先日、ある社会福祉法人の総務の方と話をする機会がありました。
今は、体調不良や身体のあちこちに痛みを抱えながら、介護の業務を行っている職員さんも多いらしく、それでなくても人手が足りない介護の現場で、ぎりぎりの状況だというお話を聞きました。
75歳以上の高齢者が、2200万人に達すると言われている2025年問題ですが、そこに向けて、施設や介護従事者を増やすことは必要不可欠だったとは思います。
しかし、そこには、支える側の負担軽減やケアはあまり含まれていないのかもしれません。
支える側も人間ですから、いくら仕事に熱意を持っていたり、生活のためとはいえ、身体を壊しては意味がありません。
ただ、これは介護の問題だけではなく、どの仕事の現場でも言えることでしょう。
健康は生活には大きく影響しますから、元気でいられるということがいかに大切かを考えさせられます。
そもそも、身体の不調はどこから来るのでしょう。
多くの場合、自分には何も関係のないところから突然やってくるように思えるのですが、実はそうではないと思うのです。
外側からやってくると思っているだけで、実はすべては自分の内側から発生させているのではないでしょうか。
なぜ、そう思ったかというと、その総務の方と話した帰り道、ふとこのような言葉が頭に入ってきたからです。
『自分の身体は、自分にしか治せない』
私達は、身体の不調を感じた時に、それに抗うことが出来ないし、ただ受け入れるしかないと思っているかもしれません。
しかし、本当はそうではなくて、本人の許可なしにその状況に陥ることはできないのではないのでしょうか。
ですから、この不調が内側から発生しているなど、到底認めたくはないけれど、他者のコントロールによるものでもない、ということにまずは気付かなければいけないかもしれません。
そのため、本当の意味での治癒とは、まずはそれの状況を選んだのは自分である、と認めることから始まるのではないでしょうか。
ただ、この苦しい状況を自らが選んだと思うのは、あまりにも辛く苦しいこともあるでしょう。
その時には、一度内面と対話する機会を持ってみるのもいいかもしれません。
ご存知の通り、聖徳太子は十七条憲法の中で「和をもって貴としとなす」ということを第一条にあらわしています。
和を何よりも大切にすることと、わだかまりなく話し合うことが尊い、ということを意味しています。
この言葉はおそらく、自分と周囲の人との関係性の事だと思うのですが、私はそれだけとは思えませんでした。
和を尊重するのは、『私とあなた』だけではなくて、『私と私』も含まれているのではないかと思うのです。
私との関係性が上手くいっていないのに、外側の誰かとの関係性をうまくすることはできません。
外側を見て、『私とあなた』の関係性が上手くいっていない時、まずは『私と私』の関係性の見直しから始めないといけない。
そのなかで、不調を生んだ要因など、見えてくるものがあるでしょう。
では、『私と私』の関係性を良くするのはどうしたらいいでしょうか。
それは、聖徳太子がきちんと示してくれていますね。
『わだかまりなく話し合うこと』です。
自己対話を行いながら、内面の私の思いをひたすら聞いてあげることだと思います。
それには、日記だったり、モーニングページのようにひたすら出てくる思いを書き出したり、ふと感じる気持ちを否定しないことや、感情を抑えずに大切にすることだと思います。
内側と繋がり、それを大切にすることは決して難しくはありません。
ただ、日々の生活の中で、優先順位が下がってしまったり、それをすることの意義を見出せないこともあるでしょう。
中には内側の思いより、相手の気持ちを優先させてしまうこともよくあります。
しかし、その方法以外に、自分を治すやり方が他にはないと思います。
それが私達に与えられた唯一の方法であり、内側の思いはいつも繋がりを求めています。
生きている意味とは、何か大きなことを成し遂げたり、幸福と思われる環境に身を置くことを望むことではなく、この内側との繋がりを持ち続けることなのかもしれませんね。
いかがでしょうか。
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