大地震によって南阿蘇村の阿蘇大橋が崩落したが、その原因になった大規模な土砂崩れの一因として山の上を走る発電用の送水路の地震による損壊があるのではないかと報じられた。山の上には取水口から黒川発電所の貯水槽へ2本の送水路があるが、そのうち1本が損壊して約20万立方メートルの水が斜面を落下したという。因果関係について九州電力が調査を始めたそうだ。
 
 このニュースを聞いて私は約100年前の関東大震災の時に、同じような事情で起きた土砂崩れのために一家が全滅した悲劇のあったことを思い起こした。神奈川県箱根湯本の山間部でのことである。
 
 『スウィス日記』 の著書で知られる辻村伊助は、登山家でありまた高山植物の研究者でもあった。しかしスイスアルプスの登山で遭難し、入院した病院で出会った女性と結婚、植物研究の成果を日本で実現するために故郷に高山植物園をつくって活動していた最中に起きた悲劇だった。
 
 『スウィス日記』 は山岳文学の名著として知られているが今では読む人は少ないだろう。まして著者辻村伊助一家を襲ったこの悲劇を知る人は少数の関係者以外にはもういないかも知れない。以下の文章は辻村伊助一家へのレクイエムである。
 

 
      
 
 
 
 
 阪急電車梅田駅の高架の下に商店街がある。私は大阪に行くとよくこの商店街を歩く。というのは、商店街の最後のかっぱ横丁に飲食店が集まっており、そこの酔鯨亭で一杯やるのを楽みにしていたからだ。 土佐の銘酒酔鯨にカツオのたたきやドロメ(生シラス)などでほろ酔いになると帰り道には同じく高架下の阪急古書のまちに必ず立寄った。ここには特色のある古書店が狭い場所に14軒並んでいるが、中でも加藤京文堂は私好みの本がいろいろあるので楽しかった。

 もう20年くらい前になるだろうか、この店で辻村伊助の 『スウィス日記』 を見つけたときにほろ酔い気分も手伝って1万5千円も払って買ったのは。もともと山の本が好きでいろいろと持っているが、高価な初版本を集める趣味はないので単行本の 『スウィス日記』 とは縁がなかった。それをつい買ってしまったわけだ。

 私が買った本は、1930 昭和 5年に梓書房から発行された増訂版の普及版で、1936 昭和11年発行のフランス装、ケース入りの美本だった。 ヨーロッパには何回か行っているがスイスは機会に恵まれなかったので、私はスイスのガイドブックや写真を見ながら 『スウィス日記』 を少しずつ読んでいった。
 

 
 東京の大学で農芸化学を学んだ辻村伊助は、卒業にあたって一年間のヨーロッパ旅行を親に許されて1913 大正 2年10月に日本を後にした。実家が小田原の資産家だったから実現したので、伊助は恵まれた青年の一人だった。北アルプスをすでに何回 も歩いていた彼の願いは何よりも本物のアルプスの山々に近づき、いくつかの山頂を極めることにあった。それに高山植物にふれてその低地での栽培を研究することにあった。当時ロンドンには友人の武田久吉が滞在していた。武田は後に高山植物研究の第一人者になるほどだから二人の関係は深かった。

 『スウィス日記』 は1914年 1月、冬のユンクフラウ ・メョンヒ 2座の登頂と 8月 のグロース・シュレックホルンの登頂と遭難および遭難後についての記録である。この二つの登山の間にはロンドンに武田を訪ねてスコットランドの高原地帯を6月に一人で旅した。『ハイランド』 はこの旅の記録である。辻村伊助の著作はこの 2冊だが、後者には日本の北アルプス登山の記録も含まれている。ヨーロッパから帰国後はなぜか日本の山にはほとんど登っていない。

