いろんな重荷をおろして、頑張らないで生きる。

最近、そのような生き方ができればいいなあと漠然と思うようになりました。

自分が頑張り過ぎると、周りの相手にも環境にもどこか期待しすぎてしまって、求めるものが多くなるような気がします。

だから、のんびりと頑張らないで、流れるように生きていれば、いいのかなと思うのです。

ただ、それは無気力とは違って、今まで頑張り過ぎてきたことや、もう降ろしてもいいであろう荷物を一つ一つ手放す作業になると思います。

人によってそれぞれ降ろすものは違いますので、自分に必要がないものは何なのか考えてみてはいかがでしょうか。

私にとって降ろしたいものは、スマホと食事でした。

スマホが悪いわけではないのですが、私の場合、それに依存しすぎているような気がしていました。

ゲームなどはしませんが、調べ物があればすぐにスマホで調べたり、情報を手に入れられることが便利ですよね。後は、退屈だったら見てしまう。

しかし、一旦手から離すと、驚くほど時間ができて、一日の時間をこんなにも使っていたのかと驚きました。

それ以来、メールチェックや、note投稿は午前中にパソコンで行い、それ以外はスマホもパソコンも一切触らないようにしています。

後は、食事です。小さい頃から食べることが苦痛で、よく給食のメニューを喜ぶ同級生がいましたが、私はそうはなりませんでした。

家でもたくさん食べることをすすめられ、社会に出たら、上司や先輩のおごりとわかれば残すこともできません。

実は昔からあまり味を感じなく、何を食べてもおいしいと感じたことがありません。

それでも作ってくれた人の思いがこもっていたり、食べさせたいと思ってくれた気持ちが暖かく感じられたので、食べ物の味というよりかは、その暖かさを食べているような感覚でした。

また、いつのころからか食事は人とのコミュニケーションのツールのような感じがしていて、食べることが目的ではなく、食事が人と人との関係を円滑にする機会と捉えていました。

そのため、一人で食べるときに、あまり食事の必要性を感じなかったり、食べないこともあります。

世の中の情報は食べることにあふれているので、正直見ていて恐ろしくなるような感じもします。

もちろん、美味しいものを食べて、幸せな気持ちになることは大切ですが、度を越した量を食べたり、あまりに食べ物の情報が多すぎると、違和感を感じてしまうのです。

以前の投稿で、

欲について書きましたが、食欲という衝動を起こしているのは自分発信なのか、それともどこか別の情報を見てそう思ったのか、というところを見極める必要はあると思います。

ねばならない、とか、すべき、という考えも、自分発信で自分が必要だと思うならいいのですが、なんとなくそうだからとか、みんながそう言っている、というのであれば、自分の感覚を信じても良いと思います。

ただ、そうなると現代では生きにくくなるというのも理解しておく必要があります。

なぜなら、現代人が当たり前に必要としているものを手放すわけですから、正直孤独にはなります。

同じような感性の人が近くにいればいいのですが、ほとんどの人がそうではないので、生き方を理解してもらうことも難しいです。

結局、周りに合わせて自分を偽って生きることしかできないという場合もあると思います。

ですので、あまりいろんなことに抵抗しすぎないで、その中でちょうどいい塩梅を見つけながら生きていくのがいいのではないでしょうか。

例えば、私はスマホを見ないようにしているとして、だからと言って見てばかりいる人を否定したり、やめるよう言い聞かせることもしません。

また、食事に関しても同じです。相手の自由を尊重することもまた必要なのです。

自分の信じるものを、相手が信じなかったからといって、信じさせようとしたり、自分の考えが正しいからと相手を変えようとしたり、見下したり、敵味方をあえて作ることは必要ではないのです。

自分らしく生きるということは、相手の自分らしさも認めることですので、自分らしくあるために誰かを否定したり、誰かを尊重できないのであれば、それは自分らしさの証明ではないかもしれませんね。

いかがでしたか。

どんな生き方であっても、自由でいいと思います。

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