江戸城、寿能城、会津若松城、躑躅ヶ崎館・武田神社、甲府城と紹介してきました城郭シリーズ。
反応はいまいちですが(汗)
まだまだ続けます(笑)。
まだまだ続けます(笑)。
さて今回紹介するのは岩槻城です。
岩槻城はさいたま市内にある城としては最大のもので室町時代に築かれました。
築城者は諸説あって確定していませんが
最近の説では成田氏が有力となっています。
従来の説では太田道灌が築城した城とされてきましたが、
彼は城を奪った、もしくは城を攻めていたほう…ということになります。
しかし彼の子孫(もしくは親族)がこの城に居住していたのは確かです。
しかしその後、後北条氏の城となり大幅に増築されます。


しかし城の遺構(痕跡)は南側の新曲輪と鍛冶曲輪にあります。

戦国期の後北条氏の築城技術の高さを物語る堀の遺構が素晴らしいんですよ。

後北条氏の岩槻城は小田原の役の際、秀吉軍の総攻撃により2日で落城してしまいました。

城の門などはことごとく破却もしくは移築され、
現在見ることの出来るのは黒門と
裏門のみ。


「(とりあえず)ここに戻しました」みたいな感じではあるのですが
残ってくれているだけでもうれしい。
今回あらためて訪問してみてその縄張りの範囲の大きさと
堀の深さに感動しました。
ところで
今回の訪問で
岩槻城は室町時代の武蔵国内、下総国との国境近くに建てられたとの資料を見つけました。
というものこの武蔵国と下総国の国境は謎が多く、
というか…
歴史に詳しい人ならすでにご存知かもしれませんが、
古代~中世の利根川、荒川は合流して東京湾に流れ込み
その流路は洪水のたびに変わるといったものでした。
そのため周囲は沼沢地で完全に陸地化するのは9世紀以降。
当時の国境を流れていた川の名前が隅田川なのですが、
これが現在の隅田川とはまったく別のところを流れているので混乱に拍車をかけるわけです。
当時の隅田川は現在旧古隅田川として春日部市内をかろうじて流れています。
この流れをたどっていけば国境が画定できるかと思いきや
途中で切れているし…(T T)
というわけで
戦国時代の資料で現在の江戸川を武蔵国と下総国の国境としているものがあったら
それは明らかに間違いです!
武蔵国と下総国の国境は江戸時代
江戸の街が広がるにつれ改定されていったものなのですから…