 辻村伊助の名が不朽なのは、日本の北アルプス登山およびスイスのアルプス登山の先駆性と悲劇的な生涯、残された著作に見られる山と高山植物に寄せる一途な思いと心惹かれる文章によるのではないだろうか。アルプスにおける遭難の本人による記録も貴重だが、私が何よりも衝撃を受けたのは関東大震災による裏山の崩落で自宅にいた伊助一家全滅の悲劇だった。
 

 
 辻村伊助のアルプス 2座の冬季登頂は日本人初の快挙だが、8月のグロース・シュ レックホルンの登頂(4080m)も含めて彼の山行は日本人のアルプス登山の先駆けともいうべきものだった。グロース・シュレックホルン登山に同行した近藤茂吉は北アルプスを何度も歩いている山のベテランで、それにガイドが 2名と総勢 4名だった。1914 大正 3年 8月 1日午前 2時にシュトラールエックの山小屋を出発した一行は、雪と氷と岩それに氷河のクレバスと、死の危険との 9時間余の戦いの後に午前11時30分に見事登頂に成功した。その感動を伊助は次のように記している。
 
「私達は氷に足形を刻んで、静かにそのアレトを攀じ登った。グロース・シュレッ クホルンの頂上は、氷柱が無数に垂れ下った岩で、もうすぐ頭の上になったが、時間はなかなかかかって、氷から柔かい雪に変った山稜を、胸を躍らせてかけ登った時、腕時計は、丁度午前十一時三十分を示しておった。 絶頂の氷の上に、近藤君と抱き合って喜んだのはこの時である、グリュッセを叫んで、ガイド達と互いに堅く握手して、日の強い最高点に、躍り上って喜んだのはこの時であった。」
 
  辻村伊助はこの夏あと 6座の4000メートル級の山に登るつもりでいた。だから頂上で近くに聳える山を見るとこれまでの苦しみを忘れてもう次の山への期待に胸を膨らませていた。山登りの好きな人はみな同じだ。
      
 「実際、山は、私達の希望のとおりで、一度達せられる瞬間に、もう更に高いとこ ろへ移されて、心はいつまでも、果す折のない望みを懐いて、どこまでもどこまでもさまよわなければならない、そしてその努力が、何とも云えない楽みである。」
 

 
 山登りは、登るときよりも下りのほうが大変だし危険だ。雪や氷の絶壁ならなおさらのことだ。頂上から下り始めた伊助は、「登りとちがって、岩の角からうつ向きになって、一足クーロアールへ足形を切ると、何がさて眼が眩むような楯一面、真っ白に辷り落ちる雪の壁に」 「一足、一足と段を作って、靴のつま先を雪の中に突っ込んでは、そろりそろり這い下りる」 「足もとは悪し、雪の急斜で手掛かりはなし、重くはなかった筈のリュックサックまで、いやに意地悪く背を曳いて、気のせいか、もんどり打ちそうで気味がわるくてならない」 といった様子だった。

 雪崩(アヴァランシュ)の危険を感じながら慎重に雪の壁を横切っているときに悲劇は起きた。
 
「この時、誰とも知らないが、わっ!というけたたましい叫び声を聞いた。どきっとして振りかえるとたんに、私と近藤君の間に、雪の塊が二間ばかり頭の方から、烟をあげて、湯滝のようにどっと崩れ落ちるのを認めた。が、それは一瞬間で、もうその時、私達はアヴァランシュの上に乗っていたのである。夢中で杖を打ち込んだまま足を下にして、非常な加速度をもって、うつむきになったなりで一直線に、雪の楯を辷って了った。(中略) もう駄目だと観念した時に、ずしんとばかり、肩先からやけに雪の中に叩き込まれた。占めた!助かった!と思うと同時に、 また空を切って、私の身体はつぶてのようにほうり出された。」
 
 こうして何度も放り出され、叩きつけられながら、クレバスに落ちる恐怖が頭に閃いたりしながら、伊助は何時しか意識を失っていた。
     
「次第に意識は不明瞭になって、只、何ものとも知らない大きな力にもてあそばれて、山崩れの石塊のようにころがされていった時、ずるずるっと、何かに摩擦されたように、速度が弱って、身体を埋め込んだ雪の山が、そのままじっと動かなくなったのをぼんやりと覚えていたが、それを最後にして何分かの間は、私の日記に、私自身すら書き入れることを許されない、白紙が計らずも挿まれてあったのだ。」
 
