とても暑い日が続いたかと思えば、急に気温が下がり、大雨になる。

 

こういう気候や気温が不安定な時には、私も体調が不安定になり、たまに調子を崩すことがあります。

そういう時に、私は動物を見習った方法で身体を休めています。

まずは、飲まず食わずで、消化のエネルギーを治癒に向ける。

 

のどが渇いて飲みたいなと思ったり、これが食べたいと思うまでは、とにかく胃腸を休ませるようにします。

次に、日中はあちこちの窓を開けて、換気はしっかり行います。

 

換気扇は24時間かけてはいますが、出来るだけ空気の入れ替えと、カーテンを開けて、太陽光を入れるようにします。

そして、とにかく寝るです。調子が悪い時って、これでもかと思うぐらい寝られるというか、寝ているというより、意識を失うみたいな感じがしますが(笑)

ひたすら寝ます。

少し落ち着いてきたら、腸内環境を整えるのに、ビオフェルミンを飲んだり、塩分を補給するために、具のないお味噌汁を飲んだりし、起き上がれそうだったら、お風呂に入って身体を清潔にします。

起き上がれないほどの体調不良の時は、お風呂も無理はしていませんが、その場合も窓を開けて、換気だけは行っています。

※これはあくまで、寝ていれば治るような場合に限りますから、自己診断はせずに、基本的には早めに病院に行くことをおススメします。

体調を崩した時、私はよく正岡子規を思い出します。

 

教科書で一度は名前を見たことがあると思いますが、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など、創作活動を行った俳人であり歌人、国語学研究家です。

結核と脊椎カリエスが死因となり、満34歳で早世したといわれており、日本の近代文学に多大な影響を及ぼしたにもかかわらず、過剰なる過食、美食、暴食が死に至る病を決定的にしたことはあまり知られていません。

その一方で、正岡子規の介護をしていた母と妹は、一汁一菜の粗食の結果、皮肉にも長命を保つことになったようです。

身体が弱ったり、病気の時に栄養を摂らないといけないと思うのはわかりますが、それも時と場合によるし、限度もあるでしょう。

これには、人間の器の大きさも関係あるかもしれません。

 

例えば、食も経済の豊かさも、その人の器の大きさに合わせたものがあるだけではないかと思うのです。

器の大きさ以上の物を手に入れた時に、その身を崩すというか、支払う代償が大きくなってしまうのではないかと思います。

例えば、宝くじで高額が当たった人の多くは、そのお金を使い果たしてしまい、自己破産したり、事件に巻き込まれるなど、宝くじが当たる以前よりも悪い状況になる、というのはよく聞きます。

また、過度な大食、美食を繰り返すことで健康を害してしまい、身体が元に戻らなくなったり、継続的で多額な医療費が発生する場合もあるでしょう。

もちろん中には、何をどれだけ食べても平気な人もいれば、お金もジャンジャン入ってきている人もいるかもしれません。

ですが、それはその人の器の大きさによるものかもしれませんから、人は人、私は私、といった感じで、うらやんだり、真似をしようとせずに、ただ自分の器の大きさに合わせた、身の丈に合った生活をすればいいのだと考えています。

現代は、欲を制御しにくい時代です。

 

飲食をコントロールしたくても、あちこちで何でも購入できますよね。

 

出掛けないと食べられないものも、今では多くが自宅にいても手に入りますから、我慢もしにくいと思います。

自由度が高く、欲求を満たしてくれるものがすぐ近くにあるということは、逆に言うと、それを『しない』ということを選択出来るか、出来ないかが大きな分かれ道にもなるような気がします。

自由度の高い選択肢は、選ぶものによっては、厳しい代償も待っている可能性もあるということです。

ですから、身の丈に合った生活を地道に生きるということこそが、その人の器を大きくしていくものなのかもしれません。

正岡子規のように、好きなものを食べて、太く短く生きたいんだ!という人もいるかもしれませんが、病床においては身体の激痛や精神錯乱など、かなり悲惨な状況だったようです。

支払う代償があまりにも大きすぎます。

私達は『生き方』についてはよく考えているでしょう。

『どのように生きればいいのか』

『どんな生き方をすればいいのか』と。

もしかしたら、考えないといけないのは『生き方』ではなく『死に方』なのかもしれません。

ここで言う『死に方』とは、人をうらやむことなく、地道に生きること。

 

そして、いかに器を大きくして、与えられたこの寿命を全うできるか、ということを考えないといけないのでしょう。

あの人はあんなに悪いことをしているのにお金があってとか、好きなものをたくさん食べても健康そうだ、それなのにあの人は器が大きいと言うのか、と思うこともあるかもしれません。

先程も書きましたが、人は人ですし、もしかしたら周囲からは見えないだけで、代償を支払っている可能性もあります。

また、正岡子規のように亡くなるときにその代償を支払わされる場合もあるでしょう。

ですから、周囲と比較したり、誰かの真似をしたりしなくていいので、自分の器を大きくするために地道に生きればいいのです。

人生の精算は最後までわからないのですから。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!