前の記事の続きとして、日清~日露戦争・朝鮮(韓国)併合以後において東洋史学者の間から、朝鮮史というものは「満鮮史(満韓史)」という概念に置き換えられ、露骨に朝鮮の歴史的主体性を無視するような研究が横行するようになりました。


無論、これは日本の大陸発展に呼応する変化であり、日露戦争の後、満韓経営の国策会社として南満州鉄道株式会社が生まれると、前述の白鳥庫吉は満鉄総裁後藤新平に説いて満鉄東京支社のなかに満鮮歴史地理調査室を設けさせ、満韓(満鮮)の歴史や地理の研究を始めました。


前期の池内・津田・稲葉はここで養成された人々で、この人々はやがて日本の東洋史学・朝鮮史学の中心的人物となるが、ここで始められたのは朝鮮史研究ではなく満鮮史研究でした。



朝鮮史は朝鮮民族の主体的発展の歴史ではなくなり満州を含む大陸史の一部に吸収され朝鮮は単なる地域の概念となり、朝鮮の歴史は朝鮮民族の歴史ではなく、朝鮮半島に生起した歴史、とくに半島に攻め寄せた大陸勢力の波動としての歴史とみなされました。


これが所謂「他律性史観」であり、政治も社会も文化も、すべて外来のものに圧倒され、外来のものを模倣し、自主性を欠くという考えが支配していきました。


こういう朝鮮観は、朝鮮民族運動が高まったときには、それと正面からぶつかり、三・一運動のあとで朝鮮人知識層のあいだで檀君神話が強調され、檀君自体は朝鮮固有の建国神あり、その神話の強調は民族意識のあらわれです。これに対して「満鮮史」の最も強い主張者の稲葉岩吉は満鮮不可分をとなえて批判しました。


彼は檀君神話の架空性を指摘したのち、朝鮮歴代の王家は満州あるいは大陸の敗残者が朝鮮に逃入したものであり、朝鮮と満州とのあいだには歴史上には国境がなく、朝鮮・満州の経済も相互依存的であったといい、朝鮮の独自的存在がありえないことを主張しました。



このような一定のバイアスに基づく「結論ありき」の暴論のような歴史観は、戦後において全く淘汰され、満鮮史という言葉はきれいさっぱり消滅しました。


ところが、現在では北朝鮮や韓国を含め「中国の万年属国」だと言ったり、「エベンキ族が古代朝鮮人を皆殺しにして国を建てた」だの、当地域の独自性や自主性を無視したネトウヨの言説は、カタチを変えた現代の「他律性史観」と言えるでしょう。



<参考資料>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房