京都の人には笑われるかもしれないが、東京に育った私には有名な京都の祇園祭と言えば山鉾巡行と宵山であり、一か月も続く祭とは思ってもいなかった。そして一度は見てみたい祭だった。
 
今年の祇園祭は17日が前祭(さきまつり)で山鉾23基が巡行、明日の24日が後祭(あとまつり)10基の山鉾が巡行するそうだ。こうした2回の巡行という昔の姿が復活したのは2014年で、それ以前の巡行は1回でまさに祇園祭のクライマックスだった。
 
毎年7月に行われる祇園祭は、疫病や災厄除去を祈る祇園八坂神社の祭で、起源は遠く平安時代まで遡るが、今のようになったのは室町時代といわれている。織田信長が上杉謙信に贈ったと伝える有名な「洛中洛外図屏風」(狩野永徳、国宝)には、今と同じように長刀鉾を先頭にした巡行の様子が描かれている。
 
まだ山鉾巡幸が1回だった頃に「動く美術館」とも言われる祇園祭に興奮した話である。
 

 

 
 
初めて祇園祭に行ったのはまだ若い頃だったが、当日はあいにくと雨で傘を差しながらの巡幸の見物だった。
 
 
巡行には雨天順延ということがないのだろう。どの山も鉾もビニールをかけて足早に通り過ぎて行く。豪華な装飾もビニールの下ではよく見えなかったが、ふとピラミッドが目に留まった。よく見るとピラミッドとラクダと人が描かれている。おそらく本物を見た人など一人もいなかっただろう江戸時代に、人びとはこの絵をどんな思いで眺めていたのだろうか。興味を持った私は、もう一度好天の日にピラミッドをはじめ他の山や鉾の飾りのさまざまな意匠をじっくり見てみたいものだと思ったが、それが実現したのはさらに何年も後のことであった。
 
京都についてまず八坂神社にお参りした。石段の脇には「祇園祭」と書いた幡が下げられて、舞殿には金色に光輝く神輿が3基置かれてその周囲には祇園の綺麗どころの名を書いた提灯がたくさん吊り下げられていた。山鉾巡行の日の夕刻になると、神霊を遷したこの神輿が四条寺町のお旅所まで移る神幸祭が行われる。
 
 

 
 
残念ながら今度も空模様は怪しかった。宵山(14~16日)は、いつ雨が降り出すか知れないのでビニールをかけた山や鉾がいくつもあったが、人出は多くてその賑わいはさすがだった。山鉾を出す町は六角堂の西から南にかけてのごく狭い地域に集中している。道路には山や鉾が飾られ、夕方になると駒形提灯に明りが灯り、「コンコンチキチン コンチキチン」の祇園囃子で祭気分が盛上る。(写真は菊水鉾)
 
この日は道には屋台が並び、上に登ることができる鉾もあり、また豪華な飾りを間近に見ることも出来る。厄除けの粽(ちまき)が山や鉾ごとに売られるのもこの夜で、人気のある長刀鉾の粽はずいぶん早く売切れてしまう。街を歩いているとこの粽を門口に吊している家をいくつも見かける。私もピラミッドとラクダの絵の浄妙山の粽を買って吊すことにした。
 
長刀鉾のような鉾と南観音山のような曳山(人が曳く山)は豪華に飾り、鉾屋には囃子方が乗る。山の多くはいろいろな故事をふまえた人形(御神体)と飾りが見どころとなっている。
 

 
 
お目当の浄妙山は、源氏挙兵の時の宇治川合戦の一場面で、宇治橋で奮戦する三井寺の僧兵筒井浄妙明秀の上を同じく僧兵の一来法師が飛越えているところだが、小雨が降ったりやんだりしていたのでまだ飾っていなかった。

  「明日はピラミッドの胴懸をつけますか」と聞いてみた。
 「さあ、天気の具合によるね。天気がよければ新しいのを掛けると思うよ。天気が悪ければピラミッドかもね」といった若者の返事に、私はいささか複雑な思いとなった。
       
新しいのとは1985(昭和60)年ころに新調した長谷川等伯原画の「柳橋水車図」のことである。巡行の日にはよい天気になってもらいたいがそうすると肝腎のピラミッドが見られないことになりそうだ。 それにしても貴重な文化財といえる古い胴懸よりもお金のかかった新しい胴懸のほうが大切なのだろうか。
 

 

 
 
