最近いわき市(福島県)に行った折、実に久しぶりに白水(しらみず)の阿弥陀堂(願成寺)を訪ねた。蓮の花が咲く大きな池に浮かぶように建つ小さな阿弥陀堂(1160年建立、国宝、写真)だが、周囲を低い山に囲まれてまさに一つの浄土を見るように感じたのだった。
 
 
 10・11世紀に都の貴族世界に広がった浄土教はやがて地方に伝播したが、宇治平等院に代表される浄土教美術もまた地方に伝えられていった。大陸伝来の仏教の日本化とも言うべき浄土教とその美術の盛行に興味を持った私は、若い頃から岩手県の中尊寺をはじめ福島県の願成寺、宮城県の高蔵寺、長野県の中禅寺、高知県の豊楽寺、大分県の富貴寺などを訪ねては平安時代末の阿弥陀堂や薬師堂と諸仏を自分の目で確かめてきた。
 

 
 大分県の国東(くにさき)半島に富貴寺という古寺があり、藤原氏の栄えた時代の阿弥陀堂と阿弥陀如来像が今も残っていることを知ったのはいつ頃のことだろうか。

 大学に入って日本の歴史や文化を学ぶようになった頃に読んだ本に浜田青陵の 『通論考古学』
(1947年刊、初版 1922年) というのがあった。これは考古学という学問がどのようなものであるかを紹介した本である。この中に、古い建造物の修理・保存の例としてフランスの聖堂と並んでこの富貴寺阿弥陀堂が取り上げられていた。しかし、素朴なさや堂に覆われた姿と修復のなった阿弥陀堂との 2枚の写真が紹介されているだけでなんの説明もないのが不思議だった。

 私が初めて富貴寺を訪ねたのは1964(昭和39)年と古い手帳にある。ずいぶんと昔のことになるが、大学を出て勤めていた会社の仕事で九州へ出かけたときに杵築に泊って富貴寺と真木大堂に足を伸ばしたのだった。
 
 鼻の出た小さなバスが稔りの秋の田圃に囲まれた細い道を走る姿が思い出される。 国東半島がまだ観光地とはなっていない時代だったが、最初に訪ねた真木大堂には平安時代の大きな仏たちが小さいお堂に所狭しとばかりに並んでいるのに驚いた覚えがある。その時に買った絵葉書が今も手元にあるので、すでに観光地になりつつあったのかもしれない。

 やがて辿り着いた富貴寺の阿弥陀堂は、学生の頃に見た本の写真のままの姿で建っていた。静かな境内には他に観光客の姿はなく、堂内には一体の阿弥陀如来像だけが 900年の時間を経てポツンと遺されていた。背後の来迎壁や堂内の小壁や柱には剥落がひどいが当初は阿弥陀浄土図などが描かれていたのが分かる。偶々近くにいた老人が 「子どものころにはよくここで独楽を回して遊んだのですよ。回り縁がところどころ窪んでいるのはそのせいです」 と話してくれたのを覚えている。都から遠く離れた山里で長い時間が静かに流れてきたのをしみじみと感じたのだった。

 本格的な高度経済成長の時代を経て世の中は大きく変った。新幹線が走り、飛行機も身近な乗物となってきた。私は会社を辞めて大学に戻り、やがて教職に就いて好きな歴史の勉強を続けていた。その頃には九州はだいぶ近い感じになっていたが、なぜか富貴寺再訪の願いはなかなか果たせなかった。
 

 

 
 国東半島は、大分県の東北部に丸く拳を突き出したような半島である。地形図をよく見ると、標高 720メートルの両子山を中心にいくつもの山の頂があり、大小の谷が刻まれて耶馬と呼ばれる断崖がいくつもある地形となっているのが分かる。全体としてはお椀を伏せたような形で、東の海岸には大分空港がある。

 この山地で行なわれていた山岳信仰を背景に、奈良時代になると仁聞
(にんもん) という僧が寺院の開創をすすめた結果、六郷(国東・田染など)に 28の寺院が出来たと伝える。国東半島の西に位置する宇佐神宮(宇佐八幡宮)はこの地方で大きな力を持っていたが、平安時代には半島の寺々はその神宮寺である弥勒寺傘下の天台宗寺院となり 65ヶ寺が栄えた(六郷満山)。多くの石仏・石塔の存在や、神仏習合の名残などにこうした歴史をみることが出来るが、さらに近年の調査によってこの地方にはこれらのほかに中世にさかのぼる貴重な文書類が多く保存されており、さらには荘園時代の地割や景観を今も見ることの出来る貴重な地域であることが明らかになった。かくて、私が初めて訪ねたころには富貴寺や真木大堂は点の存在であったのが、今は面-地域の歴史とともに語られるようになったのである。そして観光地化もすすみ、交通の便も大変よくなった。
 


