数年前に一度記事を書いたきり、時間を止めてしまったこのブログ。
1つ記事をアップして、それからしばらくして新しく記事を書き始め、書いては消し、書いては消しを繰り返し、どうもうまくいかない。
そしてある時、下書きのボックスの中でなよついた自分の言葉の羅列をみて、「しまった」と思った。
果てなく底知れない「ことば」の海の上で、泳ぎ切れる強さをもったことばが、自分から全く生まれてこないと気づいて愕然とした。
ことばを探し、選ぶほど、それらが力と意味を失ってしまうような感覚にとらわれて、もう自由に泳げなくなった。
でもそれよりも、致命的な欠落があった。
「私はこの世界でなにを訴えるのか?」
その問いかけに、まっすぐ答えるすべがてんで見つからない。
そもそもなんでブログを始めたんだっけ?
当時、音楽家として自立したいともがいていた自分にとって、「私」自身をあらわす言葉ははっきりしていました。
音楽家、女性で、ヴァイオリニストで、音楽ワークショップっていうのを日本でやってみたい、ギラついたイギリスかぶれ。
「何か」を実現したい、野心のかたまり。
けれど、こんないくつもの主語を並べたとて、それがどうなるというのでしょう?
私が何者であるかをわかっていたとしても、その意思や思いを訴える「ことば」抜きに、人は人を決して動かせない。
「わたし」はいつまでもひとりのまま。
人が「ことば」を探すのは、どうしてもだれかに伝えたい、訴えたい「何か」があるから。
確かに「何か」が自分の心の中で燃えている、けれどその「何か」が何であるかを表す言葉がみつからない。
自分は確かに「なにか」を伝えたくて、この茫漠としたネットの海に漕ぎ出したというのに。
そうして見つけたのは、確たる「ことば」を持たずに漂い、ゆらいで、「何者にもなれない」悲壮感を持て余した不安な自我だけ。
それではどこにも行けはしない。
そうして、思い切って漕ぎ出したはずの私の船は、岸を離れたと思ったらすぐに座礁してしまった。
それから数年経ち、「私」を表す記号は大きく変わり、座標も変わった。
小さな変化、大きな変化が繰り返される日常で、やはり変わらず通奏低音のようにこの問いかけが私の内側で響き続けていました。
私は、何をこの世界で訴えるのか?
答えを必死に探すのと同じくらい、問いかけそのものを疑い、考えることも大事なことなのだ。
今ならば、それがわかる。
だいたい、考えてみれば「世界」だなんて、顕微鏡で炎を見ようとするかのように、なんと漠としたことばをこねくり回して考えていたのでしょう。
こんな大掛かりな問いに最初から摑みかかるとは、なんて自分は真面目(と書いてバカと読む)だったんだろう?
それでも少し、自分の考えていることが自分の「腹に落ちて」軸足が定まった今、ようやく再びことばを紡げる段階に入ってきたのかな、と思えるようになった。
今、ことばは私の温度、私の声、私の瞳。
私の肉体としてのことばが、時にくじかれ、迷走し、変容することが、これからもきっとあるでしょう。
かつて船を乗り捨てた私にとって、自分の心の中に生まれたいくつもの変化や葛藤は「弱さ」であり、「恥」でしかなかった。
変わらないことが「美しい」、そして「信じるに足る」と思っていたから。
どんな物事、事象にも、それぞれ答えはたった1つだけが許されているのだ、と信じていたから。
でも今、そうは思わない。
問わず語りのように始まるこのブログが、誰に届いていくかは分からない。
けれども私がこの場所で「ことば」に向き合うのは、この対峙が、私ではない誰かに響き、届いていくことを願い、望んでいるからに他なりません。
願わくば、これらの対峙から生まれる「ことば」が、だれかの心に真摯に響くものであり、人を動かす力となりますように。
そう祈るのは、この広いことばの海の中で、かつて自分が偶然か必然か拾い上げた真珠のように尊い言葉が、今でも私を勇気付け、励ますものであるからです。
どんな日常も、劇的ではなくても「Before」と「After」のくり返し。
未来に思えた現在は、明日には過去になる。
そこで生まれる無数の「ことば」。
時間の軸さえ飛び越えて心を巡らせたなら、きっと無限に正しさと美しさが見つかるだろう。
このブログは、それを追いかける場所です。