 3時間半もかけて登ったクーロアールの上からわずか1、2分で落ちたことになるが奇跡的にも辻村伊助は助かった。しかも仲間の 3人もともに助かった。ただ近藤とガイドの一人は足を折り、伊助ともう一人のガイドも全身に打撲を受けていた。『スウィ ス日記』 には伊助が撮影した遭難直後の写真が載っている。

 しかし、ここから山小屋に戻る死と隣り合わせの苦闘は、当事者以外にはとても想像できないことだろう。伊助は氷河の上に複数の女性の幻影を見ている。彼らは、たまたま山小屋に登ってきた登山者に助けられて死を免れ、やがて辻村と近藤はインテルラーケンの病院に入院して治療の上、さらに 3週間トゥーン湖のほとりの宿で療養した後に帰国した。
 

 
 『スウィス日記』 は日本人によるはじめてのアルプス登山の記録であり、スイスの自然についての詩情あふれる文章であったが、だからこそ著者はあえて個人的な出来事を書くことを避けたのだろうか。ローザ・カレンとの出会いと結婚について同書は何も記していない。

 辻村伊助とローザ・カレンが出会ったのは遭難して入院した病院だった。ローザはこの病院で看護婦として伊助の看護にあたり、やがて二人は結婚を決意した。帰国にあたってロンドンの日本領事館で正式に結婚の手続きをした後、第一次世界大戦の戦火から逃れるように日本への船に乗った。
 
 作家中里恒子の作品に 『忘我の記』 (文藝春秋、1987年) がある。中里の作品群の中ではやや異質の作だが、辻村伊助の一途な生涯と悲劇的な最後に心を動かされて 『スウィス日記』  をベースに独自の取材を加えて作品にまとめたものだ。この作品によって伊助とローザの出会い、結婚、日本での生活と一家の最期について多くを知ることが出来る。また 『小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園』(松浦正郎、箱根博物会、1994年) という本には、結婚の記念写真だろうか正装した二人の写真、面長で長身の伊助に寄り添うこれも面長のローザの姿が掲載されている。
 
 辻村家は広大な山林を持つ小田原の資産家で、当時は兄の常助が今の小田原駅の辺りで広い農園を経営していた。帰国した伊助も最初はこの農園で植物の研究と栽培に力をそそいでいた。しかし、小田原駅建設に伴い農園が北西の山寄りに移転したのを機に、1921 大正10年伊助一家は箱根湯本に5000坪の土地を求めて念願の高山植物園を造った。山の斜面を利用した本格的なロックガーデンを造り、高山植物の研究と栽培に本腰を入れた。イギリスやスイスでの研究や見学をもとにいつか日本でもといった伊助の夢の実現だった。ローザも日本の生活になじみ 3人の子にも恵まれて幸せな毎日だった。

 スイスの山での不幸な出来事は結果として伊助にローザとの出会いという幸せをもたらした。しかし運命は、この少し後に一家に決定的な不幸をもたらすとは誰が予想することが出来たろうか。

 『スウィス日記』 の増訂版に寄せられた武田久吉の 「追憶」 は、辻村伊助の人となり、生涯、業績などについてのまことに意を尽した文章だが、湯本の高山植物園について次のように書いている。
 
「地は早雲寺に接し、北向きの斜面で、その一部からは富嶽の頂が望まれる。樹木雑草の生い繁った所を開拓し、山腹から湧出する清水を引いて小流や池や飛泉を作り、その一部を屋内にも引き込んで用水としてあった。 園は年々拡げられ、巨石を巧に塩梅して、縦横に蔓延繁茂する高山植物の根を宿す土壌の流れを防ぎ、且つその上に踞して植物を痛めずに、近くから仔細に観察することも出来る様になって居た。」
 