 私の富貴寺再訪が実現したのは、宮崎でのある会合に出席した帰途だった。大分市のホテルに泊ってレンタカーで念願の国東半島に向かった。別府湾の海沿いの道を温泉町を左に眺めながら北上し、やがてJR日豊本線とともに海を離れるとまもなく熊野磨崖仏のある胎蔵寺に着く。
 

 
 この寺は六郷満山の一つで入口に石の仁王像が立っているのが国東半島らしい眺めだ。沢沿いの道をしばらく登るとやがて一直線の急な石の階段となる。鬼が一晩で造ったという伝説のある自然石を乱積みにしたもので、息を切らせながら登りきると目の前の岩壁に目指す磨崖仏が現れた。

 右の岩壁には大日如来像(6.8m)、左の岩壁には不動明王像(8m 写真上) が彫られているが日本最大級といわれるだけあって圧倒的な存在感だ。しかし、大日如来像は汚れを取るために足場が組まれていたのが残念だった。右手に剣を持った不動明王像は憤怒相ではなく優しい顔をしており、どちらも肩から下は彫りが浅くて岩壁に吸い込まれる感 じになっている。しかし、「これは鬼が住むと恐れられていたこの山中を修業の場に選んだ胎蔵寺の僧が心の鬼を追い払って悟りの境地に達し、今まさに岸壁から現れんとするみ仏の姿を描き出そうとしたからだと言われています」 という説明を読んで、私はみ仏の顔から下へと視線を動かしたが、視線を逆に下から上にみ仏を仰ぎみるように動かせば、「なるほど、吸い込まれるのではなくて、岩壁から現れる姿なのだ」 と妙に納得した。
 
 
 鎌倉時代の初めの史料にこの磨崖仏のことがみられ、また平安時代末には胎蔵寺の存在が知られるのでこの岩壁の大きな仏さんは12世紀に彫られたと考えられている。素朴だがスケールの大きな仏さんは気の遠くなる長い年月をここに立って国東の歴史にかかわってきたのだと思いながら山を下りた。
 

 

 
 磨崖仏から真木大堂へは迷うこともなく着いたが、驚いたのは立派なお堂が建っていてあの大きな仏像たちがゆったりと安置されていたことだった。いずれも 2メートルを超える阿弥陀如来像・不動明王像・大威徳明王像を中心に四天王像・二童子像と平安時代の堂々とした  9体の仏像の眺めは圧巻だった。真木大堂は六郷満山 65ヶ寺のうち本山本寺として 36の霊場を有した最大の寺院であった馬城山伝乗寺のことであるが、この仏像群の存在はまさに六郷満山盛時のようすを今日に伝えるものと感じた。大堂を出てふと脇を見ると古いお堂が建っている。寺の人に訊ねるとこのお堂こそ私が前に訪ねた時の真木大堂だった。小さなバスに揺られてはるばると訪ねてきた50年ほど前のことが改めて思い出された(写真下)
 
 
 真木大堂の辺りは国東半島の山々を刻んだ谷が開けて田畑が広がり人々の生活が遠い昔から営まれてきたところだ。富貴寺への道の途中、低い山に囲ま れて水田が広がる場所に荘園田染(たしぶ)荘の石碑が建っている(1991年)。その碑には、「田染の里には、十一世紀から十六世紀まで田染荘とよばれる宇佐八幡宮の荘園があった。荘園とよばれる土地は当時全国にあったが、今にその面影を残している場所はほとんどない。田染の谷々には、荘園領主の宇佐八幡宮によって造られたと考えら れる富貴寺や真木の大堂の仏はもちろんのこと、小崎や大曲のように、中世の荘園の世界をほうふつさせる場所が点在している。田染の里では、今も中世のムラを体感できる」 と書いてあった。近くの夕日観音という高台に登ればこの荘園の時代から今に伝えられたムラの景観を眺めることが出来たのだが先を急ぐ旅人にはその余裕がなかった。そこで、『中世のムラ』(石井進編、東京大学出版会、1995年刊、註を参照) の次の記述からそれを想像してみよう。
 


 
 
 
「かつての田染荘の尾崎屋敷一帯を、村の東側にそそり立つ夕日観音の岩屋付近から見下してみよう。台地の先端部に宇佐八幡宮の神官であると同時に武士であり、荘内の支配者でもあった田染氏の居館のあとを中心とする一団の集村がまとまり、 周囲には中世以来の水田がひろがっている姿をみとめることができる。それが中世以来の村や耕地であることは、宇佐風土記の丘歴史民俗資料館の数年間の調査により、小字以下の小地名を手がかりとして中世の古文書との対応関係が確認されている。まさにすばらしい眺望のなかに、中世の田染荘内のムラの姿をありありと実感できるのである。」(p.5)

