社説(Editorials) 


表現の自由「あいつが悪い」のか?



社会がしぼんでいる。



憲法が悪い、ネトウヨが悪い。中韓が悪い。そうやって次々と「あいつが悪い(自分は悪くない)」で物事を単純化すると、スッキリする。しかしみんながスッキリしていても、誰もが生きやすい、豊かな社会は成り立たない。批判を恐れ、人々は委縮するばかりだ。



「表現の自由」をめぐる現状を例に、考えてみたい。

NHK経営委員という公人が、都知事選の応援演説で他候補「人間のくず」とののしっても、「表現の自由」として許される。



一方、東京都美術館は今月、展示されていた作品の一部、「現政権の右傾化を阻止」などと書かれた紙を撤去させた。昨年7月の参院選前には、東京都千代田区立の図書館で開催が決まっていた映画「選挙」の上映会が、内容に懸念があるとして中止されそうになった。



いずれも苦情があったわけではない。館の自己規制だ。

美術館や図書館といった公共施設は、表現の自由が最も守られる場所であらねばならない。



多様な価値観を擁護し、新たな価値観を創出するという社会的使命を忘れ、安易な自己規制に走る。それがどれだけ社会を委縮させるか、自粛すべきだ。その上でもう一歩分け入ってみる。そもそも、このような「べき」論を支える社会的基盤が弱っているのではないか。



「官僚たたき」や行政の無駄に対する批判の中で、03年に新制度が導入され、公共施設の運営が民間に委託されるようになった。例を挙げた2館も、公益財団法人や企業が自治体から運営を請け負っている。

各施設でサービス向上、集客増などの成果があがる一方、運営に関わる人からはこんな声も漏れる。

「外部からクレームがつくと、自治体から契約を切られるかもしれないという不安がある。表現の自由を守るために踏ん張れといわれても、厳しい」



「効率」や「利益」が優先された結果、数字には還元されない「表現の自由」のような公共的価値は脇に置かれる構造が生まれてしまっている。



さあ、どうしよう。

まず私たち一人ひとり「あいつが悪い」から抜け出すことだろう。社会の豊かさとは何か、自分の問題として引き受け、しぼんだ社会に少しずつ息を吹き込んでいくしかない。面倒だしスッキリもしない。でも、誰かのせいにしているだけでは社会の委縮と自粛が進み、息苦しさは増す。




            朝日新聞2014年(平成26年)2月28日 金曜日 12版 オピニオン 第18面




一見まともそうに見えるこの社説ですが、実はとんでもないほど高圧的な「一緒くた」操作が行われております。この記者は、「誰かが悪い」ということについて警鐘を鳴らしているのでしょうが、こういうタイプはネットにもちらほら見かけます。その有名な例が「在特会も悪いが、シバキ隊も同じ」です。


ろくに内状を知ろうともせず、己の浅はかな見識で同じハンコ絵として分別する。「ネトウヨが悪い」として、それでは一方的に「害虫」扱いされる在日の人々や、それに反対する反レイシズムの人々に対して「あなた達は、ネトウヨや極右と同列だ」など、あまりにも強引であり、失礼な対応ではないでしょうか。


ただでさえ、圧倒的マジョリティ下で苦しんでいる在日の人々は、少しでも反対意見をしようならばと、当局の圧力をかけられたり、ネトウヨの執拗な殺人教唆や、その他卑猥な文言や数々の罵詈雑言を浴びせつけられます。それなにのこの記者は、一体何を見て、推測するが故に私たちがあたかも「無思考的」にネトウヨを貶めている「ネトサヨ」として決めつけているのでしょう。


こうやって簡単な「どっちもどっち」論を展開して「スッキリしている」のは、記者の方じゃないでしょうか。


問題の本質は、「人権思考の未発達」と「政治・社会的問題への破滅的無関心」でしょう。

たしかに、この記者が述べるように、「効率」や「利益」が優先され、「表現の自由」はないがしろにされているのは事実ですし、在特会のような、他者の尊厳や人権を蹂躙して「憲法問題」を誘発させるような輩たちに、無論「表現の自由」なぞありませんが、そういう「表現の放縦」が、極度に右傾化した現政権や社会が、正しく理解できていないのが、ひとつの大きな問題でしょう。


むしろ現政権(安倍)は、元来日本国民が曖昧な「自由」への認識を利用して、次々と個々人の人権を抑制し、既得権益層だけが潤う集団主義を構築、その上に解釈改憲という「猛毒」と憲法9条改正という「毒」、後者がマシに見える構図が、何よりも恐ろしいことなのです。


記者が提示された「社会の豊かさ」を、私なりに考えてみると、日本国民の知的レベルの驚くべき「低さ」が露呈し、これは別に「筆者の私が頭が良い」というわけではなく、むしろ私は頭が悪い方ですが、それよりも「一般の平均値」がものすごく低いのです。


単純に「低い」といっても、知識の分野は無限にありますし、その練度も尺度もさまざまなのですが、とりわけ歴史・政治・社会分野において、「自分たちの気持ちのいい認識」だけを共有する集団と、それに対して「まったく無知な集団」、「そもそも全てに興味がない集団」、その他の類型はあるのですけど、そういう「負の集団」が、選挙時にもろに影響し適切な候補者が選出されないで、ますます政治は混迷、体制迎合主義が横行し社会知はますます削がれるという悪循環は解かれないでしょう。


「自分には関係ない」と思っていたら、いつのまにか生命が脅かされているのです。

確実にこれは全体に波及します。




<参考資料>

・朝日新聞2014年(平成26年)2月28日 金曜日 記事