今日の、朝日新聞の第1面の、「日本はどこへ4」(集団的自衛権)を、ご覧ください。



対日強硬派 利する危うさ



東アジアは今、中国の台頭によって、劇的な変化を迎えている。


習近平指導部の拡張路線は、急激であり、地域の秩序を破壊しかねない膨張である。

安倍晋三首相はが集団的自衛権の行使容認の理由にあげた「安全保障環境の変化」は確かに存在する。


そもそも歴史上、東アジアに二つの世界的規模の大国が共存したことはない。

あつれきは今後も、さらに高まるに違いない。


しかし、ここで、私たちはもう一つの重たい現実を忘れてはなるまい。


「戦争はいやだ。(集団的自衛権)反対」。戦中、日本に強制連行された元労働者の一人、張世傑さん(88)は北京の自宅で、そう短く語った。韓国(朝鮮)からも、再び朝鮮半島に日本の軍靴が響くことは許さない。といった懸念の声が伝えられる。


今回の安保政策の転換によって、この地域の民衆レベルで「再び戦争をしようとしているのは日本である」といった警戒感が高まっているのは事実である。



「(戦争は)断じてありえない」と安倍首相が語っても、それは響かない。



日本の侵略や植民地支配の記憶は、今も深く刻まれている。当局の反日プロパガンダと片付けるわけにはいかない。慰安婦や靖国参拝といった歴史問題での安倍首相の言動に対する不信が、こうした感情をことさら敏感にさせている。


今月下旬に、日清戦争の開戦120周年を迎える。


人々が思い起こすのは、朝鮮半島にいる自国民の保護との名目で、日本軍が出兵していたという歴史である。


「日本の軍国主義は中韓(朝)両国に野蛮な侵略戦争を発動した」。4日、習氏は訪問先のソウル大学で訴えた。共産党政権は格好の口実を得た形で、来年の終戦70周年に向け、対日批判の宣伝を強めている。


こうした中国に対し、米国は「封じ込め」だけではなく、「協調」も進める。同盟国との関係強化で対中包囲名を形成しつつ、交流を深め、決定的な対立を回避しようとのしたたかなアプローチである。



安倍政権がやるべきだったのは、この地域の民の感情に気を使い、説明を尽くし、不信を解いていく努力ではなかったか。


日本への警戒の高まりは、かえって中国内部の対日強硬派を利する危うさをはらんでいる。十数億人に上る東アジアの人々を敵に回すような「抑止力」はむしろ、日本の安全を脅かしかねない。



                                                 

                                                  中国総局長 古谷 浩一




朝日新聞第1面13版 2014年(平成26年)7月5日




ここでひとつ述べておきたいことは、日本も、「十数億人の東アジアの民」のひとつであること。


それを忘れてしまっては、過去の「脱亜入欧」ごとき、準白人種のアジア人士という、わけのわからぬ思考に陥ってしまう危険性があります。



上述のことを、頭に入れた上で、考えていきますと、日本の行っていることは、実にまずい。

今回は、その理由をまずに述べるとして、引用した朝日新聞含め、日本のメディアは、盛んに中国の「台頭、台頭」と連呼して、その「特異性」を強調しますが、身丈の合わぬ、上から目線なのか、はたまた、単に恐れているのか、無知なのか、いずれにおいても、かつてのような、「伝統的東アジア」に回帰しただけであり、長い歴史からみれば、きわめて「正常」なことなのです。


この際、中国の拡張政策とかは一切抜きにして、その認識論を広げてゆきますと、古来からの、周王を戴く、最古の「君臣システム」から、律令体制を経た、壮大な朝貢体制に至ってまで、「徳の文化圏」であり、その詳細は、伊藤先生のブログ記事『「天子に非ずして、諸侯相送るには境を出でず。我、もって燕に礼なかるべからず」 』をご覧になればわかると思いますが、各国の趨勢が、西洋的な「力」ないし「冷徹な条約」によって、決まるのではなく、ある種、「非合理的」な、「仁徳」によって、のちの皇帝の行動規範においても、儒教を中心とする、「徳」(いわば人徳<人格>)がなければならないとして、その原点の、春秋時代は、特にその色合いが濃厚で、人の世というものは、先生の提示された故事の、礼にかなった奥床しい振る舞いは、諸侯の間で高く評価され、諸侯の気持ちが一致するかたちで、斉の桓公は春秋時代の覇者となり、周の王室への勤皇を諸侯に勧める立場になった、古代中国の逸話から、現代の中国人においても、その思想は共有され、Michiko女史が、盛んに、海外の中国人の方々との交流で、彼らが、とても詩文や故事成語を好んでいて、ひとかどの人間として、当然備えておくべ「教養」、一種の「表現の手段」であります。