 今日訪ねた熊野磨崖仏も真木大堂も、これから行く富貴寺も実は田染荘に含まれている。従って古代から中世にかけてこの荘園の開発や経営にあたった現地の実力者は宇佐神宮の神官であり、彼らは富貴寺などの創建にもかかわったと考えられている。そしてこの辺りには国東塔や板碑などの石造物や古文書といった中世の貴重な史料が驚くほど多く遺されていることも分かっている。
 

 

 
 記憶の中の富貴寺は人里離れた静かな山の中のお堂だったが、今は駐車場が整備されお店もあったりして明るい雰囲気となっていた。しかし、あまり長くはない石段を登り石の仁王さんが護る山門を潜ると、そこには樹木に囲まれた境内にあの優美な屋根の線をもちあくまで簡素な造りの阿弥陀堂が 900年の時を経て静かに建つ別世界が広がっていた。
 
 堂内に入ると 4本の円柱に囲まれた内陣の須弥壇の上で阿弥陀如来が瞑想に耽っている。失われたものを補うことなく、失われたままにした堂内の空間が実によい。この阿弥陀堂が完成した当時は現在とは異なって華美なものであったが (県立歴史博物館に復元されている)、それはそれとして今はこのお堂を訪ねてきた人に心の安らぎと歴史にたいする思いを深めてくれるように思われる。
 

 
 田染荘の北端部に蕗川が形成する細長い谷が広がるが、この辺りは宇佐神宮ともっとも関係が深く、そしてこの中央部に富貴寺が建っている。だから古い史料では蕗寺、 蕗浦阿弥陀寺と書かれることもあるが好い字をあてて富貴寺と呼ばれるようになったといわれる。都から遠く離れた九州の一角に平安時代末に浄土教が根付いた背景には宇佐神宮の存在が大きいが、その辺の事情について 『中世の村を歩く』(石井進、朝日選書、2000年刊) には次のように書かれている。
 
「今も残る最古の古文書は鎌倉中期の貞応二年(1223)、時の宇佐八幡宮大宮司宇佐公仲の出した寄進状である。そこには蕗の阿弥陀寺が公仲の家の代々の祈願所であるので、田染荘内の末久名(みょう)の田畑と、糸永名から切り離して大宮司家の用作(直営地)とした一町五反の田地、さらに荒野を寄進して長く免税地とする旨が記されている。 これをさかのぼること数十年の、大堂の建立された当時でも、富貴寺を信仰し、維持していたのはやはり宇佐大宮司の一族であったに相違ない。その頃、大宮司家は京都の藤原氏摂関家と深い関係を結んでおり、宇佐八幡宮領の荘園の、最高支配者の本家は摂関家で、大宮司家はその下の領家の地位にあった。そうであればこそ、富貴寺大堂には建築、絵画、彫刻などいずれの面でも、優秀な技術が用いられているのであろう。」(p.202)
 
 奈良時代に遡る山岳信仰と仏教(天台宗)との出会い(六郷満山)、宇佐神宮の存在、浄土教の展開といった動きの中で富貴寺の存在が考えられるようになったが、さらに鎌倉時代以降の武士の時代になると武士たちの興亡とともに寺社の盛衰もあったようで、新しい宗派禅宗の展開もあり国東半島の歴史は新しい動きを示したようである。 かくて、かつては多くを語ることの出来なかった富貴寺や真木大堂の歴史的背景がだいぶ明らかになってきたといえる。(前掲書 『中世のムラ』 の 「中世の荘園支配と仏教の変遷」 を参照)
 

 
 ところで、田染荘の耕地や集落の景観が現在と重なることが近年の調査で明らかになったその背景には、地域の開発や圃場整備事業、農村の高齢化・過疎化といった農業が抱えている大きな問題があることを改めて知った。ある研究者の 「今回の調査は、景観としての村落に、如何に多くの歴史的情報が詰め込まれているかを実証した。しかしそれを伝え、その意味を持続させる力は、かかってそこに生きる人々の、農業の営みそのものにある。現存する農村景観そのものを 「広域村落遺跡」 のハードウェアとすれば、それはそこに生きる人々の生活の持続によって、はじめて維持され継承される無限の量のソフトウェアで充填されているのである」(前掲書 『中世のムラ』 p.151) といった指摘を忘れることが出来ない。
 

 
 富貴寺を後にした私は山道を登って古い歴史を持つ両子寺(ふたごじ) を訪ねたが建物がみな新しくなっておりいささかがっかりした。観光ポスターでおなじみの長い石段の前に立つ大きな石の仁王像は健在だが車で上まで行けるので今では歩く人はまずいないだろう。

 念願の富貴寺再訪の忙しい一日だったが、「国東半島の豊かな歴史と文化のことを考えれば、今日はほんの少しばかり勉強したに過ぎないな」 と、空港で生ビールを飲みながら反省しつつ東京への出発時間を待ったのだった。

 註 『中世のムラ』 は、1991年10月に東京と大分県豊後高田市で開かれた 「中世のムラと現代」 というシンポジュウムの成果を公刊したものである。