歴史学やその他一般に広く流通している時代区分の言葉として、「古代・中世・近代」がありますがこれらの言葉の意味を考えて参りたいと思います。


つまりそもそも、なぜこのような言葉が生み出されたのか、そしてそれはいつで、なぜ「3つの区分」なのかということについて見てみましょう。


厳密に言いますと、「近代」は広い意味では中世以後の「近世」を含む言葉で、狭義では19世紀以後の世界史を表します。また西洋や東洋で「古代・中世・近代」の枠組みも、各地域でばらつきが生じます。



ときは15世紀末、イタリアで花咲いたルネサンス文化にまでさかのぼって当時最先端の思想の牽引者だったクザヌスやヴァラ、マキャヴェリなどといった人文学者たちが作り上げた「ルネサンス史観」の名の下、それ以前の中世時代を「死の時代」と蔑んでヨーロッパ文明の長い荒廃期と位置付けて古代の栄光に満ちたギリシア・ローマ時代を「生の時代」としました。


言いかえれば、最初の古代を「光」それ以後の中世を「闇」として新たに「生(光)」を取り戻すかたちで暗黒の中世の死の淵からよみがえったルネサンス時代を「再生の時代」としました。


注意していただきたいのが、この時点では「古代・中世・近代」という概念はまだ生まれていなく、便宜的用法で古代の「ギリシア・ローマ文明」と中世の「不幸な中間期」そのものが重要視されました。




それゆえに、ルネサンスは「新時代の出発点」であるとし同時に「古典への復帰」も打ち出され、ギリシア・ローマ文化の享受や尊重が大いに奨励されました。

そういう「一度限り」の「生(光)・死(闇)・再生」の構図が、古代のキリスト教直線史観論による認識で持ち出され、単なる循環ではない「はじまりからおわり」までの刹那的な流れにおいての発展段階として存在しました。


また単純に「発展段階」と言いましても、その中で当然として中世蔑視が行われ、ゆくゆくは「古代」と「近代」だけが価値あるものとして提唱されましたが、ルネサンス史観とはそういうものでした。さらにこれが啓蒙時代にまで引き継がれていくと、より客体化されて歴史を見るひとつの基準として定着し、17世紀にもなるとオランダのケラーという学者が自身の著である『世界史』にて「古代・中世・近代」という時代解釈を記すことによって、いよいよそれが表の学術舞台に登場して参りました。


これが19世紀にまでいくと、ヘーゲルが『歴史哲学講義』(1822~1831)にてルネサンス・啓蒙史観と同じ立場でもって「中世蔑視」の記述をとり、同時にユーロセントリズム側でのアフリカ・東洋蔑視、オリエントからギリシア・ローマ文明の賛美、さらに進んでキリスト教的ゲルマン主義による「歴史発展」を描き、このモデルをマルクスがそのまま受け継いで古代奴隷制社会、中世封建制社会、近代ブルジョア制社会という図式で、この「古代・中世・近代」という歴史基準は、形を変えて実に幅広い分野で受け継がれその射程は驚くほどに遠大です。



<参考資料>

・大学資料