最近思うようになったのは、結局私にできることは、自分の人生を選択して、それをすると決めて、許可を出すこと、それだけなんだろうなと思います。

もしかしたら周囲の『こうすればいい』『ああした方がいい』という助言やアドバイスは、話半分で聞く、ぐらいでちょうどいいのかもしれません。

もちろん、中には良かれと思ってアドバイスをしてくれたり、相手のことを思っての発言もあるでしょう。

しかし、結局人生のことを決めるのは、その本人にしかできないのですから、言う側も言われる側も、そのことはわかっていてもいいのでしょうね。

人のことに干渉しすぎたり、それによって依存心が強くなれば、互いに良い影響は生まれません。

しかし、現代のほとんどは、相互依存状態にあるのではないかと思うのです。

 

何ものにも依存せずに生きるには、すべてにおいて自分で決めるか、もしくはすべては自分が決めたことだと言い切ることでしょう。

それはとても勇気がいることです。

なぜなら、この世界のすべての出来事は、自らの選択や、許可の結果だと言い切ることにもなるからです。

ただ、その選択をした理由はわかりません。理由をわかろうとはしなくていいのです。

例えば、ある人の一言でとても嫌な気持ちになったとします。

ほとんどの人が、『あの人のせいで』と思うでしょう。

ですが、ここで腹を立てるかどうかは私の選択次第ですし、腹を立てる許可を出したのも私です。

だとしたら、私は『あの人のせいで』腹を立てる選択をしたのではなく、私がその時『腹を立てたかったから』その選択をし、腹を立てる許可を出したんだと思います。

それを私が選んだとはなかなか言えませんし、思いたくないこともあります。

 

ですから、辛い時に何かのせいにしても良いかもしれません。

ですが、『なにかのせいで』と言い続けている限り、人生は何も変わらないのです。

それは、依存の車輪からいつまでたっても抜け出せず、何事に対しても外側に依存しながら、結果の方を生きていくようになってしまいます。

以前、時間の流れについて書きましたが、

過去から未来に向かって時間の流れが、同一線上にあれば、関連しているように見えますが、実はそれぞれが独立した存在かもしれません。

であれば、私はその時、理由はわからないが腹を立てたかっただけなのだが、何か理由をつけるために、それに関連しそうな出来事を過去にさかのぼって探し、関連付けただけ、なのでしょう。

もしくは、腹を立てたいがゆえに、そのような出来事を引き起こしたのかもしれません。ただ、その時にまさかそれを自分が望んだとは思いたくないですよね。私が腹を立てることを選んだ、とは認めたくないのです。

自分が不幸になるような出来事を私が望むはずがない、という気持ちもでてくるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。

私達の心の中には、様々な感情があります。

その感情を一つ一つをみていくことが出来るならば、私を愛する気持ちもあれば、どこか破滅願望や、自分に対する憎しみの気持ち、ゆるせない感情も当然あるでしょう。

ですから、私の中には、私を愛する気持ちがあるのと同じように、不幸を願ったりする気持ちもあるはずなのです。

そういう気持ちを持っていたくないとか、持っていては良くないと考えているのは、あくまで感情をジャッジしていることからですし、愛の感情を支えるのが不安の感情だとしたら、相反する感情があってもさほど不思議ではありません。

ただ、表層的にはだれも自分の不幸を喜んだりはしませんから、これは私の考えではないとか、私が望んだことではないと言い切ってしまうのです。

ですので、今まではそうやって別のところに責任転嫁していたのです。

また、私が決めたことであると言い切った瞬間に、自らを責めてしまうこともあります。

何か悪いことをしたからとか、この現実を選んだ私の選択は良くないとか思ってしまうこともあるでしょう。

しかし、結果は何かの罰ではありません。種を植えたから、芽が出て花が咲いた。

ただそれだけのことです。

腹を立てたなら、何かのせいでも、誰のせいでもなく、ただ私がその時、腹を立てたかっただけなのです。

もしも人生の多くが、『ただ、そうしたかっただけ』だとしたらどうでしょう。

そこに何も理由がないのですが、私たちは何か理由が欲しいのです。

原因と結果でという考えを持っていれば、原因と結果の間には、ある種の時間差とかタイムラグが生じるような気がします。

結果が出るまでの時間がかかると思うでしょう。

ですが、『ただ、そうしたかっただけ』であれば、タイムラグはありません。

原因『そうしたい』気持ちと、結果『腹を立てる』ということは、同時に起こっていますから、実は原因と結果は同じタイミングなのです。

これは、過去、現在、未来で時間が流れているように考えていれば、タイムラグがあると思ってしまうでしょう。

例えば、私は大きな風呂敷の中にたくさんのおもちゃを持っているとします。

 

そのおもちゃはこの世のすべて、過去、現在、未来、すべての生命や、記憶など、この宇宙のすべてです。そのおもちゃはたくさん詰まっており、一つの風呂敷の中に同時に存在しています。

そして、私は時々その中から、その時体験したいおもちゃを取り出すのです。

なぜそのおもちゃを取り出したかというと、理由はありません。

『ただ、そうしたかったから』です。

ですから、腹を立てたい時に、それを風呂敷の中から取り出した。

ただ、それだけです。

そう考えると、今の状況を、ただそうしたかっただけという理由で取り出し、味わっているということになります。

さらに、なぜそうしたかったのかというと、

『他にすることがないから』ではないでしょうか。

この人生は、それぞれが主人公の壮大なドラマなのでしょう。

そして、そのドラマの脚本やキャスティング、その時々での出来事を作っているのかもしれません。

私達はドラマの脚本家であり、傍観者であり、創造主でもあるということです。

どんなドラマも素晴らしく、ドラマを作るその理由は一つ。

『ただ、そうしたかったから』

なのではないかと思うのです。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!