先ごろテレビで直木賞をもらう頃の藤沢周平を描いたドラマ「ふつうが一番」をみた。
癌で妻を亡くして母と娘3人で東京の業界紙の会社に勤めながら小説を書いていた藤沢が、再婚して新しい家庭をつくり直木賞をもらうまでを描いたドラマだ。東山紀之と松たか子の夫婦と草笛光子の母親を中心に展開するドラマに久しぶりに静かな感動を覚えた。
 
考えてみるに昨今異常な殺人事件が相次ぐのは、殺人事件が起きるドラマがいくつもテレビに流れて殺人が身近な出来事と錯覚する状況の影響ではないかと心配になる。もっと 「ふつうが一番」 のようなドラマが作られてほしいと思うのは私ばかりではないだろう。
 
私の住んでいる家の近くで、若い頃の藤沢周平が一時期過していたことを知った時は驚いた。藤沢の故郷山形県鶴岡には何回か訪ねたことがあるが、まさか自分の住んでいるすぐ近くに彼の生涯の一時期が刻まれていようとは思ってもみないことであった。
 

 
作家藤沢周平は、地方に行って講演をした折に色紙を頼まれると 「軒を出て犬 寒月 に照らされる」 という句を書いた。たまに一人で二三枚頼まれるとはたと困った。なぜなら色紙に書けそうな句はこの一句しかなかったからだ。 藤沢が俳句を作ったのは若い頃の数年間だったが、それが機縁で芭蕉・蕪村・一茶 をはじめいろいろな人の俳句や研究書に親しむようになって俳句がより深く理解できるようになり、ついには「一茶」という小説まで書いてしまった。しかし、色紙に書けるような句はこの一つくらいしかなかったと彼は書いている。注①

 ところで、1998(平成10)年8月に 「藤沢周平展-心に残る人びと」 という展覧会が東村山市(東京都)の歴史館で開かれた。藤沢が亡くなった翌年にあたる。彼は若い頃に結核治療のためにこの地の療養所で数年間を過したが、その時に俳句と出会い療養所の仲間と『のびどめ』という俳句誌を作った。展覧会は当時の仲間が持っていた俳句誌や写真などによって東村山時代の藤沢を紹介しようというものだった。


 私は藤沢周平の作品の熱心な読者とは言えないが、有名な作家が数年間を過した療養所が私の家のすぐ近くにあったことを知って驚いた。その後気にしつつも改めて調べることもせずに歳月ばかりが過ぎてしまった。最近になって少し調べてみようと思い立ったのは、私が藤沢の『三屋清左衛門残日録』に共感を寄せるような年輩になったことと、藤沢の療養所時代を知ることは私の住んでいるところの昔の様子を知ることに重なることでもあるからだった。(小文はまだ藤沢周平と名乗る前のことなのだが藤沢周平にした。)
 

 
 山形県に生まれた藤沢周平(本名小菅留治)は、1949(昭和24)年に山形師範学校を卒業すると出身地に近い湯田川中学校に赴任した。ところが 2年目の春の集団検診で肺結核にかかっていることが分かって休職し、治療に専念することにした。そこで、鶴岡市の中目医院に半年間入院し、その後は自宅療養に努めたがなかなか良くならなかった。

 そこで早く元気になりたい一心で東京の結核専門の病院に行く決心をし、兄と上京したのは1953(昭和28)年 2月藤沢26歳の時で、入院先は東村山町(現東村山市)にある篠田病院林間荘であった。「林間荘はいわゆる結核療養所だが、同じ東村山にある結核専門病院保生園と契約していて、手術が必要な人はそちらで手術出来るようになっていた。もっともこういうことは林間荘に入院してはじめてわかったことで、中目医師に話を聞いた段階では私には東村山町の場所さえわからなかった。ただ北多摩郡という地名には田舎そだちの私の緊張をやわらげるものがあった。東京といっても田舎に行くのだと私は思い、そこで誰にも知られずに死ぬのもわるくはないと、ちらと考えたりした」と書いている。⑧


