どんなに良い言葉を使っても、その一方でよくない言葉を使っては結局一緒なのではないか。
最近、そんなことを考えるようになり、自分の言葉をよく観察してみました。
自分から発信することもあれば、周りの人や空気に合わせてつい言ってしまったり、無意識に出てくる不満や悪口にいかに無防備になっているかがわかります。
また、どんなに自分が気を付けていたとしても、周りの人が話していたら、耳に入ってくる場合もあると思います。
一時期、一人でよい言葉だけを言い続け、他の人が発する不満や愚痴を聞かないようにしていました。
その時とても幸福感に満たされ、気持ちが落ち着いていました。
ただ、他の人の愚痴や不満も聞かないで距離を置こうとすると、自然と孤立してしまう状況になってしまうこともありますし、場合によっては、そこから離れることが無理なこともあるかもしれません。
愚痴や不満、悪口を聞いてあげることがいいと思っていた時期もありますが、もしかしたらそれを止めてあげることも必要なのかもしれません。
親鸞さんは、どんなに良い薬があるからと言って、毒を飲んではいけないというようなことを言っていたような。
言葉で発する時、見た目には何も残らない、文字を書いたりするように、目に見えて残せるわけじゃないから、つい悪い言葉を言っても良いような軽い気持ちになってしまいます。
ですか、口には斧があるというように、発する言葉次第では人を幸福にしたり、不幸にしてしまうことがあります。
無意識に言ってしまったり、人に合わせてしまうことも多くある場合、良い言葉だけを使い、悪い言葉を使わないことを日常的に行えるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。
最近では、もはやこれは修行の粋なのではないかと思うようになりました。
発したものは取り返しがつかないことを知ることと、言わないと決心すること。
まずはそこから始めてみるのがいいでしょう。
また、つい発してしまっても、自分を責めたりしないようにすることも大切かもしれません。
私も毎瞬修行だなと思っており、見ざる聞かざる言わざる、の気持ちでいることがまずは大切なのかなと思っています。
そう決心するだけで、まずは満点だと言い聞かせています。
言葉の重要性に気が付いていない頃は、吐き出すことがむしろいいように感じていたこともありました。
そうすることで、一瞬気持ちがすっきりしていたからだと思います。
ですが、聞かされている人にとっては嫌な状況だったかもしれませんし、相談とは違うのであれば、問題が解決することもなかったのです。
思いを全く言わないのはつらいかもしれませんが、状況を変換してポジティブな面をとらえたり、それよりも楽しいことや嬉しいこと、感謝していることに目を向けることで、発想の転換もできるようになります。
始めは繰り返しのトレーニングになるかもしれません。ただ、繰り返していくうちに、だんだんと慣れてきて、負荷をかけても大丈夫になっていくような気がしています。
いかがでしたか。
今日発する言葉で、周りの人を幸せにする人生にしていきませんか。
今日もお読みいただきありがとうございます!