 この種の古代中国の逸話に関しては、欧米人は理解できないでしょうが、中韓日の三国であれば、皆が「春秋」も「史記」も読んでいますから、すぐに理解できると、先生はおっしゃられ、私自身、民衆レベルにおいて、古典の知識が普及している中国や朝鮮(韓国)において、それは一種の「儒教的外交」と申しましょうか、対する我が国における状況は、若い人間から年寄りまで、はたして出来ているのだろうか、中には、博識を気取る形で、本質を応用できない人や、およそ儒教すら知らない者、右翼やネトウヨのような、「脱亜きどりの名誉白人」などを含め、随分と悲惨な状況であると思います。


ほんとうを言えば、過去に日本の戦争犯罪によって多大な迷惑をかけた国と領土争いはしたくないから、竹島・独島、尖閣・釣魚島を譲ります、と日本が言えば、金持ち喧嘩せずの大人(たいじん)の国としてアジア社会では評価されるようになり、中国や韓国の日本に対する態度も大きく変わり、批難から尊敬へと感情が動いて行くに違いなく、近隣諸国との安定が確保され、軍事費に金を使う必要もなくなり、国際的な信用も高くなり、幾つかの岩山とは比べ物にならない、大きな利益が日本に転がり込んでくるという、先生のお言葉は、私はすんなりと理解できます。


さらにこれを、北朝鮮との関係とも応用し、今日の朝日新聞の二面に書いていたような、「相手を屈服させる外交を好む」とレッテルづけたり、「メンツばかり重んじる国」というのは、とくに後者に至っては、落第点の不合格で、日本の「識者」連中が、いかに、アジアの文化圏の知識がないというか、近代を経て、これほどまでに、日本の儒教意識は、ボロボロになってしまったのかと、半ば、失望と呆れであふれております。


まあこういうと、国内の、自称愛国者さん方が、顔を真っ赤にして怒りだすと思いますが、そもそも、彼らは、思想的母胎として、国学や、「記紀」(古事記・日本書紀)を、異常に崇拝しているとして、そういう、薩長的日本教信者にとっては、「そこに書かれていること」は、全て「真実」であると思うならば、「日本の領土は大八島のみ」であり、沖縄や蝦夷が島や竹島は当然入らない、後の、律令制の分国にも、蝦夷地と琉球は入りません、蝦夷守や琉球守はいません。北は津軽の外ヶ浜、南は薩摩の坊津、が日本の最北端と最南端だと長く考えられてきました。


そこまでは国生みで生んでいるわけです。日本神話を正しいとするならば、国土も国生みで生まれたところとしてもらわなくてはなりません。



このように、上述の「大矛盾」から類推しても、極右やネトウヨ連中の、領土争いする口実が、成り立たないわけです。



そういうのを無視して(はたまた知らないのか)、大国気どりの「アジアの盟主」を自称する形で、かつては、「八紘一宇」(はっこういちう)を唱え、「ださい世界征服」をたくらんで、逆にぼこぼこにされた経験もあるのに、再び謙虚さを忘れ、右傾化する始末です。


そんな中、Michiko女史は大切なことを述べられており、


「おまけ」として生きる、「世界の中心」とか「その重臣」ではなくて、「おまけ」としてどう「よく生きるのか」ということが、最初から日本人の課題なのであって、これは変わらないものとし、世界史では、「おまけ」のような国が、ずっと後になってから「中心になった」ということは、ないのです。なるのならば、けっこうすぐに「なって」、でもけっこうすぐに滅びたりしています。

金印から数えればたぶん2000年になりますが、こんなに長いこと「おまけ」をやってきた民族が、今から「中心になろう」と思って「中心になる」ということは、有り得ません。



有り得ないということを知っているなら、そして、おまけとしてよりよく生きる方法をこそ、探すべきだということを、知っているなら、「もっと栄えないといけないんじゃないか」「けっこう稼いでいるから、もっと威張ってもいいんじゃないだろうか」などと、いろいろ迷う必要もなくなって、本当は、もっとラクになるのです。
「稼いでいるわりにはいつまでも威張れない、それがなんとなくトホホである、このままでいいんだろうか」、日本人ならば、そんなことで悩む必要は、本当はぜんぜんないのです。



話は続き、先生も、

世界史的に見れば日本という国は、15年戦争で暴虐なことをやった、という以外は特筆大書して書かねばならないところの全くない、田舎の4等国【4島国】だったわけで、中国史の中で倭が出てくるところは、千ページの本であれば2ページくらいでしょう、本当にどちらでもいいのです。