 林間荘の最寄駅は西武新宿線久米川駅で、東北約 5キロメートルのところには西武池袋線清瀬駅がある。この駅の周辺には結核専門病院や療養所がいくつもあるので戦前からよく知られていた。まさに緑が豊かで空気のきれいな東京の田舎だった。現在も国立東京病院をはじめいくつもの病院が集中しているが、周辺は住宅街となってしまい病院が肩身の狭い思いをしているようだ。この病院街の西には広大な国立ハンセン病療養所多磨全生園があり、さらに南西の西武新宿線の近くにあったのが篠田病院 だった。

 すでにパス・ストマイといった特効薬が使われるようになっていたとはいえ、結核はまだまだ怖い病気だった。治療してもあまり良くならずに遠い専門病院に入る藤沢周平の心境は暗かった。「これから行く病院に、私はそれほど希望を持っているわけでもなかった。結核療養所という名前には陰鬱なイメージしかなかったし、その上私は自分を、要するに結核がなおらなくて田舎に居場所がなくなったので、東京の病院にやって来た人間だと思っていた。行手には相変らずちらつく死の影を見ていた。」⑥

 ところで鶴岡の中目医院がなぜ東京の篠田病院を紹介したのか。藤沢はなにも書いていないが、実は病院と山形とは縁が深かった。初代院長の篠田義市は山形市の篠田病院院長の弟で、東京新宿で神経内科の病院を経営していたが1940(昭和15)年にその別院として篠田病院林間荘をつくったといわれる。⑫
 

 
 さて、2月に入院した藤沢は詳しい診察の結果、洗面とトイレ以外はベッドに寝ていなければならない安静度3度ということになった。「一カ月後には、薬餌療法よりも手術が適当という最終的な治療方針も決まった。前方にかすかに希望が見えたようでもあったが、同時に、それまで曖昧だった死も、禍禍(まがまが)しくはっきりした姿を現わしたのを感じた。重苦しく不安な日日が過ぎて行った。⑥」

 やがて5月には手術のために 連繋していた保生園病院に移った。「季節は梅雨に入り、丘の中腹を病棟が這いのぼるように建てられていた病院は、来る日も来る日も音立てて降る雨に包まれていたことを思い出す。その雨に病室の外に密集した木木の暗い緑がぬれていたことも。」「手術は三回、右肺の上葉切除につづいて、手術した側の肋骨を計五本切り取る補足成形手術が二回である。うまくいけば最初の一回で済むはずだったので、私の手術はあまりうまくいかなかったことになる。手術も二回目までは余裕があったが、三度目の手術を告げられたときには私は疲労の極に達していて、どうなることかと思った」⑨ といった様子で、とても俳句を楽しむような状況ではなかった。


 病院は丘の傾斜地に建てられていたから、手術や治療などをする本部棟と病室との往復は坂道となり看護婦たちの苦労は大変なものだった。藤沢はこうした献身的な看護婦たちによって命を助けられたといった思いが深く、後に「心に残る人びと」② で実名をあげて感謝の思いを記している。私も入院して全身麻酔の手術を受けたことがあるので藤沢の気持がとてもよく分かる。
 
 
 
 藤沢が手術を受けた保生園病院は新山手病院と名を変えて総合病院となり、昔の場所に今も結核予防会の経営で存在している。病院の建つ丘の傾斜地は狭山丘陵の東端にあたり、西武新宿線東村山駅から歩いて20分ほどのところだ。建物は全部建替えてあるので昔の面影はないが、病棟のあった坂の上の辺りは介護老人ホームとなっていた。しかし背後の丘の風景はおそらく当時とそれほど変っていないだろう。病院の 門を入った正面には古びた池があり、その傍には伸び伸びと枝を広げたヒマラヤ杉と樫の大木が繁っていた。おそらくこの池と大木のみが藤沢周平とこの病院との深い関係を今に伝えてくれるものであろう。(写真)
 
