お金の悪口を言ってしまってはいませんか。
例えば、お金持ちを見て良い印象を持たなかったり、お金がなくても幸せに生きられるとか、半分妬みとか嫉妬も含まれているのかもしれませんが、ついついお金に対してネガティブなイメージを持ってしまう人もいるでしょう。
お金は豊かさの象徴です。
豊かさとは物質的なものだけではなく、心の豊かさ、幸福感、満たされた気持ちなど、目に見えないものもすべて含まれていると思います。
ですので、お金に対しては良い印象を持たないけれど、目に見えない豊かさの方は欲しいというのは、なかなかバランスが難しいのかもしれません。
心が豊かであれば、自然とお金は入ってきます。
なぜなら、豊かさが物質に変化しただけだからです。
お金がたくさんあるのに、心が満たされていないときはどうなの?ってなるかもしれません。
その逆もありますよね。
心が満たされていても、お金はないとか。
その場合は、お金と心の豊かさを別物としてとらえている可能性があります。
ですので、お金があっても心が満たされていない、また心が満たされていてもお金がない、という場合はどちらかの悪口を言って、それぞれが別物だと決めつけているのかもしれません。
豊かさにいいも悪いもないと思うのですが、それによっていろんなイメージや偏見をつけてしまっていることが多く、
また、嫉妬の念や妬み、または自分には持てないなど決めつけてしまっている場合は、豊かさ自体を自分が拒否してしまっている可能性もあるのです。
豊かさは、エネルギーの循環ですが、基本的には与えることで与えられます。
ですので、自らが与えるという状況の循環に入らないと、エネルギーの輪が回転して循環していかないのです。
そのことを理解できている人は少なく、たいていの場合は、先に得ることを求めることが多いでしょう。
ですので、現代の状況の多くは奪い合い、どちらが先に多くをもらえるか、ということに目が向いていることが多いのかもしれません。
職場でも人間関係でも、相手は自分に何をしてくれるのか、ということにばかり注視してしまい、自ら与えるという観念の人は少ないのかもしれません。
しかもその中で、自分はこれだけのことをしているのだから、相手もこれぐらい返してもいいはず、という損得勘定が働くと、必要以上に与えることはせず、それどころか損すると思った瞬間に手のひらを返してくる人もいるかもしれません。
生命とは、それだけですでに満たされた存在であり、愛の存在だと私は思っています。
ですので、そこに在る、それだけで豊かで満ち溢れたものであるにもかかわらず、他から奪わないといけないと考えるのはなぜでしょう。
それは、自らが愛であり、豊かさであり、またすべてがそろった完璧な存在であることに気が付いていないからです。
ですので、欠乏することも、他からもらってくる必要もないのですが、ないと思い込んでしまっているのです。
では、あるを理解するにはどうしたらいいのでしょうか。
一つには現実を見ないようにするというのも良いかもしれません。
現実はバーチャル、プラトンが提唱する『洞窟の影絵』、ワンネスの世界ではあなたはわたし、そして量子力学の世界…いろいろ書きましたが、とにかくすべては今この瞬間の連続で、今この瞬間の想念が豊かであるかどうか、それこそが現実を創り出しているにすぎないからです。
また、私の創る世界と、あなたが創る世界も違うでしょう。
それぞれが創り出す世界によって、パラレルワールド、未来は大きく違うのです。
この世は一体どうなっているのか、考えれば考えるほどなんだかわからなくなりました。
聖アウグスティヌスはこのような時、砂浜に穴を掘って海の水をすべて入れようとするようなものだ、と言いました。
砂浜の穴は人間の脳、海の水は神さまの理、人間の脳では神様のことを理解しようとしてもできない、海の水をすべて入れることはできないと言っているのです。
だから、理解しようとしたり、なぜそうなっているのかを解明しようとしなくていいんです。
ただ、理由はわからないけれど、私は満ち溢れる豊かさと愛の存在である、と思えばいいのです。
今日もお読みいただきありがとうございます!