前回に続き、中庸のお話です。
どちらかに偏りすぎず、道の真ん中を歩くというのはどういう状態でしょうか。
例えば、『ある』ことにも『ない』ことにもOKを出すということです。
欲しいものが手元に『ある』ことにも『ない』ことにもOKを出すということです。
こう書くと、欲しいものがあれば嬉しいけど、ないのは悲しい。
両方OKなわけがない。
特に何かを手に入れるために努力していれば、なおさらそう思いますよね。
では、視点を一回変えてみます。
もしもあなたが可愛い猫を飼っているとします。
その猫はとても可愛いのでたくさんご飯をあげたいのですが、最近少々太り気味です。
なので、少しご飯の量を減らしました。
猫は悲しそうに鳴きますが、あなたは猫が健康で長生きしてほしいので、やはりこれ以上はご飯は増やせないと思いました。
ただ、猫からしたら今までもらっていたのにもらえなくなったので、自分が何かしてしまったのだろうかとか、悪い子だからこんなことをされるのだろうかと考えて悲しくなって、不幸を感じています。
おわかりでしょうか。
この猫は、ご飯が今まで通りもらえなくなったので、きっと自分は何か悪いことをしたに違いないとか、考えてしまったんですね。
飼い主のあなたは、大きな愛で猫のことを考えた時、ご飯を減らすことが必要だと思ったんです。
宇宙の采配というのは、まるで私たちからしたら見えない大きな愛が働くように、与えることもあれば、与えないということもあります。
ですが、それは個人の良し悪しではなく、包み込まれた大きな愛、それによって行われているにすぎません。
しかし、猫の気持ちのように生きていれば、私たちは常にエゴの言葉に踊らされ、文字通り右往左往させられながら、真ん中を通ることが出来ないのです。
ですので、視点を変えてみれば、
『ある』ことも『ない』ことも両方OKであり、それは大きな宇宙の采配、大きな愛であるということに気が付きます。
そして、それに付随する感情を手放すのです。
では、その宇宙の采配は一体誰が行っているのでしょう。
神仏?過去世からのカルマ?
それは自分自身です。
私達はそれぞれが自分の世界を創っており、その世界で生きています。
この世界の成り立ち①では、
根底にはいつも、
『どうすればこの人生が良くなるのか』
『幸せに生きるにはどのように生きればいいのか』
がありました、と書きましたが、
この人生を良くする必要も、幸せに生きる必要もなかったのです。
なぜなら、そうすることが人生の目的ではないからです。
では、人生の目的とは一体何でしょうか。
それは、この世界を創ったのは自分であると『認め』目の前にあるすべての物を愛し、感謝すること、です。
ここで言う目の前にあるものとは、目の前にないが『ある』ものも含まれます。
例えば、お金が『ある』ことと、
お金がない、が『ある』ことです。
健康で『ある』ことと、
健康ではない、が『ある』ことです。
こういう書き方をしたら、そんなこと望んでいないと思われるかもしれません。
私もそうだったので、気持ちはわかります。
ただ、もしも書いていることがうまく伝わるなら、こう考えてみてほしいのです。
お金が『ある』私を愛し、
お金がない、が『ある』私も愛す。
健康が『ある』私をゆるし、
健康がない、が『ある』私もゆるす。
『ある』私も、『ない』がある私もただ愛し、
ゆるし、認める。そして、感謝する。
人生の目的とは、ただそれだけだと私は思うのです。
次回は最終回のまとめです。