いよいよ巡行の日(17日)となった。雨は降っていないが、いつ降ってきてもおかしくない雲行だ。先頭の長刀鉾はすでに出発しているが、後から 2番目の浄妙山はまだ待機していると思い行ってみた。うれしいことに胴懸はピラミッドとラクダではないか。ビニールがかけてあるのが残念だが雨模様の天候に感謝。どうか雨が降らないようにと虫のよいことを願う。
 

 
 
胴懸は左右とも同じ絵で、ピラミッドを背景に人の乗った2頭のラクダと水を汲んでいる人と座っている人が描かれている。前懸には洋犬が描かれ、後懸は狩猟の図となっている。いずれも19世紀初めのイギリス製絨毯で、産業革命後の機械織の製品だそうだ。思ったほど古くはなかったが、少数の富裕者だけの豪華な手織の時代から、より多数の人が楽しむ機械織による量産の時代へという歴史の動きの産物だ。1832(天保3)年に新調したと伝えている。それにしても昔の人はこの絵をどんな思いで眺めていたのだろう。

 巡行は、朝9時半頃に長刀鉾を先頭に四条通を出発する。現在は後祭の9つの山を合わせて32の山鉾が巡行するが(鉾7、傘鉾2、曳山3、山20)、毎年決った順番のものを除くと残りの山鉾の順番は年によって異なる。長刀鉾は毎年先頭で、稚児が人形でないのはこの鉾だけだ。昔は後祭の山は24日に巡行したそうだ。四条通を出発した山や鉾は正面に八坂神社を見ながら進んで河原町通で左折して北に向かい、次に御池通で左折して新町通まで約2時間かけて巡行する。全部の巡行が終るのは午後2時前後になる。 
 
 
 
 
  見応えのあるのは大きな車輪のついた鉾で、鉾頭まで17~25m、屋根まで8mの大きな山車を30~40人の曳子が曳き、屋根にも人が乗る。囃子方は30~40人おり、「コンコンチキチン コンチキチン」と奏でながら都大路をゆっくりと進んで行く。鉾や山の高いところに飾られた榊や松は神の依代(よりしろ)だろう。笛や鉦で囃したてて厄神をここに集めて巡業が終るとすぐに焼捨てる(山車を解体する)ことに巡行の本来の意味があるという。(写真は函谷鉾)

 鉾町を離れて御池通に出た時にちょうど先頭の長刀鉾が進んできた。 私は巡行とは逆方向にゆっくりと山や鉾を眺めながら歩いたので、浄妙山のような異国情緒の豪華な飾り(懸装品 かけそうひん)をいくつも見ることができた。祇園祭が京都の町衆(町人)によって大いに盛上った信長や秀吉の時代は、南蛮貿易が盛んで多くの日本人が世界に進出していった時代で、鎖国の江戸時代とは反対の時代だったことを あらためて感じた。
 

 
 
 
 
  長刀鉾の下水引(囃子方の下)はこの年に復元新調されたもので、花文様のインド絨毯と玉取獅子図中国緞通(もうせん)の大きな胴懸も復元品だそうだが、元のものは16~18世紀の制作だそうだ。先頭を行く誇りか宵山も巡行もビニールをかけてはいなかった(写真は宵山)

 函谷鉾の胴懸は、梅に虎(17世紀李氏朝鮮絨毯)、花文様(インド絨毯)、玉取獅子図(中国緞通)の3枚継ぎ(写真)。前懸は今回は西洋の城の絵だが、旧約聖書創世記の一場面を描いた16世紀の毛綴(タペストリー)もあり、国の重要文化財に指定されている。
 

 
 
  南観音山は巡行の最後尾を行く堂々たる曳山で、下水引は日本画家加山又造原画の「飛天奏楽図」前懸・見送には17世紀ペルシアの緞通やインド更紗がある。

 鯉山は、中国龍門の滝をのぼる大きな鯉の姿を飾り、水引・胴懸・前懸・見送は、もとは一枚の大きな16世紀ベルギーの毛綴を裁断して作ったもの。ギリシアの長編叙事詩「イリアス(イリアッド)」のトロイア、戦争の一場面を描いたもので国の重要文化財。1753(寛政5)年に新調した胴懸の左右の龍の絵は、中国明代のビロードの婦人宮廷服を裁断してつないだそうだ(写真)。なお、別の場面の毛綴が裁断されて鶏鉾・露天神山・白楽天山に使用されている。
 