ペリー来航が無くて、今でも日本が鎖国していて参勤交代をやっていても、世界は少しも困らないはずです。そんなていどのものだと思うべきです。


日本史だけを見ているとそれが分からないのは勿論ですが、今のマスコミが、日本が些細なことで世界で少し話題になるとそれを針小棒大に報じて、世界が日本に注目しているようなデマを流し続けていることに対して、なにか凄く嫌な空気を感じています。とされておりました。


ここから、先生や女史、自身の論を織り交ぜるかたちで、日本には漢字が渡来する以前には文字は無く、贈従三位などといったかたちで、受勲のときに今でも続いている律令制の位階も、天皇という称号も中国から借りてきたもの。これを、日本は、太古の昔から、使ってきたと勝手に自称し、独自の認識論をたてるかたちで、「皇」という文字にすがりつき、過去に、何百歳も生きた天皇を平気で史実とし、お得意の「万世一系」論を構築、実態は、始皇帝の永続皇帝論の模倣なのです。



こうやってみると、中国の衛星国、それも韓国とは違って出来のよくない不良息子のような衛星国です。

周辺諸国よりも早く西洋化したことだけが自慢のタネなのですが、中国や韓国に追いつかれてその自慢も怪しくなると、今度は頭ごなしの差別と敵意に移ります。

中国や韓国は、手に負えないアジアの三男坊だなと思っていることでしょう。


ゆえに、要するに、日本というものは、どう考えても、黄河文明のオマケ的存在というのが、正しいのです。

ほかのなんらかの文明の一部では、絶対にありませんし、かといって、日本文明という、独立したものでは、有り得ません。

となると、世界史的には、黄河文明のあとのほうに、「はしっこのほうに、ついでになんかできてたみたいだよ」「ああそう、そんなオマケがあったんだね」と、そういうのが「日本である」という認識が、正しい解釈なのですが、終始、アジアへの上から目線な「史書」である、記紀や、それによると、大昔から、朝鮮半島を植民地経営していて、中華帝国の南朝歴代国も、倭の朝貢国という、ありえない論理展開をする始末、

これまた実際は、南閻浮提の中の東海の粟散国、というのが日本の位置づけですから、世界は勿論のこと、アジアの中心ですらありません。


戦前に、アジアの中心のように思い上がって手痛い敗戦を喫したので、戦後はそのような思い上がりはなくなり、敗戦国として分相応にといった気分できましたが、21世紀に入って日本の経済成長が停滞すると共に、逆に日本が世界の中心なのだといった妄想が、日本社会に広がってきました。


そんな中で、現実論を飛び越える勢いで、さかんに「中国の『台頭』」と叫ぶのは、あながち不思議ではないでしょう。

現実が見たくないという心理からくるもののような気がしますが、現実を見ないで世界の中心と言い立てるようなことが、長く続くはずがありません、いずれは痛い目に遭うことになります。



上述のような、「雰囲気」は、現代においてまたぶり返しており、安倍氏や、大方のメディアにおいても、認識は共有されていると思いますし、いかに世界で日本が「絶賛されている」報道に終始して、「中韓は反日結託している」とした、読売新聞、「朝鮮」と呼ばず、「北」という「蔑称」を使う、テレビ新聞メディア、「万景峰号往来拒否」における、在日朝鮮人の本国の親戚援助や、人的交流の阻止を、「まっとうな制裁措置」と理解する社会全体含んで、どれもこれも、人権意識や、根本的な知識不足もそうですが、前述の、長い文における「日本の認識論」が、いかに高圧的で、無理解で、半ば差別的であると同時に、かつてのような、「儒教の友邦」意識を忘れて、前近代の、江戸時代においては、非合法とされた国学思想、その空虚な優越思考なるものすべてが、近代において「普遍化」され、人々の認識を毒しているか、それゆえ、日本を批判するすべての行為が、「反日」とされて、適切な論証を返さず、いやそもそも、まっとうな感情があるのなら、慰安婦問題や、種々の歴史問題と正面から向き合い、「日韓会談で解決済み」と放言せず、北朝鮮や中国とも、積極的に意見交換していくべきでしょう。




<参考資料>

・朝日新聞2014年(平成26年)7月5日記事

・伊藤浩士のブログ『人生は不可解なりと滝に死す2014-06-06 07:28:37

・同ブログ『「天子に非ずして、諸侯相送るには境を出でず。我、もって燕に礼なかるべからず」2014-06-01 21:17:05