社説-Editorials


A級戦犯法要



聞きたい首相の歴史観



「私人としてのメッセージ」で済む話ではないだろう。

安倍首相が今年4月、A級、BC級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に、自民党総裁名で哀悼のメッセージを書面で送っていた。


「今年の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」


送付先は、高野山真言宗の奥の院(和歌山県)にある「昭和殉職者」の法要。


碑は、連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」とし、戦犯の名誉回復と追悼を目的に20年前に建立された。名前に刻まれている人の中には、東条英機元首相らA級戦犯14人が含まれている。首相は昨年と04年の年次法要にも、自民党総裁、幹事長の役職名で書面を送付していた。



菅官房長官は会見で、内閣総理大臣としてではく、私人としての行為との認識を示した。

その上で、「A級戦犯については、極東国際軍事裁判所(東京裁判)において、被告人が平和に対する罪を犯したとして有罪判決を受けたことは事実」「我が国はサンフランシスコ平和(講和)条約で同裁判所の裁判を受諾している」と述べた。



戦後69年。このような端的な歴史的事実を、いまだに繰り返し国内外に向けて表明しなければならないとは情けない。


日本は、東京裁判の判決を受け入れることによって主権を回復し、国際社会に復帰した。同時に、国内的には、戦争責任を戦争指導者たるA級戦犯に負わせる形で戦後の歩みを始めた。



連合国による裁判を「報復」と位置づけ、戦犯として処刑された全員を「昭和殉職者」とする法要にメッセージを送る首相の行為は、国際社会との約束をないがしろにしようとしていると受け取られても仕方がない。いや、何よりも、戦争指導者を「殉職者」とすることは、日本人として受け入れがたい。戦後日本が地道に積み上げてきたものを、いかに深く傷つけているか。自覚すべきである。


首相の口からぜひ聞きたい。


多大なる犠牲を生み出し、日本を破滅へと導いた戦争指導者が「祖国の礎」であるとは、一体いかなる意味なのか。あの戦争の責任は、誰がどう取るべきだったと考えているのか。


「英霊」「御霊」などの言葉遺いでものごとをあいまいにするのはやめ、「私人」といった使い分けを排して、「魂を緒として」堂々と、自らの歴史観を語ってほしい。



首相には、その責任がある。



朝日新聞 2014年(平成26年)8月29日 金曜日 13版 オピニオン 第16面




はてさて、安倍氏の言動にはつくづく呆れと軽蔑を避けられない。



彼の取り巻きは一体何を考えているのか。


自らの首を絞める形で追い込まれた大日本帝国は、世界を相手に侵略戦争を開始し、派手に大負けをして国を失った。本来ならば、あのような大それた蛮行について、「当然の報い」を受けた形のドイツの戦後処理とくらべ、その降伏条件は「大甘」すぎるほどでした。



なのに安倍氏をはじめとする日本の右翼や極右の集団にとって、あれが「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」だというのは、言語道断でありましょう。


彼らは半ば感情的かつ情緒的に、素朴な印象論で物事を計り、英霊」やら「御霊」という呪術的な言葉でごり押して、それが世界に対する「反論」ならば、まっさきに嘲笑と非難の対象となります。



時の同盟国であったドイツ第三帝国は、名実ともに分割統治という形となりましたが、日本はそうならず、むしろアメリカの絶対的庇護下において、ぬくぬくと国力を蓄積できた恩恵が与えられ、かつて植民地だった朝鮮半島がなぜか「分割」されて、あの悲劇的な歴史を歩みざる得ませんでした。


現代の日本は、そういう恩恵や悲劇の「享受」によって繁栄し、それに奢り高ぶって「自分たちの力」と勘違いし、アジア諸国への戦前的高圧的態度を変えずに今日まで来ました。




私たちは、あの戦争をもう一度考える必要があります。


そして、その戦後処理がいかに曖昧で杜撰なものだったのか、最大の戦犯である総司令官の昭和天皇博仁は、おめおめと落ち延びて死に、戦争の起動因であった一般民衆も、なぜか「被害者の面」だけ強調される始末で、70年たった今においてその全てを忘れつつあります。


また右翼・極右に至っては、東京裁判史観」と称してポツダム宣言を否定、それは今の国際社会のルールやシステムをひっくり返すものであり、サンフランシスコ講和条約で主権を回復して、その土台にたった自由や人権主義を否定する、それは現在の日本を放棄するということです。



そうなると、よく彼らが連呼繰り返す、中国や韓国に対して行う領土問題における「国際法の論理」も、北朝鮮に対する「国際社会の論理」も全て捨て去るということになり、なんら説得力をもたなくなるでしょう。



つまり、世界のすべてから背を向けて、永久孤立の道を突き進むということです。

もっとわかりやすく述べるならば、再びアメリカの占領植民地に戻るということになります。


彼らはそういう論理構造も理解せず、簡素な感情論ばかりでしか物事を考えられない究極の未開人ですが、同じ朝日新聞のページの「声」の欄にて、とある大学非常勤講師の方が「靖国神社の一方的合祀問題」を取り上げられて、戦死された兄が戦犯たちと一緒に祀られることについて深い憤りを示され、「いったん合祀した霊は一体化し、分離も選別もできない」と突き放す靖国神社側、そこには「北鮮・南鮮」と称された粗末な一本桜に押しこまれる朝鮮兵士や台湾兵士も含め、その他の海外の方々が愚弄されるように祀られ、本来神道ではないキリスト教や多宗教の方々も一方的に組み込まれて、「霊の所有権」は当氏がおっしゃられるように遺族側にあるのが本来なのに、靖国は己の存在理由に固執するがゆえに「英霊」を独占し、なにより了見が狭い。



私が思うこととして、大いに甘やかした右翼や極右は、現在でも増長し真の意味で魂を冒涜し、そこに「戦前的序列」を設けることによって自我を存立する、こういう思い上がりを現在でも許している社会、また国学原理主義の靖国神社以外にも、当記事で明らかになった和歌山の奥の院の真言宗についても、仏教の理(ことわり)に反する異端的思想があるということ。いずれにしても、今日の右傾化する社会にてそれらの思想が大いに奨励されている事実、今となって考えるならば、日本の戦後処理はもっともっと過酷であった方が良かったと思います。




<参考資料>

・朝日新聞 2014年8月29日 金曜日 記事