 


 
 このような外国産の飾りは他の鉾や山にもまだいくつもある。江戸時代に手に入れた例が少なくないのは、かつて輸入したものが国内で売買されていたのだろう。それとも江戸時代に新しくもたらされたのだろうか。日本のもっとも伝統的な行事といえる祇園祭が、実は世界の文化と広くつながっていたことをよく示している。
 

 
 
 
 
 ところで、巡行する鉾の最大のものは約12トンになり、それを組立て、曳出し、巡行し、解体するのに延べ180人くらいの人があたるという。巡行する鉾を見ても100人くらいの人がいるのが分かる。

 地上から鉾の先端までは約25m、屋根までは約 8mある。屋根の上には2人から5人乗っており、相当に怖いと思うのだが障がい物への対応などの役目があるそうだ。 
 
 鉾屋は約9畳の広さがあるが、ここには30~40人の囃子方が乗っている。鉾によって違いがあるそうだが、鉦を打つと長い紐が上下左右に揺れるのが視覚的にも心地よく祇園囃子を感じることができる。(写真は南観音山)
 
 鉾の正面には稚児が乗るが、先頭を行く長刀鉾以外は人形となる。前懸の前には音頭取が2人立つが、扇を持って出発や辻まわしの時に大きな役割を果たす。 
 
 

 
 
巡行する鉾の見せ場は交差点での方向転換で、鉾がまだだいぶ手前のうちに準備が始まる。四条河原町の交差点で見たが、まず車輪を回すところに割竹を並べて水を打つ。直径 2mはありそうな車輪がそこに乗ると音頭取の合図に合わせて車方が押し、曳子が曳く。呼吸が合わないと山車は動かない。車輪が竹の上を滑って見事に動いた時にはなかなかの迫力だ。これを何回か繰返して鉾の向きがやっと90度変る。間近で見るととても緊張し、怖いほどだ。重心が上の方にあるようなので倒れる心配はないのかとそばにいた警官に聞いたら 「私の知っている限り事故はありません」とのことだった。(写真は菊水鉾)
  
 また、道路には微妙な傾斜があったりする。そこで鉾は車輪の向きを微調整しながら進むわけで、そのために車輪のすぐ前には鋤を太くしたような道具を持った人がいて時々車輪の下の左や右を少し乗せるようにして山車の方向を調整している。大きな車止もすぐ使えるようにいつも一緒に動いている。
 

 
 
 
 
 山鉾巡行見学のために御池通に階段状の見学席がこの日のために造られているが、ここに座ってしまうと鉾の方向転換など途中の様子を見ることができない。私は歩道を歩きながら見物したのだが、交差点を除けばそれほどの人出ではないのでしっかりと見ることが出来た。
 
 浴衣姿の娘さんたちが目の前を行く鉾に向かってしきりに声をかけ手を振っている。知りあいがいるのだろう。方向転換に時間がかかるので巡行の列はよく停止する。舞妓さんが停まっている山の人たちと記念写真を撮っていたりする。舞妓さんが昼間祇園以外のところを歩いていることはないと聞いた覚えがあるので、観光舞妓さんだったのかもしれない。曳子の中に外国人が混じっていたりする。祇園祭は観光客におおらかな京都の人たちの祭だということが歩きながら見学するとよく分かる。
 
 
 
 
 
 巡行の最後尾南観音山が四条河原町を曲ったのは正午頃だった。終点(新町通)に着くにはまだしばらく時間がかかるが、パトカーがゆっくりと後をついて進み、巡行の幕は静かに下されていった。しかし、祇園祭はこれで終りではなく、この日の夕方の八坂神社神輿の神幸祭、何日か後の還幸祭など月末までいろいろと続くそうだが、私のような観光客にとっては終ったようなものだ。

 南観音山のペルシア絨毯の前に揺れ動く長い紐「コンコンチキチン コンチキチン」の祇園囃子の音がだんだんと遠ざかって行くのを見送ると、私はすぐ近くの新京極の裏通りにある居酒屋に腰を下して疲れを癒した。念願かなってじっくりと見ることのできたピラミッドの胴懸をはじめかずかずの豪華な飾りを思い出しながらあらためて京都の人たちの底力、伝統の力に感じいったのだった。


注 : 
懸装品については,主として梶谷宣子「山鉾の懸装を変えた渡来染織品」(『祇園祭大展図録』所収 1994年)による。