前の記事『‐正恩氏を「キチガイ」扱いする西洋白人の思考その1‐ 』(https://ameblo.jp/epikutetosu/entry-12290354073.html )から続きです。


英語ブロガーのMichikoさんブログ記事『Actual target is neither SK nor Japan』から、


そこでMichikoさんが西洋白人たちとのコンタクトを期に、彼らが「異なる立場」「文化」を全く認めないばかりか、ただ一方的に自分たちの認識を主張するだけで、それをさらに「ひたすら正しいこと」として捉え、認められないとあからさまに「悪態」をついたり、議論を放棄し、相手をディスることしかしませんでした。


ここで私が抱いていた「感情的にならず」「建設的なディベートを好む」「理知的な欧米人像」は脆くも崩れ去るのですが、イメージというやつは怖いもので、こうした考えを持っている日本人は、リベラル~中道、保守問わず持っていると思います。



Michikoさんのお言葉を借りると、


ただそこにあるのは、「『文化の違い』というものは、果てしないものがあって、中には、どんなにがんばっても『理解できないこともある』といことを『認める』ということが、最低限の条件のはずなのですが、残念ながら、西洋人には、これがほとんどできません


そして、これは私たち日本人にも言えることではないかと思います。


そこで見えてきたことは、私たちも「上述の『西洋白人的思考』を継承してきた存在」であり、それは近代に入って「帝国主義」を受け入れたときから、「異なる相手を理解する必要はない」「ただ恐怖と憎悪、蔑視の目を向ければ良い」としただけです。


15世紀のヨーロッパで描かれた『悪相のモンゴル兵』というものがあるのですが、文字通り凶悪な顔で描かれたモンゴル人がいて「恐怖のモンゴル」の象徴として、欧州では長らくプロパガンダに使われてきました。


それが近代に入って、ヨーロッパの「アジア蔑視」「アジア征服」における思想的根拠となり、ヘーゲルが唱えた「ナショナリズム史観」、つまるところの『ユーロ・セントリズム』(欧州中心主義)を生み、後E・サイードによって『オリエンタリズム』(ヨーロッパアゲ・アジアサゲ)思想として定義されたのでした。



上述のなかで、再びMichikoさんの論を引用すると、


「西洋以外の文化に対し、『単に下位である』とか『未発達である』というふうに、捉える」


「自分の持っている文化だけで「解読」をしようとします」


という具合に、「異なる文化に対する敬意」がまったくもって存在しないというのです。


つまり、そうした「異文化」や「異なる文化様式を持つ人間の行動」についてまったく無知な彼らは、それに対して「まったく予想がつく」ハズもありませんし、過去の歴史を紐解けば、太平洋戦争時における日米間における「すれ違い」にも、あてはまるのです。



そしてMichikoさんや私自身も思うこととして、「日本語話者」(モノリンガル)の方々にぜひとも覚えておいてほしいとすること、すなわち「自国民を殺す」という行為自体が「最大の罪」とされることです。


「自国民を殺しはじめたら」、もうこいつは「キチガイ」だ、だからもう「何でもやるはず」だから、クズクズしてると「こっちもやられる」、だから問答無用で、何も考えずに「やっつけていい」と認識されるということです。


これはもう「特別な理由」がないかぎり、どの国(とりわけ「独裁国」)にも適用されますし、一番ヘイトを集めている北朝鮮(DPRK)にしろ、反面「莫大な石油利権」を持つ専制国サウジアラビアは完全除外で、「西洋白人」たちの矛盾が大きく露出した形となりました。


そして「自国民を殺したキチガイ国」に対する、西洋白人たちが下した「処断」は、かつて日本に原爆を落としたアメリカの行為そのものに示されるもので、「特攻をやらせた」事実やその他の「自国民(朝鮮・台湾人も含む)」残虐な行いに対する彼らの「回答」だと考えられます。



いずれにせよ、過去における日本の行いが決して良いことでないのは、誰が見てもわかることですが、だからと言って「なんでもやっていい」とするのは別の話です。


無論、毛沢東が異様なまでに「悪魔化」されている事実も、同じ理由です。


無謀な農業政策や、不運な天候不順によって引き起こされた大飢饉が、ゆくゆくは「自国民を殺した」と解釈され、アメリカのように、他所の国へ押しかけて、戦争をやって、国土を破壊し、地元民をたくさん殺すとか、そういうことは、「罪」であるとは思われていません。


それよりも、飢饉で「自国民を飢え死にさせた」から、毛沢東は悪いヤツだと言われているのです。


スターリンも同じです。粛清で「自国民をたくさん殺した」から、戦争をやるよりも、もっと悪いことだと。



日本のリベラルの皆さま方にも、ぜひ認識してほしいことなのですが、「民主主義」か「独裁」かで評価基準を決める思考自体も、ハッキリ言ってしまえば、西洋人の「自国民」さえ殺さなければ、ほかには、大体なにもしてもいいという論理に、あまつさえ利用されてしまうのです。そして彼らはそれを世界各所で「実行」しています。


そうした「禁忌」に恐れ、ひたすら西洋白人の論理に沿う行動を取っていても、ひとたびそれが達成できなくなるや、彼らから「野蛮」「劣等」扱いされ、人間扱いされません。



リベラルの皆さん、「民主主義」という「自国民を殺さない」という思考だけで、彼らと「仲良くなっている」と思っているでしょうが、沖縄でオスプレイを飛ばされ、各地には米軍基地を置かれ、「在日米軍特権」を思うがままに行使する連中は、だれもあなたちを「文明人」として扱っていません。


むしろ、何やらわからぬ「文化」を持つ連中として、「こいつらは、結局俺たちの『文化』(民主主義)で教育してやってるんだ」「じゃないとすぐ野蛮人に戻っちまうからな」と認識されている現実です。



<参考資料・文献>


・Michikoさんのブログ『Cluttered talk blab blab blab』


・『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(杉山正明著 講談社)