 そして武田の写した植物園に咲く高山植物の花が添えられていた。また親しい友高野鷹蔵の 「純情の人、伊助」 には、植物園で遊ぶ二人の愛児の写真があった。
 

 
 1923 大正12年 9月 1日正午直前、相模湾を震源地とする大地震が発生した。関東大震災である。この地震によって小田原 ・箱根にも大きな被害が出た。心配した兄常助らが箱根湯本の伊助邸に駆けつけたが、家と植物園のあったところは裏山から崩れ落ちた岩と土砂に埋もれて手をつけられない状態だったという。ただ建物の屋根だけが土砂の上に乗っていた。集まった人たちは懸命に土砂を掘り返したがついに遺体は発見されなかった。しかし、小型の皮表紙の日記が発見された。高等学校時代から死の前日まで記した日記にはなんと13か条にわたる遺言が書いてあった。そこには、
 
遺骨又ハ灰ヲ成ルベク保存セザルコト、万一、遺骨灰ヲ保存スルトキハ、極小量 ニ留メ、適当ノ時機ニ、スウィス国内高山ノ頂ニ埋ムルカ、或ハ何レカノ 「クレツヴァス」 ニ投ズルコト
遺稿、山岳写真等ノ出版ハ、ナスモヨシ、ナサズトモヨシ、遺族友人ノ考ニヨルベシ
如何ナル形式ニテモ、墓標類似ノモノヲ、建設セザル事
追悼会、告別式、ソノ他一切、類似ノ儀式ヲ、行ハヌヤウニスルコト
 
などとあった。

 兄常助は後に書いた追憶記で 「山津浪は一気に押し寄せて、家諸共押し流したものであり、其際の弟は、アルプの嶺に、アヴァランシュを踏で、千仞の谷に辷り込む気であったに相違ない、是は痛快だと、心に叫んで、ローザと共に、手とりかき抱き、其まま一潟数十丈を走ったものと思われます」 と書いている。

 伊助一家の遺骨が発見されたのは 3年後の1926 大正15年 6月のことである。旧東海道の復旧工事の際に、遺骨と共に数々の遺品も掘り出されたが、『続スウィス日記』 の原稿もこの時に発見された。

 遺族、友人は故人の遺志を尊重して一切の儀式を行なわず、墓も造らなかった。遺骨は後に比叡山に納められたという。そして、生前に出版された 『スウィス日記』 に原稿を追加した増訂版と、『ハイランド』 を七回忌にあたる1930 昭和 5年に発行して辻村伊助の記念とした。両書には、伊助と縁の深かった武田久吉 ・高野鷹蔵 ・小島烏水 ・辻村太郎 ・近藤茂吉が追憶を寄せている。この二冊の本によって辻村伊助の名は、その人となり、亡くなった事情も含めてこれからも長く伝えられていくことであろう。
 

 
 
 
 夏の一日、箱根湯本の伊助邸の跡を尋ねた。最初に郷土資料館に行ったが大震災当時の様子についての資料はなにもなかった。しかし、『小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園』(前掲)を見せてもらい、説明板の位置を教わったりした。豊臣秀吉に滅ぼされた北条氏の墓がある早雲寺に向かって旧東海道を歩いていくと郵便局の前に湯本幼稚園がある。その入口に町が立てた辻村伊助邸跡の説明板があった。早雲寺の少し手前にあたる。

 目の前には樹木に覆われたまるで屏風のような急傾斜の山地が連なっている。地図を見ると標高約 300メートルの山の上は傾斜が緩やかでゴルフ場になっているようだが、道路から約 150メートルある山肌は急な斜面となっている。旧東海道に沿って今は家や旅館が建ち並んでいるが、伊助が住んでいた頃にはほとんど一軒家のようだったというから近くには早雲寺くらいしかなかったのだろう。
 
 
 