  この丘陵は八国山といい、丘の中腹にはかつては元弘3(1333)年の板碑(国重要文化財)が立っていて、新田義貞の鎌倉攻めの際にこの辺りで幕府軍との戦いが繰返され、その時の戦死者が供養されたことを示している(今はふもとの寺に移されている)。病院の近くには古戦場の石碑も立っている。 この辺りは、古代には東山道武蔵道(官道)が、鎌倉時代には鎌倉街道が通る交通の要衝で、佐渡に流される日蓮上人が泊ったと伝える旧家も存在する。またすぐ近くには室町時代の初めに建てられた正福寺千体地蔵堂(東京都最古の建造物、国宝)もある。このように、病院の周辺は東村山地域でもっとも歴史を感じることの出来る場所といえるのだが、当時の藤沢には興味を示す余裕などなかったに違いない。
 
 藤沢周平が篠田病院に帰ることが出来たのはその年(1953年)の晩秋で、しばらくは安静を守らなくてはならなかったが、「翌年になってから大部屋に移った。大部屋は、安静度四度の患者が六人いる部屋で、二時間の安静時間以外は起きていてかまわず、読書も碁も花札も、また外に散歩に出るのも自由だった。⑨」(『半生の記』の年譜では大部屋に移ったのは1955年となっている。)死の予感から生の希望へと転じることの出来た藤沢はこれ以降の療養生活で様々な人たちと出会い、いろいろなことを経験することになる。
 

 
 藤沢周平と俳句の出会いは篠田病院に入院早々だった。静岡の病院から転院してきたSさんをリーダーにして俳句のいろはのいから始まったようである。病院の周辺は自然が豊かだった。そして少し上達すると静岡の俳句誌 『海坂(うなさか)』 への投句をすすめられた。①
 
「同じ患者のSさんというひとが俳句会を作り、私にも入会をすすめてくれたのである。私は早速入会した。会員は十人ぐらい集まったと思う。私のような患者、看護婦さん、事務所のひとなどがメンバーだった。病院は、松平伊豆守信綱が作らせたという野火止川、といっても幅一間ほどの細い流れだったが、その川のそばにあったので、会の名前を野火止句会と決め、私たちは希望にもえて出発した。

 とはいえ、きちんとした作句の経験者は、主唱者であるSさん一人だった。ほとんどのひとが、実作ははじめてだった。私もはじめてだった。私たちは、Sさんを先生格にして、俳句には季語というものが必要で、その季語は歳時記という本に書いてある、というようなことから、作句の手習いをはじめたのである。

  私はSさんに教えられて、虚子の 『季寄せ』(三省堂版)を買った。そして句会 にも吟行にも、その小さな 『季寄せ』 を、離さずに持って参加した。いまはすっかり家が建って、見るかげもなくなったが、そのころの病院のまわりは、茫々とつづく麦畑だった。そしてその先に檪、小楢、栗、エゴノ木などの雑木林、村落などがあった。
             
  雑木林の中には、春は草木瓜、スミレの花が咲き、秋には木の実が落ちた。私たちの吟行というのは、その雑木林を歩き回ることだった。句会になると、根源俳句は、などとすごいことを言うひともいたが、Sさんは委細かまわず、徹底して写生句を指導した。

 そして私たちの句が、どうにか句の体裁がととのうところまで来たのを見ると、ご自分が提稿しておられた 「海坂」 に、私たちも投句するようにすすめられたのである。(中略)それが私と 「海坂」 とのつき合いのはじまりだった。 だが、私が俳句を作ったのは、正味一年半ぐらいの間だろうか。病院というところは人の入れかわりがはげしい場所である。病人は、病気がなおれば出て行くし、看護婦さんにも異動があった。野火止句会は、次第にふるわなくなった。」
 
