前回の記事
・「無頼派」が語る 日本社会の『生きづらさ』の正体
『無頼派』とは、動画でもご紹介されているように、敗戦直後の日本文学の一ジャンルで、既成の権威や価値観、上からの道徳や常識にとらわれず、自らのスタイルを貫き通す作家たちを表します。
『【20分解説】堕落論|坂口安吾 ~生きづらいのなら、本気で堕落しなさい~』
https://www.youtube.com/watch?v=WC_rdeN8Blw
ある意味「社会が安定してくる」と、人々は既存の権威やコミュニティに『安住』し、周りから浮き出ることなく、没個性をつらぬき、極度に『堕落』を避けるようになる。
ここでいう“堕落”とは、「自分の本心」を赤裸々にし、まことに自由な発想で物事を考え、それを表に出す行為を言います。ただ移り変わる「社会の表層」に流され、“人間としての本質”を忘れてしまえば、それは先の大戦で生み出した惨禍や、さらに以前の不幸な出来事(関東大震災における朝鮮人虐殺)など、ただ為政者や社会の言うままにコントロールされるだけの『操り人形』になってしまいます。
とりわけ『武士道』や『農村文化』という意識は、ただ「お上に尽くすことを最高善」「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」とした“「思考停止」することを根拠づける諸制度”に過ぎず、それは「安定した現代社会」におけるブラック企業の奴隷労働を蔓延らせる温床となっていると考えます。
ましては、今やコロナとの「戦争中」であり、理不尽な同調圧力や、半ば自決を強要される自粛命令等、それに『なぜ』や『反対』を問うことを“絶対に許さない空気”が、左右中道を問わず日本社会すべてを覆っています。
みんなが世間から「ダメな人」とレッテルを貼られないために、必死に空気を読んで、それが出来なければコミュ力が低いだの、周りとの協調性がないだの、彼らなりの『あらゆる防波堤』を用意する。
表現ひとつとっても、右の天皇陛下万歳から始まって、これは「〇〇のヘイトだからダメ!」とか、「〇〇に対する差別だ!」という、実際は権威大好きな自称リベラルの物言いを見ても、どれだけ日本のアニメをつまらなくさせたか、 「ソレって大人の都合なんじゃないのー?!」 と某有名キャラクターの言葉が即座に思い出されます。
ただ虚しく美しい世界・・・。
戦時中の東京が、真の暗闇に包まれ、泥棒や追剥ぎが一切おらず、人間の本質から乖離した、考えることを忘れて気楽をさまよう『壮観なる見世物』・・・。
現代の世でも、緊急時代宣言で人っ子ひとり居なくなった東京。周りを見渡せば、ほとんどの人々がマスクをして、お上や世間の押し付けた『運命』へ従順になる様は、かつての日本の姿と重なる部分があるのかもしれないと、ふと思った。
あらゆる虚飾や体裁にまみれた、息の詰まりそうな世の中で、本来人間は『堕落』を通じて、あらゆる「汚れ」や「生き恥」を晒して生きて行くことが、まぎれもないリアルであり、人々はそういうものを「必死に隠すこと」に、むやみやたらと労力や精神を砕いたりする。
ニーチェが無為自然の子どものままでいることを、「ラクダ→獅子→幼児」の段階で、もっとも高次な部類としたが、しかし、その道は険しく、あまりに孤独で、人間はそこまで強い生き物ではないがゆえ、坂口安吾が言うように『正しく堕ちきること』が出来ずに死んでいく。
常に周りの目だけを気にして、ありもしない自分を作り、その仮面を被ることによって、『本当の自分』から遠ざかり、傷つかないように、無難な方向に持ち込んで“弱い自分を守る”ことに執着する。
在日コリアンの友人(拙ブログ共同運営者)が、たった一人、マスク人間で溢れかえる街頭やスーパーマーケットに、ノーマスクで買い物に出かけたり、私もそれに倣い、『本当の自分を救うため』の努力は惜しまないつもりです。
誰かが押し付けたルールや規範に、そもそも「絶対」なんてものはないし、それに抗うことを本来民主社会だったら許容されるべきだ。しかし、そうでない人にとっては、他者がこしらえた何重ものフィルターによって、「単なる毒吐き」や「自分勝手な行動」だと決めつけるかもしれないが、『自分への解像度』を限りなく引き上げて行くことによって、また『他者への解像度』も上がっていくことにもつながると思います。
<参考資料>
・Youtube動画 『【20分解説】堕落論|坂口安吾 ~生きづらいのなら、本気で堕落しなさい~』
https://www.youtube.com/watch?v=WC_rdeN8Blw
<ツイッター>
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