 
 説明板の前から山を見上げる。狭い山裾から一気に立ち上がる山肌にはよく見ると浅い沢のような窪みが刻まれて、山の上は少し低くなっているように見える。もしかしたらこれが伊助邸を一瞬に押し潰した崩落の跡かもしれない。 兄常助は弟の死亡通知に、「山上の大貯水池崩壊の為、山成す土石湍る水に、恐らくアッと云ふ間も無く、咲き競ふ高山植物の数々と共に、湯本の地下に埋れました」 と書いた。この貯水池は今も山の上にあり、水は導水路を経て三枚橋の発電所に一気に落ちる。箱根登山鉄道に電力を供給しているそうだ。地図を見るとこの貯水池は早雲寺の前にあたり伊助邸からは少し西に位置している。もし池が崩壊して水が山の崩落を招いたならば早雲寺の前に落ちてきそうなものである。

 伊助の高山植物園には山に湧く水の流れがあった。しかしその水は山上の池の水が漏れたものらしいとローザ夫人が心配していたと書いてある。すると崩壊した池の水は少し流れてから地盤の緩んでいた伊助邸の上の山を一気に崩落させたのかも知れない。今となっては真実を知ることは出来そうもないが、私は山を見上げながら短かったが充実した幸せな日々を過したろう伊助一家と高山植物園を心に思い描いた。
 
 ところで、グロース・シュレックホルン登山に出発する時、伊助は迷った末に万一のことを考えて簡単な書置きをしたが、伊助の考えでは、山は危険で地上は安全だともいえない。「ことによると山に登らないで麓にいると、かえって、死ぬような目に逢うかも知れない。何だか登らないとかえって危いような気がしてならない。生きて行くには登るに限るとも考えた」 と書いている。

 生と死はいつも背中あわせ、だから今やるべきこと、やりたいことに全力を注ぐといった伊助の死生観からすると、発見された手帳に遺言が書かれていたのも不思議ではないだろう。それだけ伊助の生は純粋に、一途に燃えたものだった。

  「私は後の世があるかないか知らないが、もし有るならば、今と同じ境遇に生まれたい、然らずばむしろ、いかなる階級に於ける人間の種類をも御免を蒙むって、雪解の野にアルプの雲を仰ぐ、ああいう牛に生れ代りたい」 と 『スウィス日記』 に書いた。

 辻村伊助の生涯は、なだれ(雪崩)に生かされ、なだれ(山津波)に死んだものだったといえよう。
 

 
 辻村伊助の父甚八は42歳で亡くなったが、母歌子はその時32歳だった。母は 3人の子供を育てながら由緒ある辻村家を支えることに生涯を捧げた。伊助はそうした母を深く思っていた。

 大震災の直後、伊助邸に駆けつけた時の母の悲しみ。

      いづかたにいにし我が子ぞこととはぬ 俤のみを世にはとどめて
  一目だにあはまほしきを土山に ともに崩れし岩が根の下

  母は 1年後の1924 大正13年10月に63歳の高齢をおして徳本峠を越えて上高地に立った。上高地は伊助の深く深く愛したところで、林道が出来、樹木が伐採されて開発が進む様子に、「くれぐれも云う、神河内ならぬ 「上高地」 は不快なところである」 と1912年に書いていた。
 
 同道した兄常助の歌。

  弟よ母はアルプの嶺こえて わが子いづくと魂したひゆく
  梓川はるな繁山秋葉やま 名をなつかしみ旅枕する (伊助の3児の名が詠み込まれている)
 
 そして、母の歌。

  岩根ふみ仰ぐ穂高の雪の山 なつかしながら袖のぬれつゝ
  梓川瀬の音きけばわが恋ふる 子の面影をみるこゝちして
  焼岳の煙りを空にながめつゝ 夕日淋しきわが思ひかな
 
:本稿の引用は、『スウィス日記』 (1998年 2月、平凡社) ・『ハイランド』 (1998年 9月、平凡社)による。