 
歴史館での展覧会には当時の仲間が保存していた俳句誌『のびどめ』が13冊展示された。1953年 9月から翌年 9月の号で、表紙はきれいな水彩画でB6判の大きさだった。展覧会の資料によると、内容は毎号ほぼ同じで、百合山羽公(ゆりやまうこう)・ 杉山岳陽・相生垣瓜人(あいおいがきかじん)の俳句と選句、課題句、会員による合評、季節にかんするエッセイ、あとがきとなっていた。平均18~20ページで、小菅留治(藤沢周平)の句は67句確認され、エッセイが 2つあった。 藤沢の句は、「百合の香に嘔吐す熱のせいならめ」「初鴉病者は帰る家持たず」「雪の日の病廊昼も灯がともる」「春蝉やここら武蔵野影とどむ」「落葉無心に降るやチエホフ読む窓に」 といった病院詠や病者の心象風景、思郷の句などであった。 これらの『のびどめ』が発行された時期は、さきに触れたように藤沢は手術後の安静の時期だった。また、この句誌は13冊ですべてなのか、その前後にも発行されたのか判然としない。

 藤沢の俳句の出来栄えはともかく、句作には熱心だったようで、Sさんのすすめに従って静岡の俳句誌『海坂』にも投句した。「私が俳誌「海坂」に投句した時期は、昭和二十八年、二十九年の二年ほどのことにすぎないが、馬酔木同人でもある百合山羽公、相生垣瓜人両先生を擁する 「海坂」 は、過去にただ一度だけ、私が真剣に句作した場所であり、その結社の親密な空気とともに、忘れ得ない俳誌となった④」と書いている。「軒を出て犬 寒月に照らされる」 の句は、同誌でほめられた数少ない句の一つである。さきの 『のびどめ』 の選者はいずれも 『海坂』 を主宰した俳人であり、両者の深い関係を示している。藤沢の俳句は、1953年 6月に 4句採られたのが最初で、以後1955年 8月までに44句入選したが、俳号は最初は小菅留次、後には北邨といった。⑪ なお、俳句誌の名称『海坂』については、「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」と藤沢が書いている④。藤沢の小説でおなじみの海坂藩の名はこうした青年時代の思い出から生まれたものだった。
 

 
 やがて大部屋に移って行動の自由が増すと、読書のほかに碁や花札に興じたり、病院の周辺をよく散歩し、時には盆踊りに加わったりした③。新しく出来た詩の会「波紋」に入って詩を作ったのも手術後病院に戻った頃のことだった⑨。展覧会の資料には、療養仲間と散歩したり、花札に興じたり、盆踊りの仲間入りしている藤沢の写真があった。また、仲間の退院記念の集合写真や看護婦さんたちの写真もあった。『藤沢周平全集 別巻』 にも看護婦さんたちとの集合写真が掲載されている。 
 
 
 
 篠田病院林間荘は、現在は跡形もない。しかし、1951(昭和26)年測量の地形図には 「篠田病院」 と記入されているのでその位置は正確にわかる。それは西武新宿線久米川駅の東方で、伊豆殿堀(野火止用水)と斜めに交叉する道とで出来る大きな三角形の敷地で、周辺には針葉樹・広葉樹の林と畑が広がり、駅の周辺にはほんの少し家があるだけだ。人家は病院の北の方にあって集落を作っている。これが昔の大岱村(おんたむら、今は恩多町)で、病院脇の用水を下流(東北方向)に行くと村の鎮守稲荷神社(写真)、小学校、墓地が並んでいる。その先には橋がかかり、やや広い道が東南の久留米村に通じている。

 こうした地形図の観察をより具体的にしてくれるのが写真や文章だが、さきの展覧会には久米川駅の写真があった。藤沢周平もエッセイに何回も病院周辺の様子を描写 している。俳句会結成の頃の引用にも病院周辺の様子が書かれていた①。『半生の記』 には、「入院してきたときは灰色の幹が折り重なるだけだった病院の背後の雑木林は、春になると一斉に新芽が芽吹き、地面には点点と野木瓜の朱色の花が咲いた。そして病院の前ははるかむこうまでつづく麦畑だった。風が吹くと麦は海のようなうねりを伝えた」 と書き⑨、また、「青春の一冊」 には、「そのころの西武新宿線沿線は、駅をはずれるとすぐに畑と雑木林と荒れ地がつづき、その冬枯れの風景のむこうに、雪で白くなった富士山が見えた。病院は前面が海のようにひろがる麦畑、うしろを葉の落ちつくした雑木林に取り囲まれた場所だった。遠くの方に農家や村落が見えた」 と書いている⑥。


