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平安京内裏付近の詳細地図をMacintoshで作成中です。

埼玉県に住んでいる僕(にとって京都はそう気軽に行ける距離ではありませんね)がたった一人で(!)

実地調査と文献を基に、

これまた膨大な時間と労力をかけて作成しているもので、

今回掲載したものはそのドラフトで部分図です。

全体は相当大きなものになっていて、データの重さも半端ではありません。

詳細図を見る場合は


して文章と合わせて確認下さい。

桓武天皇が794年平安京に遷都しそのときに中心的建造物として造営されたのが『平安京内裏』で

図中太いグレー線で示されています。

その後度重なる火災により内裏(皇居)は平安京内を転々とします。

今ある『京都御所』は平安京造営当時から東の標高の高い位置に移動しています。

『大極殿跡』は現在の千本丸太町の交差点で

大極殿碑はその正確な位置から北に外れた公園の中にあります。

『紫宸殿』ほか仁寿殿、承香殿、清涼殿、綾綺殿、昭陽殿、承明門…すべて現在は住宅密集地。

遺構は見事に何も残っていません。

地形からも判断するのは難しく現地にあるのは案内看板だけ。

それもそのはず、この地域は豊臣秀吉が『聚楽第』を造る際にかなり改変してしまったのです。




『豊臣秀吉の聚楽第-』。

ほとんどの人が名前は聞いたことがあるけれどどこにあったのだろうといった感じだと思います。

なにしろこの城豊臣秀吉自身が徹底的に破却ししたため

かつては場所すらもよくわからず幻の城のように扱われていましたが

現在発掘調査が行われおおよその位置と規模が把握できる状態になっています。

図中水色で堀が示されています。

平安京内裏跡地は戦国時代には『内野』と呼ばれ、

畏れ多くて誰も手をつけなかった空白地帯でしたが

天下人となった豊臣秀吉はまさにその場所を選び京における拠点としました。

内裏北東部分はもろに聚楽第と重なってしまいます。

石垣には平安京の礎石が使われた可能性が大きいです。

松林寺に本丸外堀跡があります。

聚楽第天守・天守台跡は現在住宅地ですね。

歴史マニアや紫式部の光源氏マニアがその住宅密集地をうろうろしています。

住民はけっこう迷惑なんじゃないかな???

見学の際はもちろん私有地には勝手に入ったりはせず

地域住民の方々のプライバシーは十分考慮して下さいね。

聚楽第址石碑は聚楽第本丸西堀跡に立っています。

内裏南東部分はもう一人の天下人の城

『内府徳川家康・徳川家光の二条城』が重なります。

白書院、黒書院の位置が上にずれているのはご愛嬌ということで(汗)。

徳川家康・徳川家光のと断ったのは理由があって

実は『二条城』と呼ばれる城は複数存在しました。

『妙顕寺城』とも呼ばれる豊臣秀吉の二条城(当時どのように呼ばれていたのか不明)が

現在の二条城の東にあります。天守は存在したらしいです。

さらにその東には織田信長が造営し

その嫡男信忠終焉の地『二条御新造』

(ついでに記すとその東には『足利尊氏の館跡』があります。当時二条通は支配者にとって戦略上重要拠点だったわけです)、

その北に目を移すと武衛陣と呼ばれた足利義輝の二条城、

それを後に信長が拡張した足利義昭の二条城。

城だらけです(笑)。

ちなみに徳川家康・徳川家光の二条城天守は天守台の高さだけで21mもあります。

しかし天守自体は1750年に落雷により焼失。

これだけ権力者が次々に建てた城も平安京内に現存する天守はひとつもありません。

平安京自体を要塞化する試みも豊臣秀吉によってなされ御土居と呼ばれる土塁が京の町の周囲を取り囲んでいました(図中両端に見える破線がそれを示しています)。

さらに平安京遷都当時の道も道幅を再現して示しています(グレー細線)。

室町幕府の最盛期の拠点花の御所は御所の背後にありました。

大路と呼ばれていた当時の大通りが破格の道幅だったことがわかります。

いかがでしょうか?

京都在住の方で誤字の指摘、このポイント位置は違うといった指摘があればぜひご一報を!