今、2拠点生活をしているので、仕事の予定とか、その日の状況で拠点を行ったり来たりしています。

で、普段から2拠点で生活するなんて考えもしなかったので、当然家の中に一つしかない家電製品や物もありまして、急に移動したり、戻りつもりがなかったから持ってこなかった、という凡ミスを繰り返しています。

今回はその生活の中で私が感じた、身の回りにある『物』や『生き物』についてのお話です。

元々居住している場所は、いわゆる地方都市で、外国人観光客も多い場所でもあり、とても便利で不自由することは何もなかったのです。

しかし、もう一つの拠点はそこから40分ほどで行けるのですが、観光名所の離島で、フェリー移動しかできません。

また、夜の終わりは非常に早く、スーパーやドラッグストアといったものは一切ありません。昨年、島で唯一のコンビニも24時間ではなく午後9時頃には閉店します。

島内は基本自動車の持ち込みができないので、ずっと徒歩移動のため、今までの便利で楽な生活とは全く真逆の状態で、現実と観光名所、日常と非日常を行ったり来たりしているような感じがしています。

で、数日ごとに行ったり来たりを自由にするつもりだったので、生活グッズを置いている割合が、8:2ぐらいで、島にはほとんど何も置いていませんでした。

そうすると、あれがない、これがないっていざ生活を始めてから必要なものが出てくるわ、でもそうなっても買うところはないわで、ここで改めて

『物があるって便利だな』

というか、ずっと便利な中にいたんだな、ということに気が付いていきました。

例えば、ある日は島から本土に帰ったのですが、その日中にすぐ島に帰ろうと思っていたので、非常に軽装で移動しました。

ですが、なんやかんや予定もあって、だんだんと今日島に行くの面倒だなー、明日行けばいいかーなった時に、

眼鏡がない、ドライヤーがない、あれもない、これもないってなったんです。今度は逆に、島で生活するのに、ちょっと買い物したくても、またあれがない、これがないってなって、

普段は本当に当たり前って思っているし、物の扱いとか雑で適当だったけど、ないってなった瞬間、自分の力ではどうしようもできない無力さを感じました。

多少は人間の力でもなんとかなるものもあるかもしれませんが、ドライヤーのような風まで、自分で何とかできるかって言ったら絶対できないし、

おにぎりぐらいなら手で食べられるけど、熱々のラーメンを箸なしで食べられるかって言ったら、熱々じゃなくても手で食べるのは無理だなって思いますよね。

物が使い捨てというか、安く大量にあるから、つい気に入らなかったら捨てて新しいものを購入してしまったり、買えばいいじゃないって思うかもしれませんし、

断捨離することが、身辺を整理して運気が良くなると言いますから、

私も躊躇なく捨てていたタイプだったので、この2拠点生活はその考えを大きく変えました。

一旦不便を経験しないと、便利のありがたさってわからないものなんでしょうね。

よくよく考えたら、物にはその役割があって、その仕事をするために生まれてきているんだと思いますが、それを手に取る私たちがどこまで思いを込めたりできているかということです。

前述のとおり、今日は帰るのやーめたってなった時に、ドライヤーがないわってなったのですが、あれだけの暖かい風を起こして、髪の毛を乾かすまでの威力が人間の力にはどう考えてもないんです。

あと、眼鏡がないってなった時、どんなに人間のあらゆる力を使って目を凝らしても、やっぱり見えないものは見えませんでした。

道具を使わずに生活できていた時代ならいざ知らず、それがないと生活できない状況で、箸がない、櫛がない、歯ブラシがない、その生活を人間の手が代わりをしようとしてもできなくて、無力さをひしひしと感じました。

それ以来、私は必ず物にも声をかけるようになって、『ドライヤーさん、いつもありがとう。今から髪の毛を乾かしたいから、あなたの力をかしてください』とか、

『歯ブラシさん、いつもありがとう。歯をきれいにしたいからどうか手伝ってください』ってお願いするようになりました。

すると、何となく髪がサラサラで早く乾いたり、歯磨きが上手ではないのですが、きれいに磨かれているような気がします。

後は、部屋の観葉植物にもまるで人がいるように話しかけてみたり(会話を他の人にはお見せできないが)

秋になるとカメムシも多く、ベランダに居たりするので、『夕方には洗濯物を入れるからね(服に着くと外で生きられないよ)』と声をかけたり、

ベランダの物干し竿にずっと蜘蛛の巣が張っているんだけど、この蜘蛛のことを勝手に、窓を侵入者から守ってくれる警備員と読んでおり、『おはよう、いつも警備してくれてありがとう』と声をかけたりすると、

それ以上の嫌なことや部屋に入ってまで何かをすることがありません。特に今2拠点で、部屋を開けることもあるから、自然の警備員にお願いしているのだと、一人で楽しんでいます。

そんな生活の中で、私はもうこれ以上必要ないものを買うのをやめようと心に誓いましたし、使えるものがどんなに安く、いつでも手に入るものであったとしても、その寿命と役割を全うしてあげたいなと思うようになりました。

また、人間以外の生き物も虫は本当に苦手だったけど、声をかけているとかわいいなって思えるようになって、

普通ならカメムシも、蜘蛛の巣も家をきれいにしたい人ならすごく嫌がることだと思いますが、

こちらに危害を加えないのであれば、自由に生きる権利もあるだろうと思うようになりました。実際、声をかけると、なんか言葉がわかっているんじゃないかと思うこともよくあって、こちらが嫌がることはしてこないんですよね。

断捨離を否定するわけではありませんし、わくわくするものの中で生活することも大切です。

ただ、今あるものを使い捨てのように、必要な時だけ来てもらって、必要なくなったり、好きじゃないからという理由で身の回りのものにさよならしすぎるのは、

結局、自分も社会の中でそのような扱いしか受けなくなるんじゃないかと思っています。

人間だって、社会を動かしたり貢献するために、ある意味一つの道具として生きているわけで、

あなたは使えるけど新しい人がいいからもういらないとか、あなたは一緒にいてもワクワクしないからさようならって言われたら、絶望しかないと思います。

ですが、職場環境など現代社会にありがちな話ですよね。だれかにとっての旬なメリットで常にいなければ、いつ捨てられるかわからないし、存在意義がなくなってしまうと思うのです。

だから、自分はそうされたくないなって思ったら、自分もそうしたらいけないんだなって思うようになりました。

いかがでしたか。

古来日本では、物にも魂が宿ると考えられて、自然も物もとても大切にして生きていました。皆さんは、大切にできていますか。

今日もお読みいただきありがとうございます!