 まさに都会を離れたのどかな農村風景が戦後も見られたところで、それでいて都心には電車で 1時間もあれば行くことが出来た。 藤沢周平と同じ頃に入院していた人たちの話をもとに当時の病院とそこでの療養者たちの様子を教えてくれるのが 「療養所は「人生の学校」だった」 である⑫。ここには病院とその周辺の1956(昭和31)年頃の様子を示す手書きの地図もあるので、現在の様子と比べる貴重な手がかりとなる。(藤沢は1957年11月に退院した。)
 

 
 私が篠田病院のあった場所のすぐ近くに越して来たのは昭和40年代の初めだった。 都心に近い新宿区に住んでいたのだが事情があってそこを売りはらい、まだ畑や林が多いのが気に入って東村山に住むことにした。手書きの地図のあるエッセイには篠田病院は1964(昭和39)年 3月に閉院とあるので、私はそれから間もなく越して来たことになる。 久米川駅のホームには当時は小さな屋根しかないので、雨の日には傘をさして電車を待つのかと驚いた記憶がある。駅前も閑散としていた。 
 
 
 
 駅の東側には平屋の都営住宅や 5階建ての団地があったが、松林や畑がまだ広がっていた。その頃は田無から瑞穂までほぼ一直線に片側 2車線の新青梅街道の建設が進められており、西武線を越す橋がまだ完成してなかったので道路は久米川でストップしていた。この道路は病院の敷地を少しかすめるように出来ており、やがて病院の跡地にはボーリング場が出来て今日に至っている。(写真)

 野火止用水の縁には今も檪や小楢などが繁って緑の帯をつくっている。中には驚くほど太い木もあって用水の歴史を感じさせてくれる。少し下流に歩くと稲荷神社がある。広い境内の一部は公園になっているが、私が越してきてからも夏になるとこの公園で盆踊りが行なわれた。先の手書き地図には、「舞殿があり、夏祭で舞や花火を奉納、患者自治会も参加した。32年で祭は絶えた」 と書き込んである。藤沢も、「盆踊りといえば、若いころに療養生活を送った東京郊外の村で、病院を抜け出して村の鎮守の境内でひらかれる盆踊りに加わったぐらいである。三晩ぐらいは通ったと思う」 と書 いている⑦。 
 
 
 
 神社の隣りには小学校があった。東村山駅の近くにある化成小学校の分校で、例の地図には 「分教場、低学年のみ」と書き込んである。当時はまだ周辺の宅地化が進んでいなかったのだろう。やがてこの近くに大岱小学校が開校するのは1961(昭和36)年のことである。この分教場の跡地には最近まで警察の寮があったがそれも今は取壊されて更地になっている。ここにかつては学校があったということを知る人は少なくなってしまったが、用水に架かっている小さな橋の欄干の端に「がっかうはし」と彫った字の周りに貝の内側の輝く部分を埋め込んで飾った珍しい石柱がある。当時の人が学校や子供たちに寄せたやさしい気持が伝わってくるようだ(写真)。すぐ傍に1.5 メートルくらいの太い石柱が2本立っているが、これはもしかしたら学校の門だったのかもしれない。

 
 
 
 さらに少し行くと、「用水のふちにアヤメ、ショウブが花を咲かせていた」「この辺りも、先も住居なし。小高い丘や畠、雑木林が続き、いろいろなキノコが採れた」と地図に書き込んである。地図の畠は一面の麦畠である。やがて煉瓦でアーチを造った立派な橋に出る。久留米村に通じる道に架かる中橋だが、逆方向から橋を見ると煉瓦のアー チがないので、幅の狭い橋を後に広げたのだろう(写真)。例の地図には橋の傍に、「女床ヤ、姉妹 2人の店。椅子が痛んでいた」 と書いてある。療養所の患者が通った床屋だったのかもしれないが、今はない。この中橋まではそんなに遠くはないので、おそらく藤沢周平も散歩でよく歩いたのではないだろうか。用水には今もきれいな水が流れており、雑木の緑の帯も健在で、自動車の多いのに目をつぶれば藤沢の歩いた時代に思いをめぐらすことができる。
 

