大型断捨離をしたという投稿を何度かしましたが、物を捨ててから見えてきた自分の内側、今日はそれについて書きたいと思います。
物が部屋からどんどんなくなっていくたびに、なぜか複雑な感情が芽生えてきました。
ただ、すっきりするとか、捨てていくさみしさとかではなく、自分の中にある問題点、抱えてきたけれど見ないふりしていた心の部分。
それらは私に多くのものを突き付けてきました。
今まで、物でおおわれて、まろやかに、また優しくベールに包まれた部分でしたので、開けてびっくり、見たくないものがじゃんじゃん出てきたんですね。
それは、プライドの高さだったり、どこか人を見下しているところとか、素直に謝れないところ、傲慢さ、そう思ったかと思えば、私は可哀そうな人だから助けてよみたいな依存心もあり、追い詰められた時には何かのせいにするずるがしこさとか、
これはもうほんの一部で、書いててもう泣きそうになるぐらい恥ずかしいのですが、そのような部分がどんどんあふれ出てきました。
気付かないで済むならそうしたかったですが(笑)
現実逃避してみないふりしてきたことが、断捨離を通じて見ざるを得ない状況になったのです。
そのような部分に一つ一つ気が付くたびに、周りの人に申し訳なくなったり、過去をやり直したい気持ちになったり、一人で赤くなったり、青くなったりを繰り返しています。
もちろん、すでに直接謝れない人も多いですし、今なお助けてもらっている人もいる中で、何もできない心苦しさも感じながら、自分を見つめる機会を与えてもらったことに感謝しています。
ただ、人生というのはそれでもこうして機会を与えてくれるのだなと、人生はとても優しい、そう感じました。
以前は、人生はとても厳しいと思っていました。
思い通りにならないことや、努力しても叶わない現実、満たされない毎日を感じながら、この世界の厳しさを痛感していたのです。
しかし、そうではなかったんですよね。
いつも何かのきっかけを与えて、気付かせてくれようとしていたのだと思います。
ただ、それは罪に対しての罰ではなく、気付きを与えるための愛でしょうし、その人の器を大きくするための経験かもしれません。
自分の中のいろんな部分を見つめた時に、卑下ではなく、ただ一言こう思いました。
『私を助けてください』
良いところもダメなところもすべて見た時に、私は自分では何もできないと感じたのです。
それは、親鸞さんの言うところの『南無阿弥陀仏』や、イエス=キリストへの救済意識へ委ねる気持ちですが、
すばらしいと思っていた自分はただの無力な人間だったと気が付いた時、
『助けてください』
しか言葉が出てこなかったんですよね。
自分が素晴らしく何でもできる人間であると思っていれば、誰にも助けを求める必要はないですから、今までそのように思っていたのでしょう。
断捨離をしてから私はもう何も持たなくていいし、もうこの身一つで何もなくても良いと思いました。
今も毎日、手離せるものを手離しています。
ただ、何もなくても良いから、自分の弱さを認めて
『助けてください』と言える人間になりたいと今は思っています。
私もまた助けを求める人間の一人です。
今日もお読みいただきありがとうございます!