最近は古い書物(?)を読み漁ってます。
するとある記事が僕の目にとまりました。
『参考落穂集』によると、徳川家康が天正18年(1590年)8月1日八朔に江戸城に公式に入城する際、浦和を築城候補地として検分したが、要害としては良いが船運の便が悪いので取りやめたとあります。
本当ですかこれ?!?!?
そんなこと浦和に30年以上住んでいますが聞いた事なかったですよ…。
だいたい『参考落穂集』…この書物がよくわからない。
徳川家康が江戸城に公式に入城する際、浦和まで北上するルートを通ったのかも疑問です。
でも浦和は岩槻、川越、稲付(赤羽)、大宮(寿能)に挟まれた
戦国時代の城郭空白地帯なんですよね。
砦より若干大きいような小さいお城は点在しますが…
もしかしたら江戸時代ではなく浦和時代もありえたのでしょうか~~?
この件について詳しくご存知の方連絡ください。
するとある記事が僕の目にとまりました。
『参考落穂集』によると、徳川家康が天正18年(1590年)8月1日八朔に江戸城に公式に入城する際、浦和を築城候補地として検分したが、要害としては良いが船運の便が悪いので取りやめたとあります。
本当ですかこれ?!?!?
そんなこと浦和に30年以上住んでいますが聞いた事なかったですよ…。
だいたい『参考落穂集』…この書物がよくわからない。
徳川家康が江戸城に公式に入城する際、浦和まで北上するルートを通ったのかも疑問です。
でも浦和は岩槻、川越、稲付(赤羽)、大宮(寿能)に挟まれた
戦国時代の城郭空白地帯なんですよね。
砦より若干大きいような小さいお城は点在しますが…
もしかしたら江戸時代ではなく浦和時代もありえたのでしょうか~~?
この件について詳しくご存知の方連絡ください。