 
 藤沢周平は、この療養所に26歳から30歳の直前まで 4年 9ヶ月入院していたことになるが、この間の様々な経験は後の作家藤沢周平の誕生に大きな意味を持ったといえよう。療養所では、元気だった頃の職業や地位、経歴などは意味を持たず、性格の違いがあってもみな患者としては平等で、裸の人間同士のつきあいだった。山形県の限られた地域でいわば純粋培養のように育って教員になった藤沢にとっては、広い世間の一端を知ることになり、人間としての幅も広がった。「療養所は、私にとって一種の大学だったと思う。世間知らずもそこで少少社会学をおさめて、どうにか一人前の大人になれたというようなものだった。悪いこともずいぶんおぼえたが、それも知らないよりずっとましだったことは言うまでもない。③」 「このときの病気と入院がなかったら、私がいまのように小説を書けたかどうかは甚だ疑わしいと思う⑨」 と書いている。

 健康を回復して退院の少し前になると、藤沢は療養所内で新聞配達のアルバイトをしたり教員に復職するために帰郷して運動したりした。しかし結局教員には復職出来ずに東京で業界紙の新聞社に勤めるようになった。いくつかの新聞社を転々としながら取材して記事を書く毎日だった。1959(昭和34)年には何回か見舞いにきてくれたのが縁で教員時代に教えた三浦悦子と結婚した。その後長女展子(のぶこ)が生まれたが、その年に妻悦子を癌のために失うという悲劇に見舞われた。⑩


 藤沢が小説を書き始めたのはこの頃からである。1965(昭和40)年に初めて藤沢周平のペンネームで『オール読物』新人賞に応募し、作品「溟い海」で新人賞を受賞したのは1971年だった。そして1973(昭和48)年に作品「暗殺の年輪」で直木賞を受賞して作家としての地位が定まった。しかし、初期の作品には暗いものが多かった。結末の明るい小説を書けるようになったのは「用心棒日月抄」あたりからだと藤沢自身が書いている。⑤
「私が小説を書き始めた動機は、暗いものだった。書くものは、したがって暗い色どりのものになった。ハッピーエンドの小説などは書きたくなかった。はじめのころの私の小説には、そういう毒があったと思う。時代小説を選んだ理由のひとつはそこにあって、私は小説にカタルシス以外のものをもとめたわけではなかっ た。(中略)しかし最近私は、あまり意識しないで、結末の明るい小説を書くことがあるようになった。書きはじめてから七、八年たち、さすがの毒も幾分薄められた気配である。いま私が考えているのは、子供のころの私を、あれほど熱狂に誘った小説の面白さということである。つまり考え方が、やっと原点に立ちも どってそういう小説を書きたいと思うようになったわけである。(中略)『用心棒日月抄』 という小説には、以上にのべたような私の変化が、多少出ているかも知れない。」
 「用心棒日月抄」 が雑誌に連載されはじめたのは1976(昭和51)年 9月で、篠田病院を退院して19年後のことである。東村山での療養生活と、その結果としての東京での生活と悲しい経験がもしなかったならば、藤沢周平(小菅留治)の生涯はまったく異なっていたかも知れない。

参 考
俳句誌 『のびどめ』 掲載の藤沢周平(小菅留治)の俳句
(東村山市の歴史館での展覧会資料からの転載)
 
1953(昭和28)年 9月号 掲載なし
1953
(昭和28)年10月号
百合の香に嘔吐す熱のせいならめ
向日葵や北天の雷雨背にし立つ
竜胆や人体模型かしぎ立つ
はまなすや砂丘に魚歌もなく暮れる
大松原風鳴りやみて夕焼来

