新編武蔵風土記稿〔江戸幕府が作成した大地誌。文化七年(1810年)起稿、文政十一年(1828年)に脱稿された(1830年説もあり)〕
元太村
元太村は江戸より行程前村〔道祖土村〕に同じ〔六里〕、村の広狭東西十町〔およそ1090m。一町=109.09m換算〕、南北三十町余〔同じくおよそ3270m。〕、東は大田窪〔太田窪〕村に隣、南は大谷場・小谷場の二村に境い、西は浦和宿にて、北は領家・駒場の二村なり。家数九十軒、爰〔ここ〕も天水を湛えて耕せばしばしば旱損あり〔旱魃の被害あり〕。検地は前村〔道祖土村〕と同じくして、其の後明和五年〔1768年〕鵜飼佐十郎、宮村孫左衛門、蔭山外記新田を検せり。御入国〔徳川家康が江戸に入ったことを指す〕の後御料所〔天領〕たりしが、何の頃にや一旦川越城主の領分となりしこともありと、土人いえど詳なることを伝えず。思うに近村白幡村は寛永元年〔1624年〕松平甲斐守〔松平輝綱のことか?〕に賜り、明る二年また御料所となれりとあれば、当村も其時甲斐守に賜りしなるべし、今は御料所なり。
いきなり何をアップしているんだと思うかもしれませんがこれは僕が住んでいるさいたま市の江戸時代の記録です。〔〕内は僕が注釈を入れたものです。
江戸幕府の後期の記録にしてこの程度しかない。
家数90軒???
しばしば旱魃があったって?
いつ誰の領地になったかと言う記録が残っていないとは…。
さいたま市(浦和区)はのどかな場所でした。
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