投稿の中で、バランス感覚について何度か書いたような気がしますが、人生において、バランスが大切だと思います。

中庸、いわゆる道の真ん中を歩くということは、自分を生きやすくし、周りの人にも求めない生活ができるようになると思います。

バランスを欠いていると、道の両端同士が戦わなければいけなくなったり、バランスをとるために、大きな振り幅で行ったり来たりしなければいけなくなるので注意が必要です。

このバランスを欠いている原因の一つに、二元論の考えを持っている可能性もあります。

あっちに行ってもこっちに行ってもどっちでもいい、ぐらいの感覚でいられたらいいのですが、

あっちに行くべき、こっちは良くないと自分の中で決めてしまっているとその逆を許せなくなったり、排除しなければいけないような気持になると思うのです。

特に他者や環境に依存してしまうと、自分の思い通りにならない状況を何とか改善しようとして、自分ではなく相手を変えようとしたり、相手の方に求めてしまう傾向もあるかもしれません。

もちろん、場合によっては、間違ったことをしていれば注意をすることもあるでしょう。

しかし、変えようとか、求めている時点で、自分の投影をしている可能性もあると思うのです。

腸内環境でいうと、善玉菌と悪玉菌が常に戦っており、その都度お腹の調子を変えていますが、その中でも日和見菌という多勢に協力する菌もいます。

日和見菌が悪者みたいな書き方になってしまいますが、どちらにもつかず、ただ自分が信じる道を行けばいいと思うのです。

スピリチュアルなことも同じだと思います。

私は目には見えない人の心や、思い、信仰の大切さをよく書きます。

しかし、だからと言って祈っているだけではだめなのです。

朝、今日一日の無事を祈り、そして働いたり、活動して、今の環境に感謝が出来て、今、今、今この瞬間を大切にすることが生きることだと思います。

こんな話を聞いたことがあります。

神さまは、本当は人間に嫌気がさして滅ぼしたいと考えている。それなのに滅ぼさないのには理由がある。それは名もなき尊い人たちがいるからだ。

その名もなき尊い人たちはこのような人です。地に足をつけ、今日種をまき、今を懸命に生きる人。

肩書もなく、人から称賛されることもないかもしれない、有名になることもなければ、誰の目にも止まらず人生を終えるかもしれない。

だけど、今を大切に懸命に生きる、地に足が付いた人のことだと思います。

私はこの話を知った時、自分生き方は尊い人に含まれていないなと、改めて生き方を考え直しました。

今は夢を考えたり、希望を持てる内容のものが多くあります。もちろん、それを良きる糧に楽しく引き寄せることもあるでしょうし、いろんな神様のところに行って、お願いをすることもあるでしょう。

しかし、スピリチュアルに傾倒しすぎることは時に諸刃の剣で、これもバランスを欠いてしまうと、現実を見ることが出来なくなり、今を生きることが難しくなります。

今この瞬間を生きること、ウサギと亀の、亀のように毎日ただ地道な一歩を踏み出すことでしか大きな成果は得られません。

そして、アリとキリギリスの話もそうですよね。

大切なものを見失い、今を生きられているか。私も毎日自問自答しながら生きています。

今日もお読みいただきありがとうございます!