1953
(昭和28)年11月号
天の藍流して秋の川鳴れり
雲映じその雲紅し秋の川
秋の川芥も石もあらわれて
日の砂洲の獣骨白し秋の川
秋の野のこゝ露草露ふくむ
 
1953(昭和28)年12月号
肌痩せて死火山立てリ暮の秋
死火山の朱の山肌冬日照る
轍鳴る枯野の末の雲紅し
枯野雲迅し日が照り日がしぼむ
枯野生れ枯野の町となりにけり
ひたひたと秋の海鳴る磯の日に
枯野はも涯の死火山脈白く
葉鶏頭は風吹かれゐる入日かな


1954(昭和29)年 1月号
汝を帰す胸に木枯鳴りとよむ
残照の寒林そめて消えむとす
あから日の湖へ落葉の静かなる
摩滅せるしるべに道に落葉降る
汝が去るは正しと言ひて地に咳くも
童女の座孤独に紅葉売られをり

1954(昭和29)年 2月号
薯煮え居り貧しき夜なべ倦まむとす
寒鴉啼きやめば四方の雪の音
薔薇色の初明りさせ病者らに
繋がれし赤牛に繁く霰降る
銃声の何撃らにけむ雪谷に
初鴉病者は帰る家持たず


1954(昭和29)年 3月号
父あらぬ童唱へり冬虹に
雪の日の病廊昼も灯がともる
落葉無心に降るやチエホフ読む窓に

1954(昭和29)年 4月号
落葉松の木の芽を雨後の月照らす
鳩の群舞ふ城跡に青き踏む
春水のほとりいつまで泣く子かも
鴨撃たれしあと湖を霧つゝむ
寒月下疾駆の橇に鞭ひかる
雪崩るゝよ盆地の闇をゆるがして
基督者の墓地ある丘の木の芽吹く
雛祭る夜の静かに曇りをり
故郷には母古雛を祭るらむ
花瓶の紅梅に夜到りけり

1954(昭和29)年 5月号 掲載なし
1954(昭和29)年 6月号
桐咲くや田を売る話多き村
変電所が鳴れり桐咲く郊外に
花いちご姪の誕生日と思ふ
春蝉やこゝら武蔵野影とゞむ
石蹴りに飽けば春月昇りをり
更衣して痩せしこと言われけり
微かなる脳の疲れや薔薇薫る

1954(昭和29)年 7月号
魚夫老ひてはまなすの砂山拓く
青蛙雷雨去りける月に鳴く
虹明るし山椒魚を掬ふ子ら
夜濯ぎの独り暮らしの歌果てず
郭公や魚屑そだつ山の湖
外燈に虫群れている薄暑かな
野を行けば虫まとひつく薄暑かな
海の香す鯖担ひ来る海女
閑古啼く山に薪伐るうとまれて
メーデーは過ぎて貧しきもの貧し

1954(昭和29)年 8月号
花合歓や灌漑溝みな溢れおり
葭簣よりはだか童の駈け出ずる

1954(昭和29)年 9月号
風鈴や子の夏風邪はかるく癒ゆ
水争ふ声亡父に似て貧農夫
夏の月遠き太鼓の澄むばかり
抗わず極暑の人とならんとす
こがね虫面を逸れし鋭どさよ



① 「小説 『一茶』 の背景」 『小説の周辺』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
② 「心に残る人びと」 『小説の周辺』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
③ 「再会」 『小説の周辺』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
④ 「『海坂』、節のことなど」 『小説の周辺』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
⑤ 「一枚の写真から」 『小説の周辺』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
⑥ 「青春の一冊」 『ふるさとへ廻る六部の…』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
⑦ 「さまざまな夏の音」 『ふるさとへ廻る六部の…』 所収(藤沢周平全集 第23巻)
⑧ 「療養所・林間荘」 『半生の記』 文春文庫(藤沢周平全集 月報連載)
⑨ 「回り道」 『半生の記』 文春文庫(藤沢周平全集 月報連載)
⑩ 「死と再生」 『半生の記』 文春文庫(藤沢周平全集 月報連載)
⑪ 「年譜」 『半生の記』 文春文庫(藤沢周平全集 月報連載)
⑫ 「療養所は 「人生の学校」 だった」 植村修介(藤沢周平全集 別巻)