全宇宙が 「阿」 の一字(サンスクリット語の a) に集約されており宇宙の本源を象徴する、即ち大日如来と同一視する。上人の遺した仏像や仏画 を読み解くと 「八宗一見」 はけっして無宗派ではなく真言僧としての柱が太く一本立っていたことが分かる。

 柳宗悦は、木喰上人の 「最後のことは未知の謎であるが、秘幕は遠からずして、開かれるであらう」 と書いたが、その最期は未だに不明である。さきの釈迦如来画像に添えられた歌に「木喰もいずくのはての行たほれ いぬかからすの ゑじきなりけり」 とある。そのとおりの見事な最期というべきだろう。鎌倉時代に回国遊行に徹した一遍上人もその死に臨んで 「葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし」(『一遍上人語録』) といったが、周りには多くの人がいたし、お墓もお寺もできた。
 

 
 もうだいぶ前のことになるが、NHKテレビの 「うるわしのアジア 仏の美100選」 を見ていたら越後の小倉山観音堂の木喰仏が映された。上人最晩年の33観音像で、この観音堂は当初からどの寺にも属さず村の人たちだけで守ってきたという。新潟県小千谷市にあり、村は2004年の大地震のために大きな被害を受けた。「この観音さんの微笑みを見ているとどんなに辛いときでも癒されます。早く全員が帰ってきてほしい」 とテレビの中で村の人が語っていたことが思い出される。これからも木喰上人の仏さんは、永遠の生命をもってたくさんの人々の心を癒し続けることであろう。